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2012年1月15日日曜日

【私訳】パーソンズ「ホッブズと秩序問題」

パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」について、それがいかなる問題であり、その問題をパーソンズがどのように扱おうとしたのかを正確に理解するために、まずは『社会的行為の構造』の該当部分、つまり「ホッブズと秩序問題」(原書89-94頁)を以下に訳出します。





ホッブズと秩序問題

本書の目的からすると、自然状態とは万人の万人に対する戦争であるという有名な概念化こそが、ホッブズの社会思想の基礎であると言ってよい。ホッブズというのは規範的思考をほとんどしない人だった。何をすべきであるかという理想を掲げることはなく、社会生活の究極的条件をひたすら探求するだけだ。ホッブズに言わせれば、人間というのは複数の情念に導かれる存在だ。善とはその各人の欲望の対象にすぎない(注)。しかし残念ながら、各人の欲望の実現可能性の程度には限界がある。この限界は主として人間と人間のあいだの関係の本質それ自体に根ざすものだ、というのがホッブズの考えである。

人間に理性が欠如しているわけではない。だが理性の本質は、情念の下僕たることにある。つまり理性というのは、各人が自らの欲望の対象を獲得するための方法や手段を案出する能力のことなのだ。そして欲望はランダムだ。つまり、「対象それ自体の本性から引き出されるべき、善悪を定める共通の規則」(注)は存在しない。だから行為の究極目的たる情念は各人ばらばらであり、それゆえ、各人が自らの情念を追求することによってそこに紛争が生じるとしても、それを妨げるものは何もないのである。

ホッブズの考えでは、そのように危険な紛争が生じる理由は、そこにおいて力が演じる役割にあるという。人間は誰もが自分の欲望を実現しようと求める。そのため必然的に、各人はそれぞれ自分の欲望を実現するための手段を支配しようと求めなければならない。一人の人間がもつ力とは、ホッブズ自身の言葉で言うと「将来自分にとっての善を獲得するために当人が現在所持している手段」のことである。この力の大部分を占めるのが、他人に対して承認と奉仕を命じる能力である。ホッブズの議論では、手段というのはその本性からして限りのあるものだが、この力こそはそのなかでも最も重要なものなのだ。その結果、ある人が自分の目的を実現するための手段を有するならば、別の人はその手段を有することができないということになる。こうして、当座の目的としての力は、必然的に人間同士の争いの種になってしまうのである。

自然は人間を、心身の能力において平等につくった。他の人より明らかに強靭な身体をもった人や、他の人より明らかに頭の回転の速い人というのが時々いることはいるが、全般的に見れば、人と人のあいだの違いというのはそうたいしたものではない。ある人が別の人よりもそれで特に利益を得るということはない。その程度の違いにすぎない。(中略)このような能力の平等から、目的達成における希望の平等が生じる。だから、もし二人の人間が同じものを欲し、しかし二人同時に享受することが不可能である場合には、この二人は互いに敵対することになる。そしてその目的への途上において、相手を打倒し屈服させようと努力することになる(注)。

何の制約もない場合には、人間はこの直近の目的を実現するために、利用可能な手段のなかで最も効率の良いものを採用することになる。その目的にとって最も効率の良い手段とは、煎じ詰めれば暴力と欺瞞のことである(注)。したがって、誰もが他の全員に対して敵となり、誰もが他の全員を暴力や欺瞞を用いて打倒し屈服させようと努力するような状況が生じることになる。これこそは戦争状態にほかならない。

だがこの戦争状態というのは、人間の欲望充足からは最もかけはなれた状態である。ホッブズの有名な言葉を引くなら、戦争状態における人生というものは「孤独で、貧しく、卑しく、残忍で、短い」(注)ものだ。そんな状態に陥ってしまったら……という恐怖から、人間は理性を起動する。すべての情念のなかで最も根本的なのは自己保存の情念であり、理性はその下僕として喚び出されるのだ。そして理性が少しでも働けば、社会契約にこの困難を解決する可能性があることが見出される。人々は自然に有する自らの自由を、合意の上で至高の権威に譲渡し、それと引き換えに、この至高の権威によって自らの安全を保障してもらう。つまり他人からの暴力や欺瞞による攻撃を受けずにすむようにしてもらう。この至高者の権威によってのみ、万人の万人に対する戦争は抑止され、秩序と安全が維持されるのだ。

