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2012年3月20日火曜日

Reality, Construction and the Social

昨日みつけてTwitterでネタにした話。

Peter L. Berger and Thomas Luckmann の『The Social Construction of Reality』といえば、1966年刊行の、社会学の現代的古典ともなっている本で、昨年物故した山口節郎による『現実の社会的構成』という邦訳が出ている(昔は『日常世界の構成』というタイトルだった)。


その30年後の1996年、哲学者の John R. Searle が『The Construction of Social Reality』という本を出して、みんなが一斉に「まぎらわしいわ!」とツッコミを入れたのは記憶に新しいところである。


ところがそれから16年を経た今年2012年、 Dave Elder-Vass という人が満を持して『The Reality of Social Construction』を出すというので、私は昨日一人で盛り上がっていたのである!



前二者ほど有名になるかどうかはわからないが、今後関連論文の文献一覧にこの3つが入り乱れるかと思うと、胸が熱くなる次第である。(校正担当の方、お疲れ様です!)

2012年2月6日月曜日

システム合理性概念の規範論的解明

日本社会学会第75回大会(2002年12月18日・大阪大学)での報告(D1=25歳のとき)。


報告要旨(エントリー時)

ルーマンの理論構築上の目標の一つに、経験的研究と規範的研究との再結合があることは言うまでもない(「機能的方法とシステム理論」最終節や『目的概念とシステム合理性』結論部を参照)。私見ではむしろ、ルーマン理論のその他の部分は究極的には全てこの目標に関わってくるのであり、そうした観点からの研究こそが真に有意義なルーマン論を提供すると思われる。実際、ルーマンが自分の営為を称して呼ぶところの「社会学的啓蒙」のプロジェクトが直接の批判対象とする方法論的態度は、アプリオリな規範的準拠点を前提とした「理性啓蒙」ではなくて、そうした態度が失墜したことによって生じた、規範的目標を完全に放棄した「暴露啓蒙」なのである。合理性をめぐる議論に関しても同様で、「システム合理性」が直接の批判対象としているのは、目的達成に資する最適手段選択を規準とする「目的合理性」ではなくて、そうした規準が失墜したことによって生じた、合理性判断の放棄という事態なのである。いずれの場合にも、目指されているのは科学性と規範性とのトレードオフを克服して、両者の折り合いをつけることである。そしてここで問われるべきことは、この課題をルーマンがどのように解決しようとしており、どのように失敗(あるいは成功)しているかを解明することである。

本報告は以上のような観点に立ったルーマン研究の一環として、システム合理性規準が、従来の合理性概念のどのような点をどのように改善するものであるか、ルーマンによるシステム/環境理論(「世界」と具体的実現との中間領域に「両立不能な複数可能性の限定的共在」として成立するシステムという表象)の提唱がどのように資するものであるかを解明する。さらに、オートポイエシス理論導入による「システム/環境の差異のシステムへの再導入」というシステム合理性の新しい(ほとんど意味不明な)定式化が、「パラドクス」と呼ばれるシステム崩壊(オートポイエシス停止)のシステム内在的契機と密接に関係していることを明らかにする。

以上の解明の中で、彼が科学性と両立する規範的研究にどのような条件を要求しているのかが浮き彫りになる。その重要な一つに「相対性」が挙げられる。特定のシステムに対する規範的言明は、当該システムを分析することによってはじめて、そのシステムにとってのみ有意味なものとなるのであって、一般的抽象的命法からの特殊具体的演繹としては出てこない。このような意味での相対性が、特定のシステムの内部で通用する規範的言明が、一度その外部に出ると必ずしも通用しなくなるという意味での「相対性」とは異なることに注意しなければならない。本報告が対象としているのは、システム内部での規範的言明ではなく、システムに対する理論家の規範的言明である。


報告原稿(エントリー時)


本報告の目標は二つである。一つは、システム合理性概念がルーマン理論全体の中でどのような位置づけにあるかを解明すること。もう一つは、前期と後期での定式化の違いが持つ意味を解明することである。「規範論的」という形容について一つ弁解しておくなら、これはシステム合理性概念が、機能分析の(したがって相対化、偶有化の)対象ではなく、その対象である諸概念に対して(ある意味で)超越的な位置にあることを、そしてルーマン独自のこの概念の定式化が、システムに対する合理性判断は(システム批判は)どうあるべきかという問題関心に依拠していることを示そうとした苦しい表現である。「規範」概念そのものが機能分析の対象となっている以上、「規範的」という表現を使うことができなかったことによる。

ルーマンの理論構築の出発点に、合理性判断の規準の刷新という目標があったことには疑いの余地がない(『公式組織』や『目的概念』の後書き、論文「機能的方法とシステム理論」や「社会学的啓蒙」を見れば明らか)。しかもこの目標設定の根幹にある学問の「現状」に対する不満は、それが過剰に規範主義的であることにではなく、過剰に経験主義的であることに向けられているのである。すなわち、ルーマンが憂えているのは、例えば既に使い物にならなくなった目的合理性規準に社会学者が固執していることにではなく、そうした基準の喪失とともに合理性判断それ自体までもが放棄されていることなのである。したがって、合理性規準の刷新という目標は、「使い物になる」規準を示すことで、社会学に合理性判断の能力を取り戻すことをより深い切実な目的としていることになる。

合理性規準の刷新はシステム表象の刷新と並行している。ルーマンによるシステム/環境理論の提唱とは、システム表象を存在者(単一の可能性)と世界(全ての可能性の共在)との中間(複数可能性の限定的共在)に置くことである。これは二つの議論から成立している。すなわち、複数可能性の共在(複雑性)としてシステムを脱存在論化(システム内で生じる出来事から見れば超越論化)すること、そして世界概念の仮設によってシステム存立を問題化すること(常に世界複雑性を縮減して初めて存立しうるものとして表象すること)の二つである。

これに伴って合理性規準も、第一に(何らかの)単一の可能性(理想状態)の追求ではないという意味で脱存在論化され(目的合理性はこの意味で存在論的)、第二に問題化されたシステム存立を規準とすることで規範論上の有意性を保証されることとなった(システム表象が非存在論的である以上、システム存立を目指すということがもはや存在論的な意味を持っていないことに注意)。

さて合理性判断の規準をシステム存立に求めるということは、合理性規準の具体的な定式化がシステム存立の定式化に依存するということである。複雑性概念によってシステム表象を脱存在論化し、かつ共在する可能性の無限定性によって限定的共在であるシステムを圧倒する世界概念を設定することによって、システム存立とはこの可能性の限定性(複雑性の縮減性)の維持と捉えられることとなった。この結果、システム合理性は、「環境変動に対応できる程度の複雑性をシステムが備えていること」として定式化される。

このシステム合理性規準と機能的方法との関係について一言しておこう。システムの自己複雑性を増加させるには、従来システム内で不可避的なものとして妥当していたものを偶有化すればよい。つまり選択可能なものとして捉えられるようになればよい。ところでルーマンの機能分析とは、分析対象に対して、当の対象が一つの解決可能性であるような一段抽象的な準拠問題を設定し、機能的等価物を索出することである。これはまさに対象を他の選択肢の中に置くことによる偶有化の操作である。ここから分かる通り、機能分析はシステム合理化に資する。

次に、オートポイエシス理論採用後のシステム合理性概念の定式化の変更を検討する。ここでは、システム/環境の差異を(単位として)システム内で観察することのできるシステムが合理的と形容される。ルーマンの用語系においては、観察とは区別した一方の側の指示であるから、合理的システムとは自己を生み出す区別を別の区別から区別されたものとして扱う、つまり自己の成立根拠を偶有化できるシステムのことである。

