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2012年1月17日火曜日

パーソンズの死の前後

高城和義の『パーソンズとアメリカ知識社会』(337頁)は、タルコット・パーソンズが死んだときの状況について次のように述べている。

[1979年、ハイデルベルク大学でのシンポジウムに参加した後、パーソンズは]さらにミュンヘンに向かっている。ミュンヘン大学では5月7日の昼に、「現代社会の構造における社会階級の意義の減少」と題して講演し、さらにその日の夕方、ミュンヘン大学マックス・ウェーバー研究所の図書館でも講演した。このとき彼は、ウェーバーの胸像を飾った部屋で、自己の理論形成にとってウェーバーのもった意義について語っている。その夜、彼は突然、心臓発作をおこして急逝する。ほとんど苦しむことなく、安らかな死に顔であったときく。享年76歳であった。

この「ウェーバーの胸像を飾った部屋」での講演の様子が下の写真である。

これはミュンヒェン大学のホルスト・J・ヘレ教授のサイトに載っている画像だが、キャプションとしてこうある。

1979年5月7日(月):パーソンズはコンラート通り6番にある社会学部棟でインフォーマルセミナーを開いた。このセミナーでは時間を延長して質疑応答がなされた。


さらに、上記ウェブページには、パーソンズの死について詳細な記述がある(というのも、このときパーソンズをミュンヒェンに招いたのがこのヘレ教授だから)。

ミュンヒェンでのパーソンズ最後の日

タルコット・パーソンズ(1902年12月13日~1979年5月8日)がミュンヒェンに到着したのは1979年5月6日(水)のことだった。夫人のヘレンとともに、ハイデルベルクから約4時間列車で揺られてきたのだった。パーソンズは1929年にハイデルベルク大学で博士号を授与されたのだが、今回はそれから50周年記念ということで大学から招待されていたのだ。記念式典は5月1日から5月6日まであって、もちろん彼も楽しんだことと思うが、齢76歳のことであるから、それなりに大変だっただろうとも思う。とはいえミュンヒェン中央駅で出迎えたときは元気そうだったし、その足で同僚や学生らにも会ってくれた。

夫妻は、その晩モンジュラ宮殿の一階に入っているレストランで我々と結構長い時間を過ごした後で、ミュンヒェンヒルトンホテルに引き上げていった。1979年5月7日(月)の午前、パーソンズはミュンヒェン大学の由緒ある本棟の332番講堂で講演を行った。この棟はマックス・ヴェーバーがミュンヒェンで亡くなる前、生前最後の講義をした建物でもあった。午後には、コンラート通り6番にある社会学部棟でインフォーマルセミナーを開き、このセミナーでは時間を延長して質疑応答がなされた。

その日の晩は、賓客としてパーティに出席してもらう予定だったのだが、気分がすぐれずホテルの部屋で休むとのことで、夫人だけが出席することになった。パーソンズは月曜から火曜にかけて、つまり1979年5月8日の未明に亡くなったのだった。

私がタルコット・パーソンズと個人的に知己を得たのは1967年のことで、ハーヴァード大学に伺ってのインタヴューに快く応じてくれたのだった。

ホルスト・J・ヘレ


ヘレ教授は、このときのことを、ハーバート・ブルーマーへのインタヴューで少し触れている。

ヘレ: タルコット・パーソンズは、たまたま私のゲストとしてミュンヒェン滞在中に亡くなったのですが……

ブルーマー: ああ、ミュンヒェン、そうでした。

ヘレ: ……当時はヘレン・パーソンズを慰めたり、遺体の管理をしたりで大変でした。そうしたことすべてが大変悲しいことでした。


さらに、ヘレ教授は後日ヘレンから届いた礼状(1979年5月24日付)も公開していた(過去形で書くのは、以前のサイトにはあったのが、現在のサイトには見つからないから。以下の画像は Internet Archive で保存されているもの)。

親愛なるヘレ教授

タルコットの遺灰は昨日、無事に届きましたのでご安心ください。小包で戸口まで配達してくれました。ジャフリー墓地への埋葬は土曜日の予定ですから、まだしばらくかかります。息子のチャールズとその家族、それに近い親族が何人か来てくれることになっています。パーソンズ家の墓は松の大木の下の一画で、それは美しいところです。私どもの娘のアンをはじめ、タルコットの家族がすでに何人も眠っています。

私どものミュンヒェン旅行があのような形で終わってしまったのは悲しいことですが、長い間病気で苦しんだり、徐々に頭脳が衰えていくよりは、タルコットにとってはるかに望ましい最期だったと思います。

それにしても、その節は大変お世話になりました。なんとお礼を申し上げていいかわかりません。貴方のおかげで警察の質問にもあまり苦痛を感じずにすみましたし、またご手配いただいた火葬の儀は、おかげさまで荘厳で美しいものになりました。それにご家族でボストンまでお見送りいただくお手間をかけました。できましたら今後ともお付き合いを続けさせていただき、いつかまたお会いしたいと思っております。

