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2011年12月13日火曜日

ジンメルの心的相互作用について

盛山先生の『社会学とは何か』41-42頁にこうあった。

相互作用があれば、そこに社会があるといえるか。ジンメルはそうではないと考える。彼は、社会を構成するのはたんなる相互作用ではなくて、「心的相互作用」だという。

(中略)

相互作用というだけなら、街頭ですれ違う人と「ちょっとだけ目をかわす」というのも相互作用だ。それは、たんにショウウインドウの中を見たり、信号を見たりするのとは異なって、明らかに相手を他者として、しばしばとくに「異性」として、意識している。しかしそのレベルでの相互作用はまだ社会を構成する要素たりえないとジンメルは考える。

この議論をするために、ジンメルの『社会学の根本問題』(阿閉吉男訳)22頁から次の箇所が引かれている。

社会概念をそのごく普通の意味でとらえれば、それは個人間の心的相互作用ということになる。このように定義したからと言って、ある種の限界現象がただちにこれに結びつくというふうに誤解してはならない。つまり、二人の人間がちょっとだけ目をかわすとか、出札口で押しあうというだけでは、まだ社会化しているとはいえないであろう。

実のところ、ジンメルが「心的」という形容で何を意味しているのかよく知らないのだが、少なくともこの訳文が間違っているということは言える。原文はこうだ。

Fasst man diesen in seiner weitesten Allgemeinheit, so bedeutet er die seelische Wechselwirkung zwischen Individuen. An dieser Bestimmung darf nicht irre machen, dass gewisse Grenzerscheinungen sich ihr nicht ohne weiteres fügen: wenn zwei Personen sich flüchtig anblicken oder sich an einer Billettkasse gegenseitig drängen, so wird man sie darum noch nicht vergesellschaftet nennen.

(私が唯一もっている)清水幾太郎訳『社会学の根本概念』20頁ではこうなっている。

社会概念を最も広く解すれば、諸個人間の心的相互作用を意味する。もっとも、二人の人間がチラッと顔を見合わせたり、切符売場で押し合ったりしても、まだ二人が社会を作っているとは言えないであろうが、しかし、こういう限界現象が右の規定に簡単に当て嵌まらないからといって、それで右の規定に戸惑う必要はない。

清水訳は基本的にだらだら文体なのでよくわからないが、ニュアンスは阿閉訳とは正反対である。そして方向性としてはこっちが正しい。

なお、私なら次のように訳す。

社会概念を最も一般的に定義するなら、それは個人間の心的相互作用のことだ。このように定義すると、二人の人間がちょっと視線をかわすとか、切符売場で押し合うとかいった限界事象はこの定義にうまくはまらない気がしてくる。その程度では社会化しているとは言えないのではないかと。だが、そうした疑念に惑わされてはいけない。

要するに、「視線をかわす」とか「押し合う」も心的相互作用の(限界事例とはいえ)一種だという解釈である。ジンメルの言い回しは微妙ではあるが、しかしこの引用文の直後を見ると、そう考えざるをえない。

Allein hier ist die Wechselwirkung auch eine so oberflächliche und vorüberfliegende, dass man in ihrem Maße auch von Vergesellschaftung reden könnte, bedenkend, dass solche Wechselwirkungen nur häufiger und intensiver zu werden, sich mit mehreren, generell gleichen zu vereinen brauchen, um diese Bezeichnung zu berechtigen.

清水訳はこうだ。

ただ、この場合の相互作用は非常に表面的で一時的であるが、それでも、それなりに社会を作っていると言えるものの、これが大切な点なのだが、本当に社会を作っていると言えるためには、こういう相互作用がもっと頻度や強度を増し、それに似た多くの相互作用と結びつきさえすればよいのである。

例によってだらだらしすぎていて何を言っているのかわかりにくい(本人もよくわからないまま、適当に接続詞でつなげているだけなので)が、「表面的で一時的」な相互作用も「社会を作っていると言える」ということは読み取れる。

私ならこう訳す。

このように表面的で一時的な相互作用であっても、それが頻度と密度を増し、他の多くの似たような相互作用と結びつきさえすれば、それを社会化と呼んでもおかしくないわけで、そう考えるならば、表面的で一時的な相互作用であっても、それはそれなりに社会化だと言っていいはずだ。

阿閉訳がこの箇所をどう訳しているのか確認できないので残念だが、代わりに Kurt H. Wolff による英訳 The Sociology of Georg Simmel (リンク先は Internet Archive で、PDFが無料でDLできる)9頁を挙げておこう。

If the concept "society" is taken in its most general sense, it refers to the psychological interaction among individual human beings. This definition must not be jeopardized by the difficulties offered by certain marginal phenomena. Thus, two people who for a moment look at one another or who collide in front of a ticket window, should not on these grounds be called sociated. Yet even here, where interaction is so superficial and momentary, one could speak, with some justification, of sociation. One has only to remember that interactions of this sort merely need become more frequent and intensive and join other similar ones to deserve properly the name of sociation.

おおむね私の訳と似ていると言っていいだろう。

そもそも、この箇所でジンメルは、「心的」というのがどういうことなのかを説明しようとしているのではないし、そのあとにも特に説明は出てこない。ここでジンメルが主張しているのは、「社会(Gesellschaft)」という言葉は国家や会社みたいな大規模な集合的単位にしか使われないのが普通だが、自分はちっぽけな相互作用にもこの言葉を使いたい、そのために、「社会化(Vergesellschaftung)」という言葉に加工して使うんだ、ということである。だから文脈的に考えても、「こんなちっぽけなものでも社会(化)なんだ!」というニュアンスの文章でないとおかしいのである。

そのうち、阿閉訳ないし最新の居安訳(『社会学の根本問題』)、あとジンメルの別の本ないしジンメル研究を見て、何か必要があれば補足するかもしれない。




上の話とは直接関係ないが、やはり『社会学とは何か』53-54頁に気になる文章が・・・ ジンメルの『社会学』39頁から「社会は客観的な統一体、それに含まれない観察者を必要とはしない統一体なのである」という文を引用したうえで次のように述べる。

しかし問題は、ジンメルがここで「統一体」というような言葉を使っていることである。「統一体」といえば、なにか「よく秩序づけられた全体」というような意味をもってしまう。社会がそうした統一体だということは経験的にもけっして正しくないし、規範的な含意においてもミスリーディングである。

共同性をなにか「よく秩序づけられた関係性」のようなものだと前提してしまうと、現実に存在する共同性に潜んでいる問題を発見したり、欠陥のある共同性を考察の俎上にのせたりすることが困難になる。共同性の概念は、そうした暗黙の「規範的な正当化」を避けて、もっと中立的に組み立てられなければならない。

「統一体」という言葉についてはまったく同意だが、もちろん「統一体」という日本語を使っているのはジンメルではなくて訳者の居安正である。ジンメルは「Einheit」と言っているだけだ。英語で言うなら「unity」。「一つ(ein)であること」という以上の意味はない。「単位」と訳しても問題ない。そう訳せば「よく秩序づけられた全体」という含意はないわけで、日本語のニュアンスをジンメルのせいにされても・・・と言わざるをえない。

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