この定式化の意味を探るためにオートポイエシス採用によるシステム存立の定式化の変化を確認しよう。オートポイエシスとは、先行する選択が後続の選択の選択肢を生み出すという意味での選択接続によってシステム存立を(プロセス的に)定式化する理論である。システム存立という観点から見て避けられるべき事態は当然、選択が接続しなくなることであり、これはすなわち選択を無効化するような選択肢を先行の選択が生み出してしまう事態を意味する。これがルーマンによってパラドクスと呼ばれている事態である。システムの自己準拠的作動に孕まれるパラドクス化の可能性とは、すなわちシステムの作動にシステム崩壊(オートポイエシス停止)の契機が孕まれていることを意味する。

システム合理性規準がシステム存立に指向しているからには、上記の差異の(単位として)再導入による定式化は、このパラドクスの問題に関係していると考えるのが自然である。ルーマンの概念化ではパラドクスが生じるのは「否定の可能性が受容され、その否定が準拠する自己と準拠される自己のいずれかに関係付けられることでこの二つの可能性の間で自己準拠に基づいた決定が不可能になる」(Soziale Systeme, S.59)場合である。これはすなわちシステム存立の根拠が、存立しているシステムの作動そのものによって否定される可能性を意味している。

合理的システムは自己の成立根拠である差異をシステム内で他と区別されたものとして扱えるのであった。しかしこれはいわばダミーであって、これが否定されたところでシステム存立は脅かされない。以上が差異理論的システム合理性定式の意味するところである。

以上、システム合理性規準がシステム存立に指向しており、その定式化内容はシステム存立の定式化に依存していることを明らかにしてきた。ここまではルーマンの学説研究である。ここから、合理性判断を含む規範論的研究の文脈でルーマンの試みを検討するという理論的作業が始まらなければならない。

「システム合理性の思考モデルの探求は始まったばかりである」(Soziologische Aufklärung, S.48)とは四〇年前のルーマンの言であるが、ルーマン研究における合理性概念の規範論的検討は未だにほとんど試みられてすらいない。本報告がその端緒となることを望む。


報告原稿(大会時)


ルーマンにおいては、対象分析上の問題関心(システム表象)と規範論上の問題関心(合理性規準)とが表裏一体であるというのが本報告の出発点である。両者のうちどちらがより根本的であるのか、あるいはそもそも一方が他方に対して根本的というような関係にはないのか、といったことは現段階では明らかではないが、本報告では規範論的関心にひきつけた解釈を試みたい。

彼の理論的営為を一貫しているのは「脱存在論」の発想である。したがって、ルーマンが何を問題と考えているかを探るのに「存在論」の理解は不可欠である。まずはこれを確認しておきたい。ルーマンの用語系では、存在論とは「一定の可能性の肯定とそれ以外の可能性の否定」(Sein-und-nicht-Nichtsein)のことである。彼による先行研究批判は、システム表象についても合理性規準についても、この意味での存在論性に準拠している。逆に彼独自の理論的貢献は、脱存在論的なシステム表象と合理性規準を提出することに焦点を定めている。

さらに、ルーマンが当時(50年代末から60年代)の社会学のどのような現状に不満を感じて登場したのかという点も確認しておきたい。彼は58年の「行政学における機能概念」以来、機能分析の「等価物索出」機能に注目して等価機能主義を提唱してきたわけだが、これによって何が克服できると考えていたのか。一言でいえば、それは「経験的研究と規範的研究の分離」であり、社会学の前者への特化である。つまり従来有効だった規範的規準が失墜することによって社会学が規範的判断を放棄し、経験的研究に引きこもっていること。ルーマンはこうした現状を憂えていたのである。そして等価機能主義によって、両者の再統合が可能だと考えたのである。規範主義ではなく経験主義こそが克服されるべき対象だとされていることに注目したい。本報告が規範論的解明にこだわるのはこうした事情に起因している。

経験主義に不満を覚えるということは、学問は規範論上の立場を保持していなければならないということを、ルーマンが公理的に設定していることを含意する。理論は対象に対して何らかの意味で「よい」という規準を示すことができなければならない。つまりは独自の合理性規準を持っていなければならないということである。ただし、ルーマンが理論に要求する規範論上の公理はこれだけではない。この合理性規準は、従来の規準が失墜した原因をクリアするものでなければならない。ルーマンの観察によれば、従来規準が失墜したのは、偶有性が支配的となることによって存在論が失効したことによる。つまり、あらゆるものについての別様可能性の存在が顕在化することによって、一定可能性の実現を、そしてそれだけを「よい」とする規準は説得力を失ったのである。だから新しい合理性規準は、存在論的であってはならない。さらに、学問が提出する規準である以上は、対象が奉戴する規準から独立(距離化)したものでなければならない。以上、対象からの独立性と非存在論性という二つの特徴を持った合理性規準を独自に構築すること、これがルーマンの規範論上の目標である。

この目標の下でルーマンがひねり出したのが、「比較合理性」の発想である。合理的という形容に値するのは、一定可能性の実現ではなくて、複数可能性間の比較だというわけである。この発想がひとまず脱存在論の公理を満たしていることは明らかである。また、機能分析の醍醐味は、何らかの貢献によって分析対象を正当化することではなく、その貢献を準拠点として分析対象以外の可能性(機能的等価物)を索出し、それらの比較領域を開示することだという等価機能主義の発想も、これと密接に関係している。つまり等価機能主義が方法論として望ましいのは、比較合理性に資するからだと考えられるのである。

ところが、比較合理性それ自身は独立性公理を満たさない。というのも例えば行為者の主観的な目的設定をアプリオリに善とした上で、その実現に向けた手段選択の比較合理性を語ることは十分に可能だからである。しかも目的設定それ自体は存在論的規準であるから、非存在論性公理もこの場合には貫徹され得ない。このような隘路を回避するためには、準拠問題それ自体を非存在論的に設定する必要がある。ここから、システム/環境理論による非存在論的システム表象が定式化され、これと比較合理性とが結びついてシステム合理性規準が登場することになる。

システム/環境理論によるシステム表象とは、一言でいえば、一定可能性の実現状態(存在論的対象)と、全ての可能性の共在である世界との中間領域に、システムと呼ばれる対象を設定することである。このとき、存在論的対象はシステム内での複数可能性からの選択によって実現している。すなわち、このように定式化されたシステムは、複数可能性を比較し得る場所に設定されているため、このシステムの存立を比較合理性のための準拠問題とすることが可能である。問われるべきは、このシステム存立規準は本当に存在論的規準ではないのかということである。手掛かりとなるのは世界とシステムとの関係である。システムは世界における無限の可能性に限定がかかることによって(つまり世界複雑性の縮減によって)成立する。そしてシステム存立に関しては、それ以外の基準は与えられない。すなわち共在する複数可能性の限定性(複雑性の縮減性)、これだけがシステム存立を示す基準とされている。このように、システム存立を存在論的基準に求めないことによって、システム表象の脱存在論化を可能にし、さらには合理性基準の脱存在論化を可能にすることが、ルーマンの規範論上の工夫なのである。

以上、ルーマンの規範論上の取り組み、つまり合理性規準の脱存在論化を論じてきたわけだが、そこで用いた用語系は前期のものに限られていた。以下では、差異理論を前面に押し出してきた後期ルーマンの用語系においても、同様の議論が成り立つことを見ていきたい。