立て替え分のお支払いはあれで十分でしたでしょうか。不足の場合は、お知らせ願えれば幸いです。

最後になりましたが、もう一度、心からのお礼を申し上げたいと思います。

ヘレン


現在のパーソンズ研究で以上のドキュメントが参照されているのかどうかは知らない。

2012年1月15日日曜日

【私訳】パーソンズ「ホッブズと秩序問題」

パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」について、それがいかなる問題であり、その問題をパーソンズがどのように扱おうとしたのかを正確に理解するために、まずは『社会的行為の構造』の該当部分、つまり「ホッブズと秩序問題」(原書89-94頁)を以下に訳出します。





ホッブズと秩序問題

本書の目的からすると、自然状態とは万人の万人に対する戦争であるという有名な概念化こそが、ホッブズの社会思想の基礎であると言ってよい。ホッブズというのは規範的思考をほとんどしない人だった。何をすべきであるかという理想を掲げることはなく、社会生活の究極的条件をひたすら探求するだけだ。ホッブズに言わせれば、人間というのは複数の情念に導かれる存在だ。善とはその各人の欲望の対象にすぎない(注)。しかし残念ながら、各人の欲望の実現可能性の程度には限界がある。この限界は主として人間と人間のあいだの関係の本質それ自体に根ざすものだ、というのがホッブズの考えである。

人間に理性が欠如しているわけではない。だが理性の本質は、情念の下僕たることにある。つまり理性というのは、各人が自らの欲望の対象を獲得するための方法や手段を案出する能力のことなのだ。そして欲望はランダムだ。つまり、「対象それ自体の本性から引き出されるべき、善悪を定める共通の規則」(注)は存在しない。だから行為の究極目的たる情念は各人ばらばらであり、それゆえ、各人が自らの情念を追求することによってそこに紛争が生じるとしても、それを妨げるものは何もないのである。

ホッブズの考えでは、そのように危険な紛争が生じる理由は、そこにおいて力が演じる役割にあるという。人間は誰もが自分の欲望を実現しようと求める。そのため必然的に、各人はそれぞれ自分の欲望を実現するための手段を支配しようと求めなければならない。一人の人間がもつ力とは、ホッブズ自身の言葉で言うと「将来自分にとっての善を獲得するために当人が現在所持している手段」のことである。この力の大部分を占めるのが、他人に対して承認と奉仕を命じる能力である。ホッブズの議論では、手段というのはその本性からして限りのあるものだが、この力こそはそのなかでも最も重要なものなのだ。その結果、ある人が自分の目的を実現するための手段を有するならば、別の人はその手段を有することができないということになる。こうして、当座の目的としての力は、必然的に人間同士の争いの種になってしまうのである。

自然は人間を、心身の能力において平等につくった。他の人より明らかに強靭な身体をもった人や、他の人より明らかに頭の回転の速い人というのが時々いることはいるが、全般的に見れば、人と人のあいだの違いというのはそうたいしたものではない。ある人が別の人よりもそれで特に利益を得るということはない。その程度の違いにすぎない。(中略)このような能力の平等から、目的達成における希望の平等が生じる。だから、もし二人の人間が同じものを欲し、しかし二人同時に享受することが不可能である場合には、この二人は互いに敵対することになる。そしてその目的への途上において、相手を打倒し屈服させようと努力することになる(注)。

何の制約もない場合には、人間はこの直近の目的を実現するために、利用可能な手段のなかで最も効率の良いものを採用することになる。その目的にとって最も効率の良い手段とは、煎じ詰めれば暴力と欺瞞のことである(注)。したがって、誰もが他の全員に対して敵となり、誰もが他の全員を暴力や欺瞞を用いて打倒し屈服させようと努力するような状況が生じることになる。これこそは戦争状態にほかならない。

だがこの戦争状態というのは、人間の欲望充足からは最もかけはなれた状態である。ホッブズの有名な言葉を引くなら、戦争状態における人生というものは「孤独で、貧しく、卑しく、残忍で、短い」(注)ものだ。そんな状態に陥ってしまったら……という恐怖から、人間は理性を起動する。すべての情念のなかで最も根本的なのは自己保存の情念であり、理性はその下僕として喚び出されるのだ。そして理性が少しでも働けば、社会契約にこの困難を解決する可能性があることが見出される。人々は自然に有する自らの自由を、合意の上で至高の権威に譲渡し、それと引き換えに、この至高の権威によって自らの安全を保障してもらう。つまり他人からの暴力や欺瞞による攻撃を受けずにすむようにしてもらう。この至高者の権威によってのみ、万人の万人に対する戦争は抑止され、秩序と安全が維持されるのだ。

前章の定義に則って言えば、ホッブズの社会理論の体系は、功利主義のほとんど純粋なケースである。この理論では、人間の行為の基礎は「情念」にある。情念は個々ばらばら、ランダムに生じる行為の目的であり、「対象それ自体の本性から引き出されるべき、善悪を定める共通の規則は存在しない」。人間は、この目的を実現しようと合理的に行為する。つまり、状況による制約の枠内で最も効率的な手段を選択する。だがこの合理性には厳しい限界がある。理性は「情念の下僕」であり、それを実現するための方法や手段を選択するためにしか用いられない。

