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2011年12月16日金曜日

ヴェーバーの「意味」概念の定義 (の「超訳」の試み)

「定義」というより「用法の限定」というべきかもしれないが、とにかく「社会学の基礎概念」にてヴェーバー曰く、

»Sinn« ist hier entweder a) der tatsächlich α. in einem historisch gegebenen Fall von einem Handelnden oder β. durchschnittlich und annähernd in einer gegebenen Masse von Fällen von den Handelnden oder b) in einem begrifflich konstruierten reinen Typus von dem oder den als Typus gedachten Handelnden subjektiv gemeinte Sinn.

さて、清水幾太郎訳『社会学の根本概念』(9頁)では、こう訳されている。

本書でいう「意味」には、大別して、次の二つの種類がある。(一)(イ)或る歴史上のケースにおいて、一人の行為者が実際に主観的に考えている意味、(ロ)多くのケースを通じて、多くの行為者が実際に平均的近似的に主観的に考えている意味、(二)概念的に構成された純粋類型において、類型として考えられた単数或いは複数の行為者が主観的に考えている意味。

阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』(7頁)ではこうだ。

「意味」とはここでは、a)事実的に、α. 歴史的に与えられた一つの場合に一人の行為者によって、またはβ. 平均的かつ近似的に、与えられた多くの場合に諸行為者によって、主観的に思念された意味であるか、あるいは、b)概念的に構成された純粋型において類型として考えられた行為者または諸行為者によって主観的に思念された意味のことである。

いずれも、原文に合わせて一文で書こうとした結果、非常にわかりにくい文章になっている。でも、文を分ければもっとわかりやすくなる。次は私の試訳。

本書でいう「意味」とは、行為者が主観的に思念した意味のことだ。まず、(a)この行為者が歴史上の実際の事例に登場する場合を考えよう。(α)事例が一つでそこに行為者が一人登場するだけなら、この人が思念している意味が「意味」だ。他方、(β)事例が複数の場合は行為者も複数なので、この複数の行為者が思念している意味を平均したものを、近似的に「意味」とする。次に、(b)純粋な類型を概念的につくって、やはり類型として考えた行為者をそこに登場させる場合を考えよう。この場合は、そこに登場するのが一人でも複数人でも、この類型的行為者が思念する意味が「意味」である。

まあ、こういう「超訳」が嫌いな人はいるかもしれないが、こうした方がわかりやすいのは明らかなわけで、せっかく訳すならこのくらいわかりやすくしないと意味がない(原書で読んだ方がまし)と思うわけで。(原書がわかりにくいなら訳書もそのわかりにくさを反映すべき、という変態のことまでは知らん。)

実際、現実の行為者が複数の場合について、既訳はどちらも、この複数行為者がみんなそろって「平均的かつ近似的」に「思念」しているかのように訳しているが、それでは「平均」とか「近似」という言葉を使う必要はないのであって、ここは間違いだろう。

2 件のコメント:

  1. 私はしがない哲学徒ですが、哲学でも残念な訳書が散見されます。最近の中山元さんや長谷川宏さんの仕事に期待しつつも、たけみたさんの様なお若い方が、このような分野でも活躍されるようになれば、哲学でも社会学でも、裾野が広がると思います。

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  2. コメントありがとうございます。読みやすさ重視の新訳関係は社会学よりは哲学のほうが一歩先んじている気はしますけどね・・・ いろいろとやってみようとは思っております。

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