差異理論では、まず存在論的なるものが、区別によって生じる二つの領域のうちの一方を指示することとして再定式化される。合理性規準に関して言えば、存在論的規準とは、例えば正/悪を区別して正のみを規準として採用することを意味する。これを脱存在論化するためには、時に応じて悪の方も採用できるように一段階の抽象化を行えばよいように思えるが、ことはそれほど簡単ではない。差異理論では、特定の区別は特定のシステムの固有の作動として考えられており、しかもそれが当該システムを成立させるシステム/環境の区別と重ね合わせられているため、例えば正/悪の区別を用いるシステムは、正をシステムに、悪を環境に割り当てざるを得ないことになっている。したがって、合理性規準の脱存在論化を行って比較合理性を獲得するためには、この区別そのものから一段階抽象的な地点に立って、区別間比較を行えるのでなければならない。このとき、区別(差異)は一つの単位として扱われることになる。

後期システム表象の最も重要な特徴は、前期においては存在論的ではないとして消極的にのみ語られていたシステム存立の問題性を、より積極的に表現できるようになったということにある。すなわちシステムは、オートポイエシス的再生産があって初めて存立するのであって、それができなければ存立し得ないというわけである。オートポイエシス的再生産とは、簡単に言えば選択接続のことである。選択が接続していくためには、二つの条件が必要である。第一に先行する選択が一定の存在論的状態を帰結するのではなく、後続の選択の選択肢(複数可能性)を用意するのでなければならない。これは「意味」と呼ばれる否定の反省的適用可能性によって確保される。合理性規準にとって重要なのは第二の条件の方である。すなわち選択は排他的でなければならない。選択肢の中からあるものを取り出し他を排するからこそ一つの選択が終了し、次の選択が始まり得る。ところが自己準拠的システムではこの排他性条件が満たされない事態が生じ得る、というのが後期合理性概念にとって決定的な洞察である。自己観察のパラドクスと呼ばれているのがこの事態である。

パラドクスとはある選択肢の選択がその否定を導出することであり、結局当の選択が無化してしまう事態を言う。それゆえ選択接続によって初めて存立を得るシステムがパラドクスを生じてしまうと、選択が接続しなくなり、すなわちシステムが存立しなくなる。だからシステム存立にとってパラドクスは回避しなければならない事態である。後期システム合理性規準が照準するのはこの問題である。

後期システム合理性規準の定式化を確認しておこう。「システム/環境の差異をシステム内で単位として扱えるシステム」が合理的なシステムである。「単位として」というのがポイントである。単位ということは観察の対象ということであり、観察とは何らかの区別の下での排他的指示のことであるから、単位として扱われるものは別様可能性を伴うもの、偶有的なものとして扱われる。したがって、システム/環境の差異というシステム存立の根源的根拠に関する比較合理性を持ったシステムがシステム合理性を有することになる。

さて、このような意味での合理的システムは、先のパラドクスに伴う接続不可能性問題をどのように解決するのか。簡単に言えば、それはダミー提供による盲点確保である。パラドクスは、システムという可能性領域を構成している根拠を、その根拠性を保持しつつシステム内で扱うから(いわば絶対性を保持したまま相対化することによって)生じるのであって、システム内で偶有的なものとして扱えるような根拠のダミーがあれば、本当の根拠には手をつけないで、そちらを観察して済ますことができる。ルーマンがパラドクスは観察にとっては問題だが作動にとっては問題でないとか、「盲点」という表現で言っているのはこういうことである。

以上、ルーマンが合理性規準の脱存在論化(比較合理性の獲得)を準拠点(システム表象)の脱存在論化によって達成しようとしていることを、その内在的論理を明らかにすることによって確認してきた。しかしこれだけでは解明はきわめて不十分である。ここを端緒として、この試みを規範論上の学説史・理論史の文脈において捉え直す作業、その上で規範論としての妥当性を内在的・文脈的に再検討する作業が必要である。またルーマンによるより具体的な議論――機能分化した全体社会には合理性が不可能とか、組織には可能だとか、相互行為はどうなのかといった議論――についても上と同様の作業が必要となる。それがこれからの私の研究課題である。

2012年1月17日火曜日

パーソンズの死の前後

高城和義の『パーソンズとアメリカ知識社会』(337頁)は、タルコット・パーソンズが死んだときの状況について次のように述べている。

[1979年、ハイデルベルク大学でのシンポジウムに参加した後、パーソンズは]さらにミュンヘンに向かっている。ミュンヘン大学では5月7日の昼に、「現代社会の構造における社会階級の意義の減少」と題して講演し、さらにその日の夕方、ミュンヘン大学マックス・ウェーバー研究所の図書館でも講演した。このとき彼は、ウェーバーの胸像を飾った部屋で、自己の理論形成にとってウェーバーのもった意義について語っている。その夜、彼は突然、心臓発作をおこして急逝する。ほとんど苦しむことなく、安らかな死に顔であったときく。享年76歳であった。

この「ウェーバーの胸像を飾った部屋」での講演の様子が下の写真である。

これはミュンヒェン大学のホルスト・J・ヘレ教授のサイトに載っている画像だが、キャプションとしてこうある。

1979年5月7日(月):パーソンズはコンラート通り6番にある社会学部棟でインフォーマルセミナーを開いた。このセミナーでは時間を延長して質疑応答がなされた。


さらに、上記ウェブページには、パーソンズの死について詳細な記述がある(というのも、このときパーソンズをミュンヒェンに招いたのがこのヘレ教授だから)。

ミュンヒェンでのパーソンズ最後の日

タルコット・パーソンズ(1902年12月13日~1979年5月8日)がミュンヒェンに到着したのは1979年5月6日(水)のことだった。夫人のヘレンとともに、ハイデルベルクから約4時間列車で揺られてきたのだった。パーソンズは1929年にハイデルベルク大学で博士号を授与されたのだが、今回はそれから50周年記念ということで大学から招待されていたのだ。記念式典は5月1日から5月6日まであって、もちろん彼も楽しんだことと思うが、齢76歳のことであるから、それなりに大変だっただろうとも思う。とはいえミュンヒェン中央駅で出迎えたときは元気そうだったし、その足で同僚や学生らにも会ってくれた。

夫妻は、その晩モンジュラ宮殿の一階に入っているレストランで我々と結構長い時間を過ごした後で、ミュンヒェンヒルトンホテルに引き上げていった。1979年5月7日(月)の午前、パーソンズはミュンヒェン大学の由緒ある本棟の332番講堂で講演を行った。この棟はマックス・ヴェーバーがミュンヒェンで亡くなる前、生前最後の講義をした建物でもあった。午後には、コンラート通り6番にある社会学部棟でインフォーマルセミナーを開き、このセミナーでは時間を延長して質疑応答がなされた。

その日の晩は、賓客としてパーティに出席してもらう予定だったのだが、気分がすぐれずホテルの部屋で休むとのことで、夫人だけが出席することになった。パーソンズは月曜から火曜にかけて、つまり1979年5月8日の未明に亡くなったのだった。

私がタルコット・パーソンズと個人的に知己を得たのは1967年のことで、ハーヴァード大学に伺ってのインタヴューに快く応じてくれたのだった。

ホルスト・J・ヘレ


ヘレ教授は、このときのことを、ハーバート・ブルーマーへのインタヴューで少し触れている。

ヘレ: タルコット・パーソンズは、たまたま私のゲストとしてミュンヒェン滞在中に亡くなったのですが……

ブルーマー: ああ、ミュンヒェン、そうでした。

ヘレ: ……当時はヘレン・パーソンズを慰めたり、遺体の管理をしたりで大変でした。そうしたことすべてが大変悲しいことでした。


さらに、ヘレ教授は後日ヘレンから届いた礼状(1979年5月24日付)も公開していた(過去形で書くのは、以前のサイトにはあったのが、現在のサイトには見つからないから。以下の画像は Internet Archive で保存されているもの)。