このようにホッブズは、功利主義的な行為システムの基本単位を異常なほど細かく定義したのだが、その射程はそこにとどまらず、はるか先にまで届いている。つまり、この基本単位を実際に定義した場合、そこから帰結する具体的なシステムはどのようなものになるか、それを演繹的に示したのだ。その結果、ホッブズはある経験的問題に逢着することになった。それが秩序問題だ。これは、本書においてもここで初めて登場する問題である。というのも本書の議論はここまでのところ、単位を定義することと、功利主義思想におけるその単位間の論理的関係を摘示することに限定されてきたからだ。いずれにせよ、ホッブズが提起した意味でのこの問題は、功利主義思想の最も根本的な経験的困難を構成するものである(注)。そしてこの問題は、功利主義システムとその結果についての歴史的議論の主軸を形成することになる。

(注)同じくらい根本的な問題として、経験的に妥当な合理性を設定するという問題があるが、ここでは本書の分析の目的から、戦略的に秩序の問題をとりあげている。

この点に関するホッブズの議論の帰趨を確かめる前に、用語の整理をしておこう。秩序という言葉には実は二つの異なる意味があるのだが、それが往々にして混同されてしまいがちだからだ。一つは規範的秩序、もう一つを事実的秩序と呼ぶことができるだろう。事実的秩序の反対は、現象が統計学の確率法則に従うという厳密な意味でのランダム性ないし偶然性である。この場合、事実的秩序が成立しているということは、論理的な理論、特に科学の理論によって基本的に理解可能であるということを含意することになる。偶然の変動は論理的に理解したり、法則に還元することが不可能である。偶然性とかランダム性というのは、理解不可能なもの、知的な分析ができないものにつけられた名前にほかならないのである(注)。

(注)この理解可能性を、経験科学による理解可能性に限るのは、実証主義の場合だけである。この前提のもとでは、科学的に理解可能であるか、ランダムなカオスであるかの二つ以外の可能性はありえない。つまり実証主義にとっては、科学の限界が、人間の理解の絶対的限界となるのである。

これに対して、規範的秩序はつねに、所与の規範や規範的要素(目的、規則、その他の規範)のシステムに相対的である。つまり規範的秩序とは、規範的システムにおいて敷かれた道筋に合致してプロセスが生じているということである。ここでさらに二点、注意が必要である。第一に、規範的秩序が崩壊した場合、つまりその規範的観点から見てカオス状態となった場合でも、事実的には秩序であること、つまり科学的分析が可能な事態であるということはありうる。たとえば、「生存競争」はキリスト教倫理の観点から見ればカオスであるが、だからといって、それが科学的な意味での法則、つまり現象におけるプロセスの斉一性に従っていないということには決してならない。第二に、規範的秩序には一定の状況のもとでは崩壊して「カオス」になってしまう可能性が論理的に内在しているのだが、にもかかわらず、プロセスが何らかの規範的要素にある程度合致していることを条件に成立するような特別な事実的秩序というのがあって、その場合には、当該の規範的要素がその事実的秩序の維持に対して決定的に重要な働きをするのである。社会的秩序はまさにその一例である。科学的分析が可能なかぎりでそれは事実的秩序なのだが、後述するように、それは、一定の規範的要素が有効に機能しなければ安定性をもちえないような種類の秩序でもあるのだ。

(訳出途中。つづく)

2012年1月13日金曜日

【私訳】ヨハネウムの生徒としてのニクラス・ルーマン

リューネブルク時代、つまり大学入学前のルーマンについてはあまり知られていないと思うので、以下の文章を訳出しました。非常に詳しくてためになります。原文はこちら






ヨハネウムの生徒としてのニクラス・ルーマン

2002年12月8日に、ニクラス・ルーマンは生誕75周年を迎えた。これを記念して、2002年12月6日から8日にかけて、リューネブルク大学で『ニクラス・ルーマンと文化理論』と題する会議が催された。国内外から一堂に会した名立たるルーマニアンたちが報告を行う中で、ヨハネウムは「ヨハネウム・リューネブルク校の生徒としてのニクラス・ルーマン」と題する展示を行った。


ニクラス・ルーマンは1927年12月8日にリューネブルクで生まれ、1937年の復活祭の日に、9歳でヨハネウムの生徒としてギムナジウムに入学してきた。そのため最初はラテン語の授業を受けることになった。ニクラスは入学時にすでに1学年飛び級していたので、結局基礎学校には3年在学しただけで卒業を迎えた。1406年創建のヨハネウムは当時、1870年から72年にかけて建てられたハーゲ通りの端の建物にあった。これは現在では市中心部の基幹学校とオリエンテーション段階の建物になっている。ルーマン家はリューネブルクの旧家で、港湾地区にあった。ニクラス・ルーマンの父ヴィルヘルム・ルーマンは、そこで小規模なビール醸造所兼麦芽製造所を経営しており、母親の方はスイスのホテル経営者の娘だった。現在その建物には古書店「プリニアーナ」と、飲食店「ポンス」が入っている。

ニクラスの家からギムナジウムまでは600メートルほどだったため、通学は楽だった。ルーマンがヨハネウムに入学した1937年というのは、民族社会主義の狂気がその数年前から忍び寄ってきている時代だった。ルーマン家は民族社会主義からは距離をとり、これを拒絶していた。ニクラスの父はもともと経済リベラルな人だったため、社会民主主義にも民族社会主義にも反対しており、権力者が交代した1933年以降は、様々な困難を抱えることになった(Detlef Horster, 1997, Niklas Luhmann, Beck-Verlag, p. 25 ff.)。

