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2011年12月20日火曜日
2011年12月16日金曜日
ヴェーバーの「意味」概念の定義 (の「超訳」の試み)
「定義」というより「用法の限定」というべきかもしれないが、とにかく「社会学の基礎概念」にてヴェーバー曰く、
»Sinn« ist hier entweder a) der tatsächlich α. in einem historisch gegebenen Fall von einem Handelnden oder β. durchschnittlich und annähernd in einer gegebenen Masse von Fällen von den Handelnden oder b) in einem begrifflich konstruierten reinen Typus von dem oder den als Typus gedachten Handelnden subjektiv gemeinte Sinn.
さて、清水幾太郎訳『社会学の根本概念』(9頁)では、こう訳されている。
本書でいう「意味」には、大別して、次の二つの種類がある。(一)(イ)或る歴史上のケースにおいて、一人の行為者が実際に主観的に考えている意味、(ロ)多くのケースを通じて、多くの行為者が実際に平均的近似的に主観的に考えている意味、(二)概念的に構成された純粋類型において、類型として考えられた単数或いは複数の行為者が主観的に考えている意味。
阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』(7頁)ではこうだ。
「意味」とはここでは、a)事実的に、α. 歴史的に与えられた一つの場合に一人の行為者によって、またはβ. 平均的かつ近似的に、与えられた多くの場合に諸行為者によって、主観的に思念された意味であるか、あるいは、b)概念的に構成された純粋型において類型として考えられた行為者または諸行為者によって主観的に思念された意味のことである。
いずれも、原文に合わせて一文で書こうとした結果、非常にわかりにくい文章になっている。でも、文を分ければもっとわかりやすくなる。次は私の試訳。
本書でいう「意味」とは、行為者が主観的に思念した意味のことだ。まず、(a)この行為者が歴史上の実際の事例に登場する場合を考えよう。(α)事例が一つでそこに行為者が一人登場するだけなら、この人が思念している意味が「意味」だ。他方、(β)事例が複数の場合は行為者も複数なので、この複数の行為者が思念している意味を平均したものを、近似的に「意味」とする。次に、(b)純粋な類型を概念的につくって、やはり類型として考えた行為者をそこに登場させる場合を考えよう。この場合は、そこに登場するのが一人でも複数人でも、この類型的行為者が思念する意味が「意味」である。
まあ、こういう「超訳」が嫌いな人はいるかもしれないが、こうした方がわかりやすいのは明らかなわけで、せっかく訳すならこのくらいわかりやすくしないと意味がない(原書で読んだ方がまし)と思うわけで。(原書がわかりにくいなら訳書もそのわかりにくさを反映すべき、という変態のことまでは知らん。)
実際、現実の行為者が複数の場合について、既訳はどちらも、この複数行為者がみんなそろって「平均的かつ近似的」に「思念」しているかのように訳しているが、それでは「平均」とか「近似」という言葉を使う必要はないのであって、ここは間違いだろう。
2011年12月13日火曜日
ジンメルの心的相互作用について
盛山先生の『社会学とは何か』41-42頁にこうあった。
相互作用があれば、そこに社会があるといえるか。ジンメルはそうではないと考える。彼は、社会を構成するのはたんなる相互作用ではなくて、「心的相互作用」だという。
(中略)
相互作用というだけなら、街頭ですれ違う人と「ちょっとだけ目をかわす」というのも相互作用だ。それは、たんにショウウインドウの中を見たり、信号を見たりするのとは異なって、明らかに相手を他者として、しばしばとくに「異性」として、意識している。しかしそのレベルでの相互作用はまだ社会を構成する要素たりえないとジンメルは考える。
この議論をするために、ジンメルの『社会学の根本問題』(阿閉吉男訳)22頁から次の箇所が引かれている。
社会概念をそのごく普通の意味でとらえれば、それは個人間の心的相互作用ということになる。このように定義したからと言って、ある種の限界現象がただちにこれに結びつくというふうに誤解してはならない。つまり、二人の人間がちょっとだけ目をかわすとか、出札口で押しあうというだけでは、まだ社会化しているとはいえないであろう。
実のところ、ジンメルが「心的」という形容で何を意味しているのかよく知らないのだが、少なくともこの訳文が間違っているということは言える。原文はこうだ。
Fasst man diesen in seiner weitesten Allgemeinheit, so bedeutet er die seelische Wechselwirkung zwischen Individuen. An dieser Bestimmung darf nicht irre machen, dass gewisse Grenzerscheinungen sich ihr nicht ohne weiteres fügen: wenn zwei Personen sich flüchtig anblicken oder sich an einer Billettkasse gegenseitig drängen, so wird man sie darum noch nicht vergesellschaftet nennen.