親愛なるヘレ教授

タルコットの遺灰は昨日、無事に届きましたのでご安心ください。小包で戸口まで配達してくれました。ジャフリー墓地への埋葬は土曜日の予定ですから、まだしばらくかかります。息子のチャールズとその家族、それに近い親族が何人か来てくれることになっています。パーソンズ家の墓は松の大木の下の一画で、それは美しいところです。私どもの娘のアンをはじめ、タルコットの家族がすでに何人も眠っています。

私どものミュンヒェン旅行があのような形で終わってしまったのは悲しいことですが、長い間病気で苦しんだり、徐々に頭脳が衰えていくよりは、タルコットにとってはるかに望ましい最期だったと思います。

それにしても、その節は大変お世話になりました。なんとお礼を申し上げていいかわかりません。貴方のおかげで警察の質問にもあまり苦痛を感じずにすみましたし、またご手配いただいた火葬の儀は、おかげさまで荘厳で美しいものになりました。それにご家族でボストンまでお見送りいただくお手間をかけました。できましたら今後ともお付き合いを続けさせていただき、いつかまたお会いしたいと思っております。

立て替え分のお支払いはあれで十分でしたでしょうか。不足の場合は、お知らせ願えれば幸いです。

最後になりましたが、もう一度、心からのお礼を申し上げたいと思います。

ヘレン


現在のパーソンズ研究で以上のドキュメントが参照されているのかどうかは知らない。

2012年1月15日日曜日

【私訳】パーソンズ「ホッブズと秩序問題」

パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」について、それがいかなる問題であり、その問題をパーソンズがどのように扱おうとしたのかを正確に理解するために、まずは『社会的行為の構造』の該当部分、つまり「ホッブズと秩序問題」(原書89-94頁)を以下に訳出します。





ホッブズと秩序問題

本書の目的からすると、自然状態とは万人の万人に対する戦争であるという有名な概念化こそが、ホッブズの社会思想の基礎であると言ってよい。ホッブズというのは規範的思考をほとんどしない人だった。何をすべきであるかという理想を掲げることはなく、社会生活の究極的条件をひたすら探求するだけだ。ホッブズに言わせれば、人間というのは複数の情念に導かれる存在だ。善とはその各人の欲望の対象にすぎない(注)。しかし残念ながら、各人の欲望の実現可能性の程度には限界がある。この限界は主として人間と人間のあいだの関係の本質それ自体に根ざすものだ、というのがホッブズの考えである。

人間に理性が欠如しているわけではない。だが理性の本質は、情念の下僕たることにある。つまり理性というのは、各人が自らの欲望の対象を獲得するための方法や手段を案出する能力のことなのだ。そして欲望はランダムだ。つまり、「対象それ自体の本性から引き出されるべき、善悪を定める共通の規則」(注)は存在しない。だから行為の究極目的たる情念は各人ばらばらであり、それゆえ、各人が自らの情念を追求することによってそこに紛争が生じるとしても、それを妨げるものは何もないのである。

ホッブズの考えでは、そのように危険な紛争が生じる理由は、そこにおいて力が演じる役割にあるという。人間は誰もが自分の欲望を実現しようと求める。そのため必然的に、各人はそれぞれ自分の欲望を実現するための手段を支配しようと求めなければならない。一人の人間がもつ力とは、ホッブズ自身の言葉で言うと「将来自分にとっての善を獲得するために当人が現在所持している手段」のことである。この力の大部分を占めるのが、他人に対して承認と奉仕を命じる能力である。ホッブズの議論では、手段というのはその本性からして限りのあるものだが、この力こそはそのなかでも最も重要なものなのだ。その結果、ある人が自分の目的を実現するための手段を有するならば、別の人はその手段を有することができないということになる。こうして、当座の目的としての力は、必然的に人間同士の争いの種になってしまうのである。

自然は人間を、心身の能力において平等につくった。他の人より明らかに強靭な身体をもった人や、他の人より明らかに頭の回転の速い人というのが時々いることはいるが、全般的に見れば、人と人のあいだの違いというのはそうたいしたものではない。ある人が別の人よりもそれで特に利益を得るということはない。その程度の違いにすぎない。(中略)このような能力の平等から、目的達成における希望の平等が生じる。だから、もし二人の人間が同じものを欲し、しかし二人同時に享受することが不可能である場合には、この二人は互いに敵対することになる。そしてその目的への途上において、相手を打倒し屈服させようと努力することになる(注)。

何の制約もない場合には、人間はこの直近の目的を実現するために、利用可能な手段のなかで最も効率の良いものを採用することになる。その目的にとって最も効率の良い手段とは、煎じ詰めれば暴力と欺瞞のことである(注)。したがって、誰もが他の全員に対して敵となり、誰もが他の全員を暴力や欺瞞を用いて打倒し屈服させようと努力するような状況が生じることになる。これこそは戦争状態にほかならない。

だがこの戦争状態というのは、人間の欲望充足からは最もかけはなれた状態である。ホッブズの有名な言葉を引くなら、戦争状態における人生というものは「孤独で、貧しく、卑しく、残忍で、短い」(注)ものだ。そんな状態に陥ってしまったら……という恐怖から、人間は理性を起動する。すべての情念のなかで最も根本的なのは自己保存の情念であり、理性はその下僕として喚び出されるのだ。そして理性が少しでも働けば、社会契約にこの困難を解決する可能性があることが見出される。人々は自然に有する自らの自由を、合意の上で至高の権威に譲渡し、それと引き換えに、この至高の権威によって自らの安全を保障してもらう。つまり他人からの暴力や欺瞞による攻撃を受けずにすむようにしてもらう。この至高者の権威によってのみ、万人の万人に対する戦争は抑止され、秩序と安全が維持されるのだ。

前章の定義に則って言えば、ホッブズの社会理論の体系は、功利主義のほとんど純粋なケースである。この理論では、人間の行為の基礎は「情念」にある。情念は個々ばらばら、ランダムに生じる行為の目的であり、「対象それ自体の本性から引き出されるべき、善悪を定める共通の規則は存在しない」。人間は、この目的を実現しようと合理的に行為する。つまり、状況による制約の枠内で最も効率的な手段を選択する。だがこの合理性には厳しい限界がある。理性は「情念の下僕」であり、それを実現するための方法や手段を選択するためにしか用いられない。

このようにホッブズは、功利主義的な行為システムの基本単位を異常なほど細かく定義したのだが、その射程はそこにとどまらず、はるか先にまで届いている。つまり、この基本単位を実際に定義した場合、そこから帰結する具体的なシステムはどのようなものになるか、それを演繹的に示したのだ。その結果、ホッブズはある経験的問題に逢着することになった。それが秩序問題だ。これは、本書においてもここで初めて登場する問題である。というのも本書の議論はここまでのところ、単位を定義することと、功利主義思想におけるその単位間の論理的関係を摘示することに限定されてきたからだ。いずれにせよ、ホッブズが提起した意味でのこの問題は、功利主義思想の最も根本的な経験的困難を構成するものである(注)。そしてこの問題は、功利主義システムとその結果についての歴史的議論の主軸を形成することになる。