幼少期から少年期まで、ニクラス・ルーマンは夏期休暇をスイスで過ごした。彼はそこで、当時のドイツでは望ましくないと考えられていた政治的見解を学んでいた。たとえば彼は反フランコで、そのためヨハネウムの教師は彼の政治的見解を問題視し、父親が学校に呼び出されたりもした。ニクラス・ルーマンの児童期のことについては、これ以外にはあまり知られていない。飛び級で入学したため、同級生たちはみな1926年生まれでニクラスが一番年下だったが、授業に熱心に参加する様子はよく目立っていた。

民族社会主義による権力掌握と統制の網は、ヨハネウムもまたこれを免れなかった(以下の記述は、“Kantelhardt, Adolf: Das Johanneum zu Lüneburg,” in: Festschrift zum 550-jährigen Bestehen des Johanneums, Lüneburg 1956, S. 38 ffによる)。1935年以降は、14歳から18歳までの全生徒がヒトラー少年団(HJ)に、10歳から13歳までの全生徒が少国民(ドイツ少年団、DJ)に入隊させられることになった。教師も、NSLB(民族社会主義教員連盟)かNSV(民族社会主義国民福祉局)のいずれかに所属させられた。かねて毎週始めには朝の礼拝の時間があったのだが、これに代えて、校庭での党旗掲揚か、民族社会主義式の朝礼が行われるようになった。

党の命令による学外活動(ヒトラー少年団のキャンプ等)のため授業は大幅に阻碍され、生徒の成績は悪化した。これは、民族社会主義党によって任命されたヨハネウムの校長ですら、認めざるを得ないほどだった。民族社会主義党は、高等学校の8年制を導入した。これはつまり、高等学校の、ひいてはギムナジウムの修了年限を1年短縮したということである。また卒業のために必要な口答試験に、生物学が義務化された。これは生物学こそが、民族社会主義党の人種学教化の場だったからである。その他、歴史や国語といった学科でも、民族社会主義党の指針に沿ったイデオロギー的な学習計画が採用された。ただし、実際の授業の進め方についてはまだ個々の教師の裁量に委ねられてはいた。それも1939年に第二次世界大戦が始まると、規則に沿った授業進行が厳しく求められるようになった。正規の卒業試験が行われたのは1942年が最後でこのときの卒業生は7名であった。それ以外の生徒は、卒業試験を待たずして徴兵されていったからである。

1943年の徴兵名簿などを見ると、当時のヨハネウムの住所は「Gauleiter-Telschow-Wall 1」となっている。リューネブルクは1937年に、それまでのハールブルクに代わって東ハノーファの「ガウ首都」に指定され、1937年以降、シースグラーベン通りの屋敷に民族社会主義党のガウ長テルショフが住んでいた。これはルーマンの家から約200メートルのところにあった。1939年から45年の間、ヨハネウムに直接通じるハーゲ通りと、フリーデン通りを合わせて、「Gauleiter-Telschow-Wall」と呼称したのだった。

1943年になると、1926年から1927年生まれの高学年の生徒に、空軍補助員として働くことが義務づけられた。1943年4月1日には、まだ15歳のニクラス・ルーマンも、1歳年上の同級生(ギムナジウム第6学年)たちと一緒に、空軍補助員としての適性検査を受けることになった。結果は合格(tauglich)だった(画像で「tgl」と書いてあるのがそれ)。「検査済生徒名簿」を見ると、誕生日が1926年12月8日とタイプ印字で誤記されているのを、手書きで1927年と訂正しているのがわかる。生徒たちはリューネブルク空軍基地の高射砲部隊の補助員となったが、ローテンブルクやシュターデにも派遣された。空軍補助員には日給0.50ライヒスマルクが支給され、衣食住が提供された。

服務規程には、空軍補助員は軍人と見なされるべきこと、生徒は十分な睡眠をとる必要があることが定められていたが、実際には、生徒も高射砲部隊に夜間配備され、それで疲れきっているのが現実だった。これに加えて「義務心得」があり、ニクラス・ルーマンもこれを暗唱させられたはずである。ギムナジウムの授業は、空軍補助員にとってもヨハネウムの教員にとっても困難な状況ではあったが、なお続けられてはいた。教員は毎日リューネブルクの郊外にある空軍基地に出動しなければならなかったし、生徒は生徒で、警報と戦闘に常時備えていなければならず、またひっきりなしに駐屯地が替わる(ローテンブルク、シュターデ)ので、これも大きな負担だった。駐屯地が替わると、そのつど違う教師の授業を受けなければならなかったからである。

1週間の授業時間数は6日間で平均18時間しかなかった。1日3時間である。ある報告書で、担任教師が戦闘準備による休講と地理学教師の不在について苦情を申し立てている。高射砲補助員の指揮所は何度も攻撃を受けた。生徒たちは給食の不足を訴え、担任教師だったグリースバッハは生徒たちを率いて不服の申し立てを行ったが、その内容はどちらかというとまだ陳腐なものだった。「バターの代わりにマーガリンが出ることが週に3回はある」。空軍補助員用の学習計画は、特に生物、歴史、国語の3教科において、民族社会主義のイデオロギーによって決められたものが用意された。たとえば生物なら「民族と人種」とか「文化民族の衰退の生物学的原因」、国語なら「ゲルマン的世界観の基本性質」、歴史なら「総統国家の本質」とか「第二次世界大戦の意味」と題した授業が義務づけられた。ラテン語ですら、「カエサル」講読の授業で「ゲルマンの章」を重視せよとされていた(“Lehrplan für Luftwaffenhelfer,” Archiv des Johanneumsによる)。とはいえ、ニクラス・ルーマンのいたクラスでは、教員不足のために1944年以降生物の授業は行われなかった。