前章の定義に則って言えば、ホッブズの社会理論の体系は、功利主義のほとんど純粋なケースである。この理論では、人間の行為の基礎は「情念」にある。情念は個々ばらばら、ランダムに生じる行為の目的であり、「対象それ自体の本性から引き出されるべき、善悪を定める共通の規則は存在しない」。人間は、この目的を実現しようと合理的に行為する。つまり、状況による制約の枠内で最も効率的な手段を選択する。だがこの合理性には厳しい限界がある。理性は「情念の下僕」であり、それを実現するための方法や手段を選択するためにしか用いられない。

このようにホッブズは、功利主義的な行為システムの基本単位を異常なほど細かく定義したのだが、その射程はそこにとどまらず、はるか先にまで届いている。つまり、この基本単位を実際に定義した場合、そこから帰結する具体的なシステムはどのようなものになるか、それを演繹的に示したのだ。その結果、ホッブズはある経験的問題に逢着することになった。それが秩序問題だ。これは、本書においてもここで初めて登場する問題である。というのも本書の議論はここまでのところ、単位を定義することと、功利主義思想におけるその単位間の論理的関係を摘示することに限定されてきたからだ。いずれにせよ、ホッブズが提起した意味でのこの問題は、功利主義思想の最も根本的な経験的困難を構成するものである(注)。そしてこの問題は、功利主義システムとその結果についての歴史的議論の主軸を形成することになる。

(注)同じくらい根本的な問題として、経験的に妥当な合理性を設定するという問題があるが、ここでは本書の分析の目的から、戦略的に秩序の問題をとりあげている。

この点に関するホッブズの議論の帰趨を確かめる前に、用語の整理をしておこう。秩序という言葉には実は二つの異なる意味があるのだが、それが往々にして混同されてしまいがちだからだ。一つは規範的秩序、もう一つを事実的秩序と呼ぶことができるだろう。事実的秩序の反対は、現象が統計学の確率法則に従うという厳密な意味でのランダム性ないし偶然性である。この場合、事実的秩序が成立しているということは、論理的な理論、特に科学の理論によって基本的に理解可能であるということを含意することになる。偶然の変動は論理的に理解したり、法則に還元することが不可能である。偶然性とかランダム性というのは、理解不可能なもの、知的な分析ができないものにつけられた名前にほかならないのである(注)。

(注)この理解可能性を、経験科学による理解可能性に限るのは、実証主義の場合だけである。この前提のもとでは、科学的に理解可能であるか、ランダムなカオスであるかの二つ以外の可能性はありえない。つまり実証主義にとっては、科学の限界が、人間の理解の絶対的限界となるのである。

これに対して、規範的秩序はつねに、所与の規範や規範的要素(目的、規則、その他の規範)のシステムに相対的である。つまり規範的秩序とは、規範的システムにおいて敷かれた道筋に合致してプロセスが生じているということである。ここでさらに二点、注意が必要である。第一に、規範的秩序が崩壊した場合、つまりその規範的観点から見てカオス状態となった場合でも、事実的には秩序であること、つまり科学的分析が可能な事態であるということはありうる。たとえば、「生存競争」はキリスト教倫理の観点から見ればカオスであるが、だからといって、それが科学的な意味での法則、つまり現象におけるプロセスの斉一性に従っていないということには決してならない。第二に、規範的秩序には一定の状況のもとでは崩壊して「カオス」になってしまう可能性が論理的に内在しているのだが、にもかかわらず、プロセスが何らかの規範的要素にある程度合致していることを条件に成立するような特別な事実的秩序というのがあって、その場合には、当該の規範的要素がその事実的秩序の維持に対して決定的に重要な働きをするのである。社会的秩序はまさにその一例である。科学的分析が可能なかぎりでそれは事実的秩序なのだが、後述するように、それは、一定の規範的要素が有効に機能しなければ安定性をもちえないような種類の秩序でもあるのだ。

(訳出途中。つづく)

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