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2012年1月8日日曜日

パーソンズの「規範的秩序」


盛山和夫『社会学とは何か』第4章では、パーソンズの「規範的秩序」という概念に対する批判が述べられている。しかし、そもそもこの概念についての盛山の理解が間違っていると思うので、その点を指摘しておきたい。

まず盛山は、パーソンズの(『社会的行為の構造』における)定義を次のように訳している(74頁)。

規範的秩序は、常に規範ないし規範的要素の所与の体系に対して相対的である。この意味における秩序とは、規範的体系に定められた道筋に従って物事が生起するということを意味している。

そのうえで、次のように批判する(77頁)。

パーソンズの定義は、たんに「規範的体系に従って生起しているものが規範的秩序だ」としか言っていない。これだと、規範的体系どおりに生じているものが規範的秩序だということになる。つまり、人々が社会的に決められた所与の規範的体系にすなおに従っていること、それが規範的秩序だということになる。

そうだとすると、そもそも「秩序問題」という問題を考察する意味がなくなる。なぜなら、この場合には、「人々が所与の規範的体系に従うこと」が秩序問題の解決になり、それで答えはつきてしまう。それ以上、何も考察する必要がない。

ここにおける盛山の議論の特徴は、「従って」という文言を非常に重視していることだ。だから秩序が規範に「従う」とはどういうことかが非常に重要なポイントになる。しかし、この引用部分の中だけでも、基本的に異なる二つの事柄が、あたかも同じことであるかのように混同されてしまっている。

一つは、「規範的体系どおりに生じているものが規範的秩序だ」という部分であり、もう一つは、「人々が社会的に決められた所与の規範的体系にすなおに従っていること、それが規範的秩序だ」という部分である。盛山はこの二つを「つまり」で結んでいるが、明らかに無理のある接続だ。人々がそれぞれ特定の規範に従った結果、成立する社会的状態がその規範からみて逸脱的なものになってしまうことがあることは、ほとんど社会科学者の常識のような事柄だろう。

この混同からも明らかなように、盛山によるパーソンズ理解は、規範的秩序というのは規範の存在が原因となって成立する秩序のことだ(ここでは規範が人々の行動選択を統制することが原因となって成立する秩序、ということになっている)。

この直後の部分で、盛山は「従って」という言葉をもう少し検討しているが、そこを見るとこの点がより明瞭になる。そこでは次のように言われている(77-78頁)。

もっとも、パーソンズの文章はやや微妙で、「従って」という文言はせいぜい「影響作用を受けて」というほどの意味であるかもしれない。その可能性は高いのだが、その場合でも、では、たんに規範的体系の影響を受けているのが規範的秩序であって、そのような規範的秩序について、秩序はいかにして可能かと問うのであれば、その答えはやはり簡単で、「何らかの規範的体系の影響を受けていること」ということになる。

このように、盛山の議論は、規範が原因の秩序が規範的秩序だ、というパーソンズ解釈で一貫している。


さてしかし、この解釈は間違いである。このことを以下に示していく。結論を先に書いておくが、パーソンズの規範的秩序というのは、特定の規範を(秩序成立の原因ではなく)評価基準とした際に秩序と認められるもの、という意味である。

まずは、パーソンズの原文で、「規範的秩序」の定義を見てみよう。上で引いた訳文のもとは次のようになっている(The Structure of Social Action, 91頁)。

Normative order, on the other hand, is always relative to a given system of norms or normative elements, whether ends, rules or other norms. Order in this sense means that process takes place in conformity with the paths laid down in the normative system.

注目すべきは、盛山が「従って」としている部分であるが、これは原文では「in conformity with」であり、主語は「process」である。盛山はこれを、行為者によるかなり積極的な規範随順的態度のように解釈しているが、英文のニュアンスとしてはもっと消極的な「逸脱していない」「一致している」くらいの意味だろう。邦訳『社会的行為の構造』はこの部分を「即して」としている(このことからも、盛山が「従って」という訳語に強い意味を込めていることがわかる)。

さらに、この定義の後で、パーソンズは「規範的秩序でなくても事実的秩序であることがありうる」という指摘をしていて、そこを見ると盛山のような行為者随順論的解釈が間違いであることがよくわかる。たとえばこうだ(SSA, 91-92頁)。

the breakdown of any given normative order, that is a state of chaos from a normative point of view, may well result in an order in the factual sense, that is a state of affairs susceptible of scientific analysis. Thus the "struggle for existence" is chaotic from the point of view of Christian ethics, but that does not in the least mean that it is not subject to law in the scientific sense, that is to uniformities of process in the phenomena.

規範的秩序が崩壊した場合、つまりその規範的観点から見てカオス状態となった場合でも、事実的には秩序であること、つまり科学的分析が可能な事態であるということはありうる。たとえば、「生存競争」はキリスト教倫理の観点から見ればカオスであるが、だからといって、それが科学的な意味での法則、つまり現象におけるプロセスの斉一性に従っていないということには決してならない。

ここは先の定義の部分の直後なのだが、規範的秩序の成立の如何が「規範的観点から」の評価によるものであることが明らかだろう。盛山の解釈が成り立つ余地はない。

実は、この「規範的観点からの評価」というポイントは、社会的秩序の「可能性の条件」をめぐる「ホッブズ的秩序問題」の問題構成にとっても枢要な位置を占めている(というか、だからこそパーソンズはこの箇所で規範的秩序の概念を導入したのだ)。

a "state of war" as Hobbes says, that is, from the normative point of view of the attainment of human ends, which is itself the utilitarian starting point, not an order at all, but chaos.