ニクラス・ルーマンの空軍補助員経験は、さぞや劇的で恐ろしいものだったと想像されるが、これについて彼は自分で語っていることはそんなにない。一例としては、墜落した英国機の操縦士が格納庫で背後から射殺されて倒れている死体を見たと述べている(Horster 前掲書 p. 27)。(この書き方だと、ルーマンはある戦争犯罪の間接的証人であるように読めるが、歴史的背景が定かでない以上、そう確言することはできない。)1944年5月には大空襲がこの地を襲った。ルーマンはこれをローテンブルクで体験したはずである。この空襲についてはかつての国民的サッカー選手フリッツ・ヴァルターの文章を引くべきだろう。彼は1943年8月から1944年5月にかけて、サッカー好きの戦闘機乗りだったグラーフ少佐の飛行編隊に所属する地上勤務員としてイェーファとローテンブルクに駐屯し、その傍らサッカーの試合にも出ていた。

何よりも恐ろしかったのがサイレンの音だ。兵士たちは宿舎や作業場から駆け出して塹壕の中に飛び込む。事務所で一緒に働いていた空軍補助員の女の子たちも、原始的な防空壕に駆け込んだ。爆撃機の飛ぶ低音がどんどん近づいてくる。我々は塹壕の中から、それがまっすぐこちらに向かってくるのを見ているだけだ。爆弾格納部の扉が開いて、我々に死をもたらすその中身が降下してくるのがはっきりと見え、その数瞬間、心臓の鼓動が完全に停まる。その直後、恐ろしい爆発とともに地面が振動する。泥が噴水のように天を衝き、それがまた地面に降り注ぐ。ああ世界の終わりが来たんだと思う。2分か3分の間、その地獄は続いた。高射砲はまだ火を噴いていたし、速射砲は射程いっぱいまで対空砲火を続けていたが、爆撃機はすでに離脱した後だ。・・・・・・飛行場は爆弾のせいでそこらじゅう穴だらけだ。整備場は鉄骨とコンクリートの廃墟のようになっているし、格納庫も壊滅状態、宿舎も倒壊していた。何一つ形の残っているものはなく、すべてがばらばらだった。・・・・・・しかし一番恐ろしかったのは、負傷者や瀕死の人たちが助けを呼ぶ声だった。結局この攻撃によって200名の死者が出たのだった。・・・

Walter, Fritz: 11 rote Jäger, Nationalspieler im Kriege, Copress-Verlag München 1959 S. 112 ff.

(この文献は、オットー・グローシュプフ氏にご紹介いただいたものである。)

1944年9月30日、第8学年が始まってすぐに、ニクラス・ルーマンは国家労働奉仕団入団のために卒業することになったが、卒業試験はまだだった。生徒たちが受け取ったのは、「卒業するに十分な能力を有する」旨が明記された卒業証書であったが、これは1945年以降には無効になってしまうことになる。1944年末、ルーマンは国防軍に召集され、短期間の射撃訓練を受けた。1945年初めに、ルーマンは南ドイツの前線に送られ、ハイルブロンで米軍との激しい戦闘と爆撃に参加した。彼は1943年にはすでに敗戦は確実だと悟っていたため、生き延びることだけを考えていた。隣にいた戦友が手榴弾で吹き飛ぶという経験も避けられなかった。1945年の春、彼は米軍の捕虜となった。とはいえ17歳の少年にとって、そのときはまだ米軍が真の解放者であるとは思えなかった。腕時計を没収された上、尋問の間中、理由もなく殴られ続けたからである。これはジュネーヴ条約に背く処遇であった。(Niklas Luhmann, Archimedes und Wir, Berlin 1987, p. 129)

ルーマンは最初、ルートヴィヒスハーフェン近郊のライナウエンにある大きな捕虜収容所に勾留された。ここでは大体1000人単位で捕虜が組織化されていたが、そのどこでも毎日少なくとも1人の死者が出ていた。その原因の大半は疲労と消耗であった。終戦直前になって、捕虜たちはマルセイユ郊外の労働収容所に移管されることになった。フランスに対する賠償として労働が課せられたのである。結局ルーマンは1945年に捕虜収容所から釈放された。彼がまだ18歳未満、つまり未成年だったからである。

ヨハネウムは戦争末期の1944年8月5日以降、野戦病院となっており、授業はヴィルヘルム・ラーベ校で行われていたが、その後1945年1月になると、全市が宿舎として提供されるようになった。ヨハネウムの蔵書と持ち運び可能な財産は、別の場所に避難しておいたし、ヨハネウム自体は爆撃を受けなかったのだが、1945年5月の初頭に不注意からリューネブルクの手前にあった煉瓦製造場で焼却してしまった。戦後もヨハネウムに残った生木の机は、「ロシア原産」という出自を自ずから示していた。この机は野戦病院の備品としてロシアから持ってこられたものだからである。