(注)同じくらい根本的な問題として、経験的に妥当な合理性を設定するという問題があるが、ここでは本書の分析の目的から、戦略的に秩序の問題をとりあげている。

この点に関するホッブズの議論の帰趨を確かめる前に、用語の整理をしておこう。秩序という言葉には実は二つの異なる意味があるのだが、それが往々にして混同されてしまいがちだからだ。一つは規範的秩序、もう一つを事実的秩序と呼ぶことができるだろう。事実的秩序の反対は、現象が統計学の確率法則に従うという厳密な意味でのランダム性ないし偶然性である。この場合、事実的秩序が成立しているということは、論理的な理論、特に科学の理論によって基本的に理解可能であるということを含意することになる。偶然の変動は論理的に理解したり、法則に還元することが不可能である。偶然性とかランダム性というのは、理解不可能なもの、知的な分析ができないものにつけられた名前にほかならないのである(注)。

(注)この理解可能性を、経験科学による理解可能性に限るのは、実証主義の場合だけである。この前提のもとでは、科学的に理解可能であるか、ランダムなカオスであるかの二つ以外の可能性はありえない。つまり実証主義にとっては、科学の限界が、人間の理解の絶対的限界となるのである。

これに対して、規範的秩序はつねに、所与の規範や規範的要素(目的、規則、その他の規範)のシステムに相対的である。つまり規範的秩序とは、規範的システムにおいて敷かれた道筋に合致してプロセスが生じているということである。ここでさらに二点、注意が必要である。第一に、規範的秩序が崩壊した場合、つまりその規範的観点から見てカオス状態となった場合でも、事実的には秩序であること、つまり科学的分析が可能な事態であるということはありうる。たとえば、「生存競争」はキリスト教倫理の観点から見ればカオスであるが、だからといって、それが科学的な意味での法則、つまり現象におけるプロセスの斉一性に従っていないということには決してならない。第二に、規範的秩序には一定の状況のもとでは崩壊して「カオス」になってしまう可能性が論理的に内在しているのだが、にもかかわらず、プロセスが何らかの規範的要素にある程度合致していることを条件に成立するような特別な事実的秩序というのがあって、その場合には、当該の規範的要素がその事実的秩序の維持に対して決定的に重要な働きをするのである。社会的秩序はまさにその一例である。科学的分析が可能なかぎりでそれは事実的秩序なのだが、後述するように、それは、一定の規範的要素が有効に機能しなければ安定性をもちえないような種類の秩序でもあるのだ。

(訳出途中。つづく)

2012年1月13日金曜日

【私訳】ヨハネウムの生徒としてのニクラス・ルーマン

リューネブルク時代、つまり大学入学前のルーマンについてはあまり知られていないと思うので、以下の文章を訳出しました。非常に詳しくてためになります。原文はこちら






ヨハネウムの生徒としてのニクラス・ルーマン

2002年12月8日に、ニクラス・ルーマンは生誕75周年を迎えた。これを記念して、2002年12月6日から8日にかけて、リューネブルク大学で『ニクラス・ルーマンと文化理論』と題する会議が催された。国内外から一堂に会した名立たるルーマニアンたちが報告を行う中で、ヨハネウムは「ヨハネウム・リューネブルク校の生徒としてのニクラス・ルーマン」と題する展示を行った。


ニクラス・ルーマンは1927年12月8日にリューネブルクで生まれ、1937年の復活祭の日に、9歳でヨハネウムの生徒としてギムナジウムに入学してきた。そのため最初はラテン語の授業を受けることになった。ニクラスは入学時にすでに1学年飛び級していたので、結局基礎学校には3年在学しただけで卒業を迎えた。1406年創建のヨハネウムは当時、1870年から72年にかけて建てられたハーゲ通りの端の建物にあった。これは現在では市中心部の基幹学校とオリエンテーション段階の建物になっている。ルーマン家はリューネブルクの旧家で、港湾地区にあった。ニクラス・ルーマンの父ヴィルヘルム・ルーマンは、そこで小規模なビール醸造所兼麦芽製造所を経営しており、母親の方はスイスのホテル経営者の娘だった。現在その建物には古書店「プリニアーナ」と、飲食店「ポンス」が入っている。

ニクラスの家からギムナジウムまでは600メートルほどだったため、通学は楽だった。ルーマンがヨハネウムに入学した1937年というのは、民族社会主義の狂気がその数年前から忍び寄ってきている時代だった。ルーマン家は民族社会主義からは距離をとり、これを拒絶していた。ニクラスの父はもともと経済リベラルな人だったため、社会民主主義にも民族社会主義にも反対しており、権力者が交代した1933年以降は、様々な困難を抱えることになった(Detlef Horster, 1997, Niklas Luhmann, Beck-Verlag, p. 25 ff.)。

幼少期から少年期まで、ニクラス・ルーマンは夏期休暇をスイスで過ごした。彼はそこで、当時のドイツでは望ましくないと考えられていた政治的見解を学んでいた。たとえば彼は反フランコで、そのためヨハネウムの教師は彼の政治的見解を問題視し、父親が学校に呼び出されたりもした。ニクラス・ルーマンの児童期のことについては、これ以外にはあまり知られていない。飛び級で入学したため、同級生たちはみな1926年生まれでニクラスが一番年下だったが、授業に熱心に参加する様子はよく目立っていた。

民族社会主義による権力掌握と統制の網は、ヨハネウムもまたこれを免れなかった(以下の記述は、“Kantelhardt, Adolf: Das Johanneum zu Lüneburg,” in: Festschrift zum 550-jährigen Bestehen des Johanneums, Lüneburg 1956, S. 38 ffによる)。1935年以降は、14歳から18歳までの全生徒がヒトラー少年団(HJ)に、10歳から13歳までの全生徒が少国民(ドイツ少年団、DJ)に入隊させられることになった。教師も、NSLB(民族社会主義教員連盟)かNSV(民族社会主義国民福祉局)のいずれかに所属させられた。かねて毎週始めには朝の礼拝の時間があったのだが、これに代えて、校庭での党旗掲揚か、民族社会主義式の朝礼が行われるようになった。

党の命令による学外活動(ヒトラー少年団のキャンプ等)のため授業は大幅に阻碍され、生徒の成績は悪化した。これは、民族社会主義党によって任命されたヨハネウムの校長ですら、認めざるを得ないほどだった。民族社会主義党は、高等学校の8年制を導入した。これはつまり、高等学校の、ひいてはギムナジウムの修了年限を1年短縮したということである。また卒業のために必要な口答試験に、生物学が義務化された。これは生物学こそが、民族社会主義党の人種学教化の場だったからである。その他、歴史や国語といった学科でも、民族社会主義党の指針に沿ったイデオロギー的な学習計画が採用された。ただし、実際の授業の進め方についてはまだ個々の教師の裁量に委ねられてはいた。それも1939年に第二次世界大戦が始まると、規則に沿った授業進行が厳しく求められるようになった。正規の卒業試験が行われたのは1942年が最後でこのときの卒業生は7名であった。それ以外の生徒は、卒業試験を待たずして徴兵されていったからである。

1943年の徴兵名簿などを見ると、当時のヨハネウムの住所は「Gauleiter-Telschow-Wall 1」となっている。リューネブルクは1937年に、それまでのハールブルクに代わって東ハノーファの「ガウ首都」に指定され、1937年以降、シースグラーベン通りの屋敷に民族社会主義党のガウ長テルショフが住んでいた。これはルーマンの家から約200メートルのところにあった。1939年から45年の間、ヨハネウムに直接通じるハーゲ通りと、フリーデン通りを合わせて、「Gauleiter-Telschow-Wall」と呼称したのだった。