ホッブズの言う「戦争状態」は、功利主義の出発点である人間の目標達成という規範的観点から見ると、まったく秩序ではなく、カオスである。

このように、規範的秩序概念に含まれる「評価的」な側面を捉え損なっているがゆえに、盛山はパーソンズの言う「秩序問題」についても理解できていない。簡単に述べておくと、パーソンズの「秩序問題」には、(1)規範に従う行為者の行為選択と、(2)行為者を複数設定することによって帰結する社会的状態、(3)その社会的状態に対する規範的評価、この3つの成分が不可欠である。つまり、ここで規範は、行為者の行為選択を導く動因としての役割と、結果する社会状態に対する評価基準としての役割の二重役割を与えられているのである。ただこの問題構成のメカニズムについては、盛山に限らずほとんどの人(特にパーソンズを論点先取だといって批判する人たち)が理解できていないので、これはエントリを改めて詳細に論じる必要があるだろう。


いずれにせよ、パーソンズの「規範的秩序」は、特定の規範的観点から評価した場合に秩序と認められるものという意味であるのに対して、盛山が理解し批判している「パーソンズの「規範的秩序」」は、規範の存在が原因として作用して成立する秩序のことであり、この理解は間違いである。

実のところ、盛山は少なくとも1990年代前半から一貫してこの誤った理解に基づいてパーソンズ論を展開している。まず、『秩序問題と社会的ジレンマ』(1991年)所収の論文「秩序問題の問いの構造」にはこうある(10頁)。

他方、規範的秩序の方は、「どのような状態であるか」という形での定義は一切与えられておらず、せいぜい「常に所与の規範ないし規範的要素の体系に対して相対的」であって、「この意味における秩序とは、規範的体系によってしかれた経路に沿ってものごとが生起していることを意味する」と述べられているだけである。つまり、単に、「規範に沿って」と特徴づけられているだけで、「どのような状態が、規範に沿った状態であるか」が何も述べられていない。このことは、パーソンズが、規範が要因として働いてそれに沿った秩序を生み出しているというメカニズムとその結果として生じる社会状態とを概念的に区別できていないことを意味している。つまり、秩序の存在条件とその概念それ自体とが混同されている。

われわれはすでにパーソンズの「規範的秩序」を正しく理解しているため、どのような状態が規範的秩序であるかは、そのつど特定の規範的評価観点によって定義されるため、パーソンズがここで一般的に直接定義しないのは当然であることがわかる。そして太字で示した部分に、盛山の規範原因論的な規範的秩序理解が現れていることも一目瞭然だろう。それが間違いである以上、「存在条件とその概念それ自体の混同」というのも当たらない。

さて、記述の重み・密度においても内容の独創性においても疑問の余地なく盛山の主著だと言える『制度論の構図』(1995年)では、この「規範的秩序」についてもはるかに慎重な議論が展開されている(41頁)。

規範的秩序の概念にも問題がある。パーソンズはこれを単に、「規範的体系に定められた道筋にしたがって物事が生起していること」と説明しているだけであるが、「規範にしたがっている秩序」という概念については、少なくとも次の三種類の異なるものがありうる。

(1)当該社会の成員によって現実に生起している事柄とは原理的に区別されて「規範的である」とみなされている物事の秩序。ここでは「規範的」なるものの概念化の主体は、当該社会の成員である。

(2)当該社会に規範が存在することによって、規範が存在しない場合とは区別されて、生起している物事の秩序

(3)理論家によって、現実に生起している事柄とは原理的に区別されて正義論的に「そうあるべきだ」と考えられる物事の秩序。

すでに見てきたように、盛山が「と説明しているだけ」という部分の直後の文章を読めば、パーソンズがこの概念で考えているのが(1)であることは明らかなのだが、盛山はこのように分類しただけで、パーソンズはこの分類の可能性・必要性に気づいていないという前提の上で話を進めてしまっている。この部分の議論は、「社会学にとって理論的問題を解決するとはどういうことか」について、非常に重要な示唆を多く含んだ有意義なものであり、私などは何度読んでも面白いのだが、パーソンズ理解としては根本的に間違っているため、なまじパーソンズの文章を読んだ上で読むとわけがわからなくなる。(救いは、いまどき誰もパーソンズなど読んでいないということだろう(苦笑))

少しだけ付け足しておくと、盛山が述べる「社会成員が主観的に奉戴している規範と、理論家が奉戴している規範とは明らかに別のものでありうる」という指摘は、当然パーソンズにとっても明らかなものなのであり、だからこそ(「当たり前のことだが though obvious」と断った上で)次のような注意をしているのである(SSA, 75頁)。

attribution of a normative element to actors being observed has no normative implications for the observer. The attitude of the latter may remain entirely that of an objective observer without either positive or negative participation in the normative sentiments of his subjects.

観察対象である行為者に規範的要素が帰属されたとしても、そのことが観察者に対して規範的な含意をもたらすことはない。観察者は対象の規範的感情に対して、正負いずれの態度もとる必要はない。一貫して客観的観察者としての態度を維持していればいいのである。

そして、この客観的中立的態度を維持することこそが、科学的研究が従うべき「規範」だとパーソンズは述べているのだ。

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