ニクラス・ルーマンも復学し、生徒の間で「1406年からずっと使われている」と揶揄されていたぼろぼろの椅子に、再び座ることになった。「臨時卒業証書」は戦後は無効とされたため、ニクラス・ルーマンを含む、第8学年を修了していない復員学生に対して、2回の補講が組まれることになった。第1回は、1945年10月から1946年の復活祭までの期間で、これには137名が出席し、このうち卒業試験に合格したのはたった53名だった。ニクラス・ルーマンもそのうちの一人である。試験は、国語、ラテン語、ギリシャ語の3科目だった。2回目は1946年の5月から12月までで、これには72名が出席し(そのうちの多くは1回目の落第生である)、このうちの35名が合格した。この2回目の受講者には、ヨハネウムの卒業生のうちでもきわめて有名な人物が含まれていた。最近亡くなったクラウス・フォン・アムスベルク王子である。

以上の戦争体験は、ルーマンのその後の経歴と彼のシステム理論に明らかな影響を与えている。彼は諸所で、法律を勉強することに決めたのは、「人々が生きるカオスの中で秩序を形成する可能性」という希望に導かれたからだと述べている(1998年11月6日の死の直前にヴォルフガング・ハーゲンが行ったインタヴュー。Wolfgang Hagen (ed.), Warum haben Sie keinen Fernseher, Herr Luhmann?, Kulturverlag Kadmos, 2004, p. 17)。A. コショルケとC. ヴィスマンはさらに進んで、秩序を形成しようという動機は、ルーマンのシステム理論が成立するにあたっての、個人史上の根本的発想だと考えている(Hagen前掲書p. 11)。さらに補足して次のように言えるだろう。戦争を生き抜いた人がいる一方でそれができなかった人もいるというこの偶然の経験もまた、ルーマン理論のもう一つの要素である偶然性の概念に刻印されているのではないだろうか。

ヨハネウムでの教育について、後年ルーマンは好意的に評価している。特に挙がっているのが、ギリシア語とラテン語の授業で、これらの授業では扱われるテクストの内容についての議論も含まれていた(Horster 前掲書29頁、Hagen前掲編著20頁)。他方で、古代語の意義についてルーマンは、生徒の「学習能力」が「知識の複雑性に対して越えることのできない限界を画す」と述べていて、この箇所などは懐疑的な考えをもつようになったとも読める(Luhmann, Niklas: Die Wissenschaft der Gesellschaft, 3版602頁[邦訳644頁])。ルーマンの読書熱は当時の同級生たちからも恐れられていた。これをその時代の過酷さからの逃避だとみなすことは可能ではあるが、それよりもむしろ、主として歴史に興味をもっていた当時の埋もれた才能を示すものだと考えるべきだろう。

最後に、当時の同級生2人から、ニクラス・ルーマンについてのコメントをいただいたので、それでこの文章を締めくくることにしよう。

ニクラス・ルーマンとはギムナジウムの同級生でした。つまり、我々は2人ともまずラテン語から習ったんです(そこが、英語から習い始める「オーバーシューレ」とは違うところです)。ニクラス・ルーマンは優等生でした。勤勉で、どんな科目でも良い成績を収めていました。当時から目立っていたのはその読書熱で、私の印象では、脳神経の限界ぎりぎりまで本ばかり読んでいるように思えました。その後、1943年に我々は空軍補助員となったのですが、ニクラスはその時代を実に不愉快に感じていました。好きな読書ができなくなったからです。我々はリューネブルク、シュターデ、ローテンブルクで空軍補助員として動員されました。リューネブルクでは、ヨハネウムの見知った教師が特別に空軍基地まで出張授業に来ていたのですが、ローテンブルクとシュターデでは東プロイセンから来た、知らない教師の授業を受けさせられました。夜中に警報が鳴ると、次の日の1限目の授業が休講になったのですが、特に1944年にはそういうことが週に2、3回はありました。ところで、ニクラス・ルーマンも一緒に体験したローテンブルク飛行場への大空襲については、すでにドイツの国民的サッカー選手であるフリッツ・ヴァルターが自伝に書いています。

(オットー・グロシュプフ、元ハノーファー上級行政裁判所長。2002年12月3日、筆者との電話インタヴューにて。)


ルーマンはギムナジウムの生徒でしたが、私や私の友人たちはオーバーシューレに通っていましたから、その頃はあまり接触はありませんでした。それが1943年に、私とルーマンそれぞれが所属するクラスの生徒が、同じ高射砲部隊に空軍補助員として召集されることになったのです。1944年の秋までのあいだ、我々はリューネブルク、ローテンブルク、シュターデの飛行場に動員されました。ルーマンは感じがよく友好的でしたが、特に目立つような存在ではありませんでした。当時の私は、彼がその後こんなふうになるなんて夢にも思いませんでした・・・

(ギュンター・ヴィルケ、工学士。現在は引退してリューネブルク在住。2002年11月1日付の筆者宛書簡)

ゲアハルト・グロムビク

2012年1月8日日曜日

パーソンズの「規範的秩序」


盛山和夫『社会学とは何か』第4章では、パーソンズの「規範的秩序」という概念に対する批判が述べられている。しかし、そもそもこの概念についての盛山の理解が間違っていると思うので、その点を指摘しておきたい。