1943年になると、1926年から1927年生まれの高学年の生徒に、空軍補助員として働くことが義務づけられた。1943年4月1日には、まだ15歳のニクラス・ルーマンも、1歳年上の同級生(ギムナジウム第6学年)たちと一緒に、空軍補助員としての適性検査を受けることになった。結果は合格(tauglich)だった(画像で「tgl」と書いてあるのがそれ)。「検査済生徒名簿」を見ると、誕生日が1926年12月8日とタイプ印字で誤記されているのを、手書きで1927年と訂正しているのがわかる。生徒たちはリューネブルク空軍基地の高射砲部隊の補助員となったが、ローテンブルクやシュターデにも派遣された。空軍補助員には日給0.50ライヒスマルクが支給され、衣食住が提供された。

服務規程には、空軍補助員は軍人と見なされるべきこと、生徒は十分な睡眠をとる必要があることが定められていたが、実際には、生徒も高射砲部隊に夜間配備され、それで疲れきっているのが現実だった。これに加えて「義務心得」があり、ニクラス・ルーマンもこれを暗唱させられたはずである。ギムナジウムの授業は、空軍補助員にとってもヨハネウムの教員にとっても困難な状況ではあったが、なお続けられてはいた。教員は毎日リューネブルクの郊外にある空軍基地に出動しなければならなかったし、生徒は生徒で、警報と戦闘に常時備えていなければならず、またひっきりなしに駐屯地が替わる(ローテンブルク、シュターデ)ので、これも大きな負担だった。駐屯地が替わると、そのつど違う教師の授業を受けなければならなかったからである。

1週間の授業時間数は6日間で平均18時間しかなかった。1日3時間である。ある報告書で、担任教師が戦闘準備による休講と地理学教師の不在について苦情を申し立てている。高射砲補助員の指揮所は何度も攻撃を受けた。生徒たちは給食の不足を訴え、担任教師だったグリースバッハは生徒たちを率いて不服の申し立てを行ったが、その内容はどちらかというとまだ陳腐なものだった。「バターの代わりにマーガリンが出ることが週に3回はある」。空軍補助員用の学習計画は、特に生物、歴史、国語の3教科において、民族社会主義のイデオロギーによって決められたものが用意された。たとえば生物なら「民族と人種」とか「文化民族の衰退の生物学的原因」、国語なら「ゲルマン的世界観の基本性質」、歴史なら「総統国家の本質」とか「第二次世界大戦の意味」と題した授業が義務づけられた。ラテン語ですら、「カエサル」講読の授業で「ゲルマンの章」を重視せよとされていた(“Lehrplan für Luftwaffenhelfer,” Archiv des Johanneumsによる)。とはいえ、ニクラス・ルーマンのいたクラスでは、教員不足のために1944年以降生物の授業は行われなかった。

ニクラス・ルーマンの空軍補助員経験は、さぞや劇的で恐ろしいものだったと想像されるが、これについて彼は自分で語っていることはそんなにない。一例としては、墜落した英国機の操縦士が格納庫で背後から射殺されて倒れている死体を見たと述べている(Horster 前掲書 p. 27)。(この書き方だと、ルーマンはある戦争犯罪の間接的証人であるように読めるが、歴史的背景が定かでない以上、そう確言することはできない。)1944年5月には大空襲がこの地を襲った。ルーマンはこれをローテンブルクで体験したはずである。この空襲についてはかつての国民的サッカー選手フリッツ・ヴァルターの文章を引くべきだろう。彼は1943年8月から1944年5月にかけて、サッカー好きの戦闘機乗りだったグラーフ少佐の飛行編隊に所属する地上勤務員としてイェーファとローテンブルクに駐屯し、その傍らサッカーの試合にも出ていた。

何よりも恐ろしかったのがサイレンの音だ。兵士たちは宿舎や作業場から駆け出して塹壕の中に飛び込む。事務所で一緒に働いていた空軍補助員の女の子たちも、原始的な防空壕に駆け込んだ。爆撃機の飛ぶ低音がどんどん近づいてくる。我々は塹壕の中から、それがまっすぐこちらに向かってくるのを見ているだけだ。爆弾格納部の扉が開いて、我々に死をもたらすその中身が降下してくるのがはっきりと見え、その数瞬間、心臓の鼓動が完全に停まる。その直後、恐ろしい爆発とともに地面が振動する。泥が噴水のように天を衝き、それがまた地面に降り注ぐ。ああ世界の終わりが来たんだと思う。2分か3分の間、その地獄は続いた。高射砲はまだ火を噴いていたし、速射砲は射程いっぱいまで対空砲火を続けていたが、爆撃機はすでに離脱した後だ。・・・・・・飛行場は爆弾のせいでそこらじゅう穴だらけだ。整備場は鉄骨とコンクリートの廃墟のようになっているし、格納庫も壊滅状態、宿舎も倒壊していた。何一つ形の残っているものはなく、すべてがばらばらだった。・・・・・・しかし一番恐ろしかったのは、負傷者や瀕死の人たちが助けを呼ぶ声だった。結局この攻撃によって200名の死者が出たのだった。・・・

Walter, Fritz: 11 rote Jäger, Nationalspieler im Kriege, Copress-Verlag München 1959 S. 112 ff.

(この文献は、オットー・グローシュプフ氏にご紹介いただいたものである。)

1944年9月30日、第8学年が始まってすぐに、ニクラス・ルーマンは国家労働奉仕団入団のために卒業することになったが、卒業試験はまだだった。生徒たちが受け取ったのは、「卒業するに十分な能力を有する」旨が明記された卒業証書であったが、これは1945年以降には無効になってしまうことになる。1944年末、ルーマンは国防軍に召集され、短期間の射撃訓練を受けた。1945年初めに、ルーマンは南ドイツの前線に送られ、ハイルブロンで米軍との激しい戦闘と爆撃に参加した。彼は1943年にはすでに敗戦は確実だと悟っていたため、生き延びることだけを考えていた。隣にいた戦友が手榴弾で吹き飛ぶという経験も避けられなかった。1945年の春、彼は米軍の捕虜となった。とはいえ17歳の少年にとって、そのときはまだ米軍が真の解放者であるとは思えなかった。腕時計を没収された上、尋問の間中、理由もなく殴られ続けたからである。これはジュネーヴ条約に背く処遇であった。(Niklas Luhmann, Archimedes und Wir, Berlin 1987, p. 129)

ルーマンは最初、ルートヴィヒスハーフェン近郊のライナウエンにある大きな捕虜収容所に勾留された。ここでは大体1000人単位で捕虜が組織化されていたが、そのどこでも毎日少なくとも1人の死者が出ていた。その原因の大半は疲労と消耗であった。終戦直前になって、捕虜たちはマルセイユ郊外の労働収容所に移管されることになった。フランスに対する賠償として労働が課せられたのである。結局ルーマンは1945年に捕虜収容所から釈放された。彼がまだ18歳未満、つまり未成年だったからである。

ヨハネウムは戦争末期の1944年8月5日以降、野戦病院となっており、授業はヴィルヘルム・ラーベ校で行われていたが、その後1945年1月になると、全市が宿舎として提供されるようになった。ヨハネウムの蔵書と持ち運び可能な財産は、別の場所に避難しておいたし、ヨハネウム自体は爆撃を受けなかったのだが、1945年5月の初頭に不注意からリューネブルクの手前にあった煉瓦製造場で焼却してしまった。戦後もヨハネウムに残った生木の机は、「ロシア原産」という出自を自ずから示していた。この机は野戦病院の備品としてロシアから持ってこられたものだからである。