まず盛山は、パーソンズの(『社会的行為の構造』における)定義を次のように訳している(74頁)。

規範的秩序は、常に規範ないし規範的要素の所与の体系に対して相対的である。この意味における秩序とは、規範的体系に定められた道筋に従って物事が生起するということを意味している。

そのうえで、次のように批判する(77頁)。

パーソンズの定義は、たんに「規範的体系に従って生起しているものが規範的秩序だ」としか言っていない。これだと、規範的体系どおりに生じているものが規範的秩序だということになる。つまり、人々が社会的に決められた所与の規範的体系にすなおに従っていること、それが規範的秩序だということになる。

そうだとすると、そもそも「秩序問題」という問題を考察する意味がなくなる。なぜなら、この場合には、「人々が所与の規範的体系に従うこと」が秩序問題の解決になり、それで答えはつきてしまう。それ以上、何も考察する必要がない。

ここにおける盛山の議論の特徴は、「従って」という文言を非常に重視していることだ。だから秩序が規範に「従う」とはどういうことかが非常に重要なポイントになる。しかし、この引用部分の中だけでも、基本的に異なる二つの事柄が、あたかも同じことであるかのように混同されてしまっている。

一つは、「規範的体系どおりに生じているものが規範的秩序だ」という部分であり、もう一つは、「人々が社会的に決められた所与の規範的体系にすなおに従っていること、それが規範的秩序だ」という部分である。盛山はこの二つを「つまり」で結んでいるが、明らかに無理のある接続だ。人々がそれぞれ特定の規範に従った結果、成立する社会的状態がその規範からみて逸脱的なものになってしまうことがあることは、ほとんど社会科学者の常識のような事柄だろう。

この混同からも明らかなように、盛山によるパーソンズ理解は、規範的秩序というのは規範の存在が原因となって成立する秩序のことだ(ここでは規範が人々の行動選択を統制することが原因となって成立する秩序、ということになっている)。

この直後の部分で、盛山は「従って」という言葉をもう少し検討しているが、そこを見るとこの点がより明瞭になる。そこでは次のように言われている(77-78頁)。

もっとも、パーソンズの文章はやや微妙で、「従って」という文言はせいぜい「影響作用を受けて」というほどの意味であるかもしれない。その可能性は高いのだが、その場合でも、では、たんに規範的体系の影響を受けているのが規範的秩序であって、そのような規範的秩序について、秩序はいかにして可能かと問うのであれば、その答えはやはり簡単で、「何らかの規範的体系の影響を受けていること」ということになる。

このように、盛山の議論は、規範が原因の秩序が規範的秩序だ、というパーソンズ解釈で一貫している。


さてしかし、この解釈は間違いである。このことを以下に示していく。結論を先に書いておくが、パーソンズの規範的秩序というのは、特定の規範を(秩序成立の原因ではなく)評価基準とした際に秩序と認められるもの、という意味である。

まずは、パーソンズの原文で、「規範的秩序」の定義を見てみよう。上で引いた訳文のもとは次のようになっている(The Structure of Social Action, 91頁)。

Normative order, on the other hand, is always relative to a given system of norms or normative elements, whether ends, rules or other norms. Order in this sense means that process takes place in conformity with the paths laid down in the normative system.

注目すべきは、盛山が「従って」としている部分であるが、これは原文では「in conformity with」であり、主語は「process」である。盛山はこれを、行為者によるかなり積極的な規範随順的態度のように解釈しているが、英文のニュアンスとしてはもっと消極的な「逸脱していない」「一致している」くらいの意味だろう。邦訳『社会的行為の構造』はこの部分を「即して」としている(このことからも、盛山が「従って」という訳語に強い意味を込めていることがわかる)。

さらに、この定義の後で、パーソンズは「規範的秩序でなくても事実的秩序であることがありうる」という指摘をしていて、そこを見ると盛山のような行為者随順論的解釈が間違いであることがよくわかる。たとえばこうだ(SSA, 91-92頁)。

the breakdown of any given normative order, that is a state of chaos from a normative point of view, may well result in an order in the factual sense, that is a state of affairs susceptible of scientific analysis. Thus the "struggle for existence" is chaotic from the point of view of Christian ethics, but that does not in the least mean that it is not subject to law in the scientific sense, that is to uniformities of process in the phenomena.

規範的秩序が崩壊した場合、つまりその規範的観点から見てカオス状態となった場合でも、事実的には秩序であること、つまり科学的分析が可能な事態であるということはありうる。たとえば、「生存競争」はキリスト教倫理の観点から見ればカオスであるが、だからといって、それが科学的な意味での法則、つまり現象におけるプロセスの斉一性に従っていないということには決してならない。

ここは先の定義の部分の直後なのだが、規範的秩序の成立の如何が「規範的観点から」の評価によるものであることが明らかだろう。盛山の解釈が成り立つ余地はない。

実は、この「規範的観点からの評価」というポイントは、社会的秩序の「可能性の条件」をめぐる「ホッブズ的秩序問題」の問題構成にとっても枢要な位置を占めている(というか、だからこそパーソンズはこの箇所で規範的秩序の概念を導入したのだ)。

a "state of war" as Hobbes says, that is, from the normative point of view of the attainment of human ends, which is itself the utilitarian starting point, not an order at all, but chaos.

ホッブズの言う「戦争状態」は、功利主義の出発点である人間の目標達成という規範的観点から見ると、まったく秩序ではなく、カオスである。

このように、規範的秩序概念に含まれる「評価的」な側面を捉え損なっているがゆえに、盛山はパーソンズの言う「秩序問題」についても理解できていない。簡単に述べておくと、パーソンズの「秩序問題」には、(1)規範に従う行為者の行為選択と、(2)行為者を複数設定することによって帰結する社会的状態、(3)その社会的状態に対する規範的評価、この3つの成分が不可欠である。つまり、ここで規範は、行為者の行為選択を導く動因としての役割と、結果する社会状態に対する評価基準としての役割の二重役割を与えられているのである。ただこの問題構成のメカニズムについては、盛山に限らずほとんどの人(特にパーソンズを論点先取だといって批判する人たち)が理解できていないので、これはエントリを改めて詳細に論じる必要があるだろう。


いずれにせよ、パーソンズの「規範的秩序」は、特定の規範的観点から評価した場合に秩序と認められるものという意味であるのに対して、盛山が理解し批判している「パーソンズの「規範的秩序」」は、規範の存在が原因として作用して成立する秩序のことであり、この理解は間違いである。

実のところ、盛山は少なくとも1990年代前半から一貫してこの誤った理解に基づいてパーソンズ論を展開している。まず、『秩序問題と社会的ジレンマ』(1991年)所収の論文「秩序問題の問いの構造」にはこうある(10頁)。

他方、規範的秩序の方は、「どのような状態であるか」という形での定義は一切与えられておらず、せいぜい「常に所与の規範ないし規範的要素の体系に対して相対的」であって、「この意味における秩序とは、規範的体系によってしかれた経路に沿ってものごとが生起していることを意味する」と述べられているだけである。つまり、単に、「規範に沿って」と特徴づけられているだけで、「どのような状態が、規範に沿った状態であるか」が何も述べられていない。このことは、パーソンズが、規範が要因として働いてそれに沿った秩序を生み出しているというメカニズムとその結果として生じる社会状態とを概念的に区別できていないことを意味している。つまり、秩序の存在条件とその概念それ自体とが混同されている。

われわれはすでにパーソンズの「規範的秩序」を正しく理解しているため、どのような状態が規範的秩序であるかは、そのつど特定の規範的評価観点によって定義されるため、パーソンズがここで一般的に直接定義しないのは当然であることがわかる。そして太字で示した部分に、盛山の規範原因論的な規範的秩序理解が現れていることも一目瞭然だろう。それが間違いである以上、「存在条件とその概念それ自体の混同」というのも当たらない。

さて、記述の重み・密度においても内容の独創性においても疑問の余地なく盛山の主著だと言える『制度論の構図』(1995年)では、この「規範的秩序」についてもはるかに慎重な議論が展開されている(41頁)。

規範的秩序の概念にも問題がある。パーソンズはこれを単に、「規範的体系に定められた道筋にしたがって物事が生起していること」と説明しているだけであるが、「規範にしたがっている秩序」という概念については、少なくとも次の三種類の異なるものがありうる。

(1)当該社会の成員によって現実に生起している事柄とは原理的に区別されて「規範的である」とみなされている物事の秩序。ここでは「規範的」なるものの概念化の主体は、当該社会の成員である。

(2)当該社会に規範が存在することによって、規範が存在しない場合とは区別されて、生起している物事の秩序

(3)理論家によって、現実に生起している事柄とは原理的に区別されて正義論的に「そうあるべきだ」と考えられる物事の秩序。

すでに見てきたように、盛山が「と説明しているだけ」という部分の直後の文章を読めば、パーソンズがこの概念で考えているのが(1)であることは明らかなのだが、盛山はこのように分類しただけで、パーソンズはこの分類の可能性・必要性に気づいていないという前提の上で話を進めてしまっている。この部分の議論は、「社会学にとって理論的問題を解決するとはどういうことか」について、非常に重要な示唆を多く含んだ有意義なものであり、私などは何度読んでも面白いのだが、パーソンズ理解としては根本的に間違っているため、なまじパーソンズの文章を読んだ上で読むとわけがわからなくなる。(救いは、いまどき誰もパーソンズなど読んでいないということだろう(苦笑))

少しだけ付け足しておくと、盛山が述べる「社会成員が主観的に奉戴している規範と、理論家が奉戴している規範とは明らかに別のものでありうる」という指摘は、当然パーソンズにとっても明らかなものなのであり、だからこそ(「当たり前のことだが though obvious」と断った上で)次のような注意をしているのである(SSA, 75頁)。

attribution of a normative element to actors being observed has no normative implications for the observer. The attitude of the latter may remain entirely that of an objective observer without either positive or negative participation in the normative sentiments of his subjects.

観察対象である行為者に規範的要素が帰属されたとしても、そのことが観察者に対して規範的な含意をもたらすことはない。観察者は対象の規範的感情に対して、正負いずれの態度もとる必要はない。一貫して客観的観察者としての態度を維持していればいいのである。

そして、この客観的中立的態度を維持することこそが、科学的研究が従うべき「規範」だとパーソンズは述べているのだ。