ニクラス・ルーマンも復学し、生徒の間で「1406年からずっと使われている」と揶揄されていたぼろぼろの椅子に、再び座ることになった。「臨時卒業証書」は戦後は無効とされたため、ニクラス・ルーマンを含む、第8学年を修了していない復員学生に対して、2回の補講が組まれることになった。第1回は、1945年10月から1946年の復活祭までの期間で、これには137名が出席し、このうち卒業試験に合格したのはたった53名だった。ニクラス・ルーマンもそのうちの一人である。試験は、国語、ラテン語、ギリシャ語の3科目だった。2回目は1946年の5月から12月までで、これには72名が出席し(そのうちの多くは1回目の落第生である)、このうちの35名が合格した。この2回目の受講者には、ヨハネウムの卒業生のうちでもきわめて有名な人物が含まれていた。最近亡くなったクラウス・フォン・アムスベルク王子である。

以上の戦争体験は、ルーマンのその後の経歴と彼のシステム理論に明らかな影響を与えている。彼は諸所で、法律を勉強することに決めたのは、「人々が生きるカオスの中で秩序を形成する可能性」という希望に導かれたからだと述べている(1998年11月6日の死の直前にヴォルフガング・ハーゲンが行ったインタヴュー。Wolfgang Hagen (ed.), Warum haben Sie keinen Fernseher, Herr Luhmann?, Kulturverlag Kadmos, 2004, p. 17)。A. コショルケとC. ヴィスマンはさらに進んで、秩序を形成しようという動機は、ルーマンのシステム理論が成立するにあたっての、個人史上の根本的発想だと考えている(Hagen前掲書p. 11)。さらに補足して次のように言えるだろう。戦争を生き抜いた人がいる一方でそれができなかった人もいるというこの偶然の経験もまた、ルーマン理論のもう一つの要素である偶然性の概念に刻印されているのではないだろうか。

ヨハネウムでの教育について、後年ルーマンは好意的に評価している。特に挙がっているのが、ギリシア語とラテン語の授業で、これらの授業では扱われるテクストの内容についての議論も含まれていた(Horster 前掲書29頁、Hagen前掲編著20頁)。他方で、古代語の意義についてルーマンは、生徒の「学習能力」が「知識の複雑性に対して越えることのできない限界を画す」と述べていて、この箇所などは懐疑的な考えをもつようになったとも読める(Luhmann, Niklas: Die Wissenschaft der Gesellschaft, 3版602頁[邦訳644頁])。ルーマンの読書熱は当時の同級生たちからも恐れられていた。これをその時代の過酷さからの逃避だとみなすことは可能ではあるが、それよりもむしろ、主として歴史に興味をもっていた当時の埋もれた才能を示すものだと考えるべきだろう。

最後に、当時の同級生2人から、ニクラス・ルーマンについてのコメントをいただいたので、それでこの文章を締めくくることにしよう。

ニクラス・ルーマンとはギムナジウムの同級生でした。つまり、我々は2人ともまずラテン語から習ったんです(そこが、英語から習い始める「オーバーシューレ」とは違うところです)。ニクラス・ルーマンは優等生でした。勤勉で、どんな科目でも良い成績を収めていました。当時から目立っていたのはその読書熱で、私の印象では、脳神経の限界ぎりぎりまで本ばかり読んでいるように思えました。その後、1943年に我々は空軍補助員となったのですが、ニクラスはその時代を実に不愉快に感じていました。好きな読書ができなくなったからです。我々はリューネブルク、シュターデ、ローテンブルクで空軍補助員として動員されました。リューネブルクでは、ヨハネウムの見知った教師が特別に空軍基地まで出張授業に来ていたのですが、ローテンブルクとシュターデでは東プロイセンから来た、知らない教師の授業を受けさせられました。夜中に警報が鳴ると、次の日の1限目の授業が休講になったのですが、特に1944年にはそういうことが週に2、3回はありました。ところで、ニクラス・ルーマンも一緒に体験したローテンブルク飛行場への大空襲については、すでにドイツの国民的サッカー選手であるフリッツ・ヴァルターが自伝に書いています。

(オットー・グロシュプフ、元ハノーファー上級行政裁判所長。2002年12月3日、筆者との電話インタヴューにて。)


ルーマンはギムナジウムの生徒でしたが、私や私の友人たちはオーバーシューレに通っていましたから、その頃はあまり接触はありませんでした。それが1943年に、私とルーマンそれぞれが所属するクラスの生徒が、同じ高射砲部隊に空軍補助員として召集されることになったのです。1944年の秋までのあいだ、我々はリューネブルク、ローテンブルク、シュターデの飛行場に動員されました。ルーマンは感じがよく友好的でしたが、特に目立つような存在ではありませんでした。当時の私は、彼がその後こんなふうになるなんて夢にも思いませんでした・・・

(ギュンター・ヴィルケ、工学士。現在は引退してリューネブルク在住。2002年11月1日付の筆者宛書簡)

ゲアハルト・グロムビク

2012年1月8日日曜日

パーソンズの「規範的秩序」


盛山和夫『社会学とは何か』第4章では、パーソンズの「規範的秩序」という概念に対する批判が述べられている。しかし、そもそもこの概念についての盛山の理解が間違っていると思うので、その点を指摘しておきたい。

まず盛山は、パーソンズの(『社会的行為の構造』における)定義を次のように訳している(74頁)。

規範的秩序は、常に規範ないし規範的要素の所与の体系に対して相対的である。この意味における秩序とは、規範的体系に定められた道筋に従って物事が生起するということを意味している。

そのうえで、次のように批判する(77頁)。

パーソンズの定義は、たんに「規範的体系に従って生起しているものが規範的秩序だ」としか言っていない。これだと、規範的体系どおりに生じているものが規範的秩序だということになる。つまり、人々が社会的に決められた所与の規範的体系にすなおに従っていること、それが規範的秩序だということになる。

そうだとすると、そもそも「秩序問題」という問題を考察する意味がなくなる。なぜなら、この場合には、「人々が所与の規範的体系に従うこと」が秩序問題の解決になり、それで答えはつきてしまう。それ以上、何も考察する必要がない。

ここにおける盛山の議論の特徴は、「従って」という文言を非常に重視していることだ。だから秩序が規範に「従う」とはどういうことかが非常に重要なポイントになる。しかし、この引用部分の中だけでも、基本的に異なる二つの事柄が、あたかも同じことであるかのように混同されてしまっている。

一つは、「規範的体系どおりに生じているものが規範的秩序だ」という部分であり、もう一つは、「人々が社会的に決められた所与の規範的体系にすなおに従っていること、それが規範的秩序だ」という部分である。盛山はこの二つを「つまり」で結んでいるが、明らかに無理のある接続だ。人々がそれぞれ特定の規範に従った結果、成立する社会的状態がその規範からみて逸脱的なものになってしまうことがあることは、ほとんど社会科学者の常識のような事柄だろう。

この混同からも明らかなように、盛山によるパーソンズ理解は、規範的秩序というのは規範の存在が原因となって成立する秩序のことだ(ここでは規範が人々の行動選択を統制することが原因となって成立する秩序、ということになっている)。

この直後の部分で、盛山は「従って」という言葉をもう少し検討しているが、そこを見るとこの点がより明瞭になる。そこでは次のように言われている(77-78頁)。

もっとも、パーソンズの文章はやや微妙で、「従って」という文言はせいぜい「影響作用を受けて」というほどの意味であるかもしれない。その可能性は高いのだが、その場合でも、では、たんに規範的体系の影響を受けているのが規範的秩序であって、そのような規範的秩序について、秩序はいかにして可能かと問うのであれば、その答えはやはり簡単で、「何らかの規範的体系の影響を受けていること」ということになる。

このように、盛山の議論は、規範が原因の秩序が規範的秩序だ、というパーソンズ解釈で一貫している。


さてしかし、この解釈は間違いである。このことを以下に示していく。結論を先に書いておくが、パーソンズの規範的秩序というのは、特定の規範を(秩序成立の原因ではなく)評価基準とした際に秩序と認められるもの、という意味である。

まずは、パーソンズの原文で、「規範的秩序」の定義を見てみよう。上で引いた訳文のもとは次のようになっている(The Structure of Social Action, 91頁)。

Normative order, on the other hand, is always relative to a given system of norms or normative elements, whether ends, rules or other norms. Order in this sense means that process takes place in conformity with the paths laid down in the normative system.

注目すべきは、盛山が「従って」としている部分であるが、これは原文では「in conformity with」であり、主語は「process」である。盛山はこれを、行為者によるかなり積極的な規範随順的態度のように解釈しているが、英文のニュアンスとしてはもっと消極的な「逸脱していない」「一致している」くらいの意味だろう。邦訳『社会的行為の構造』はこの部分を「即して」としている(このことからも、盛山が「従って」という訳語に強い意味を込めていることがわかる)。

さらに、この定義の後で、パーソンズは「規範的秩序でなくても事実的秩序であることがありうる」という指摘をしていて、そこを見ると盛山のような行為者随順論的解釈が間違いであることがよくわかる。たとえばこうだ(SSA, 91-92頁)。

the breakdown of any given normative order, that is a state of chaos from a normative point of view, may well result in an order in the factual sense, that is a state of affairs susceptible of scientific analysis. Thus the "struggle for existence" is chaotic from the point of view of Christian ethics, but that does not in the least mean that it is not subject to law in the scientific sense, that is to uniformities of process in the phenomena.

規範的秩序が崩壊した場合、つまりその規範的観点から見てカオス状態となった場合でも、事実的には秩序であること、つまり科学的分析が可能な事態であるということはありうる。たとえば、「生存競争」はキリスト教倫理の観点から見ればカオスであるが、だからといって、それが科学的な意味での法則、つまり現象におけるプロセスの斉一性に従っていないということには決してならない。

ここは先の定義の部分の直後なのだが、規範的秩序の成立の如何が「規範的観点から」の評価によるものであることが明らかだろう。盛山の解釈が成り立つ余地はない。

実は、この「規範的観点からの評価」というポイントは、社会的秩序の「可能性の条件」をめぐる「ホッブズ的秩序問題」の問題構成にとっても枢要な位置を占めている(というか、だからこそパーソンズはこの箇所で規範的秩序の概念を導入したのだ)。

a "state of war" as Hobbes says, that is, from the normative point of view of the attainment of human ends, which is itself the utilitarian starting point, not an order at all, but chaos.

ホッブズの言う「戦争状態」は、功利主義の出発点である人間の目標達成という規範的観点から見ると、まったく秩序ではなく、カオスである。

このように、規範的秩序概念に含まれる「評価的」な側面を捉え損なっているがゆえに、盛山はパーソンズの言う「秩序問題」についても理解できていない。簡単に述べておくと、パーソンズの「秩序問題」には、(1)規範に従う行為者の行為選択と、(2)行為者を複数設定することによって帰結する社会的状態、(3)その社会的状態に対する規範的評価、この3つの成分が不可欠である。つまり、ここで規範は、行為者の行為選択を導く動因としての役割と、結果する社会状態に対する評価基準としての役割の二重役割を与えられているのである。ただこの問題構成のメカニズムについては、盛山に限らずほとんどの人(特にパーソンズを論点先取だといって批判する人たち)が理解できていないので、これはエントリを改めて詳細に論じる必要があるだろう。


いずれにせよ、パーソンズの「規範的秩序」は、特定の規範的観点から評価した場合に秩序と認められるものという意味であるのに対して、盛山が理解し批判している「パーソンズの「規範的秩序」」は、規範の存在が原因として作用して成立する秩序のことであり、この理解は間違いである。

実のところ、盛山は少なくとも1990年代前半から一貫してこの誤った理解に基づいてパーソンズ論を展開している。まず、『秩序問題と社会的ジレンマ』(1991年)所収の論文「秩序問題の問いの構造」にはこうある(10頁)。

他方、規範的秩序の方は、「どのような状態であるか」という形での定義は一切与えられておらず、せいぜい「常に所与の規範ないし規範的要素の体系に対して相対的」であって、「この意味における秩序とは、規範的体系によってしかれた経路に沿ってものごとが生起していることを意味する」と述べられているだけである。つまり、単に、「規範に沿って」と特徴づけられているだけで、「どのような状態が、規範に沿った状態であるか」が何も述べられていない。このことは、パーソンズが、規範が要因として働いてそれに沿った秩序を生み出しているというメカニズムとその結果として生じる社会状態とを概念的に区別できていないことを意味している。つまり、秩序の存在条件とその概念それ自体とが混同されている。

われわれはすでにパーソンズの「規範的秩序」を正しく理解しているため、どのような状態が規範的秩序であるかは、そのつど特定の規範的評価観点によって定義されるため、パーソンズがここで一般的に直接定義しないのは当然であることがわかる。そして太字で示した部分に、盛山の規範原因論的な規範的秩序理解が現れていることも一目瞭然だろう。それが間違いである以上、「存在条件とその概念それ自体の混同」というのも当たらない。

さて、記述の重み・密度においても内容の独創性においても疑問の余地なく盛山の主著だと言える『制度論の構図』(1995年)では、この「規範的秩序」についてもはるかに慎重な議論が展開されている(41頁)。

規範的秩序の概念にも問題がある。パーソンズはこれを単に、「規範的体系に定められた道筋にしたがって物事が生起していること」と説明しているだけであるが、「規範にしたがっている秩序」という概念については、少なくとも次の三種類の異なるものがありうる。

(1)当該社会の成員によって現実に生起している事柄とは原理的に区別されて「規範的である」とみなされている物事の秩序。ここでは「規範的」なるものの概念化の主体は、当該社会の成員である。

(2)当該社会に規範が存在することによって、規範が存在しない場合とは区別されて、生起している物事の秩序

(3)理論家によって、現実に生起している事柄とは原理的に区別されて正義論的に「そうあるべきだ」と考えられる物事の秩序。

すでに見てきたように、盛山が「と説明しているだけ」という部分の直後の文章を読めば、パーソンズがこの概念で考えているのが(1)であることは明らかなのだが、盛山はこのように分類しただけで、パーソンズはこの分類の可能性・必要性に気づいていないという前提の上で話を進めてしまっている。この部分の議論は、「社会学にとって理論的問題を解決するとはどういうことか」について、非常に重要な示唆を多く含んだ有意義なものであり、私などは何度読んでも面白いのだが、パーソンズ理解としては根本的に間違っているため、なまじパーソンズの文章を読んだ上で読むとわけがわからなくなる。(救いは、いまどき誰もパーソンズなど読んでいないということだろう(苦笑))

少しだけ付け足しておくと、盛山が述べる「社会成員が主観的に奉戴している規範と、理論家が奉戴している規範とは明らかに別のものでありうる」という指摘は、当然パーソンズにとっても明らかなものなのであり、だからこそ(「当たり前のことだが though obvious」と断った上で)次のような注意をしているのである(SSA, 75頁)。

attribution of a normative element to actors being observed has no normative implications for the observer. The attitude of the latter may remain entirely that of an objective observer without either positive or negative participation in the normative sentiments of his subjects.

観察対象である行為者に規範的要素が帰属されたとしても、そのことが観察者に対して規範的な含意をもたらすことはない。観察者は対象の規範的感情に対して、正負いずれの態度もとる必要はない。一貫して客観的観察者としての態度を維持していればいいのである。

そして、この客観的中立的態度を維持することこそが、科学的研究が従うべき「規範」だとパーソンズは述べているのだ。