(私が唯一もっている)清水幾太郎訳『社会学の根本概念』20頁ではこうなっている。
社会概念を最も広く解すれば、諸個人間の心的相互作用を意味する。もっとも、二人の人間がチラッと顔を見合わせたり、切符売場で押し合ったりしても、まだ二人が社会を作っているとは言えないであろうが、しかし、こういう限界現象が右の規定に簡単に当て嵌まらないからといって、それで右の規定に戸惑う必要はない。
清水訳は基本的にだらだら文体なのでよくわからないが、ニュアンスは阿閉訳とは正反対である。そして方向性としてはこっちが正しい。
なお、私なら次のように訳す。
社会概念を最も一般的に定義するなら、それは個人間の心的相互作用のことだ。このように定義すると、二人の人間がちょっと視線をかわすとか、切符売場で押し合うとかいった限界事象はこの定義にうまくはまらない気がしてくる。その程度では社会化しているとは言えないのではないかと。だが、そうした疑念に惑わされてはいけない。
要するに、「視線をかわす」とか「押し合う」も心的相互作用の(限界事例とはいえ)一種だという解釈である。ジンメルの言い回しは微妙ではあるが、しかしこの引用文の直後を見ると、そう考えざるをえない。
Allein hier ist die Wechselwirkung auch eine so oberflächliche und vorüberfliegende, dass man in ihrem Maße auch von Vergesellschaftung reden könnte, bedenkend, dass solche Wechselwirkungen nur häufiger und intensiver zu werden, sich mit mehreren, generell gleichen zu vereinen brauchen, um diese Bezeichnung zu berechtigen.
清水訳はこうだ。
ただ、この場合の相互作用は非常に表面的で一時的であるが、それでも、それなりに社会を作っていると言えるものの、これが大切な点なのだが、本当に社会を作っていると言えるためには、こういう相互作用がもっと頻度や強度を増し、それに似た多くの相互作用と結びつきさえすればよいのである。
例によってだらだらしすぎていて何を言っているのかわかりにくい(本人もよくわからないまま、適当に接続詞でつなげているだけなので)が、「表面的で一時的」な相互作用も「社会を作っていると言える」ということは読み取れる。
私ならこう訳す。
このように表面的で一時的な相互作用であっても、それが頻度と密度を増し、他の多くの似たような相互作用と結びつきさえすれば、それを社会化と呼んでもおかしくないわけで、そう考えるならば、表面的で一時的な相互作用であっても、それはそれなりに社会化だと言っていいはずだ。
阿閉訳がこの箇所をどう訳しているのか確認できないので残念だが、代わりに Kurt H. Wolff による英訳 The Sociology of Georg Simmel (リンク先は Internet Archive で、PDFが無料でDLできる)9頁を挙げておこう。
If the concept "society" is taken in its most general sense, it refers to the psychological interaction among individual human beings. This definition must not be jeopardized by the difficulties offered by certain marginal phenomena. Thus, two people who for a moment look at one another or who collide in front of a ticket window, should not on these grounds be called sociated. Yet even here, where interaction is so superficial and momentary, one could speak, with some justification, of sociation. One has only to remember that interactions of this sort merely need become more frequent and intensive and join other similar ones to deserve properly the name of sociation.
おおむね私の訳と似ていると言っていいだろう。
そもそも、この箇所でジンメルは、「心的」というのがどういうことなのかを説明しようとしているのではないし、そのあとにも特に説明は出てこない。ここでジンメルが主張しているのは、「社会(Gesellschaft)」という言葉は国家や会社みたいな大規模な集合的単位にしか使われないのが普通だが、自分はちっぽけな相互作用にもこの言葉を使いたい、そのために、「社会化(Vergesellschaftung)」という言葉に加工して使うんだ、ということである。だから文脈的に考えても、「こんなちっぽけなものでも社会(化)なんだ!」というニュアンスの文章でないとおかしいのである。
そのうち、阿閉訳ないし最新の居安訳(『社会学の根本問題』)、あとジンメルの別の本ないしジンメル研究を見て、何か必要があれば補足するかもしれない。
上の話とは直接関係ないが、やはり『社会学とは何か』53-54頁に気になる文章が・・・ ジンメルの『社会学』39頁から「社会は客観的な統一体、それに含まれない観察者を必要とはしない統一体なのである」という文を引用したうえで次のように述べる。
しかし問題は、ジンメルがここで「統一体」というような言葉を使っていることである。「統一体」といえば、なにか「よく秩序づけられた全体」というような意味をもってしまう。社会がそうした統一体だということは経験的にもけっして正しくないし、規範的な含意においてもミスリーディングである。
共同性をなにか「よく秩序づけられた関係性」のようなものだと前提してしまうと、現実に存在する共同性に潜んでいる問題を発見したり、欠陥のある共同性を考察の俎上にのせたりすることが困難になる。共同性の概念は、そうした暗黙の「規範的な正当化」を避けて、もっと中立的に組み立てられなければならない。
「統一体」という言葉についてはまったく同意だが、もちろん「統一体」という日本語を使っているのはジンメルではなくて訳者の居安正である。ジンメルは「Einheit」と言っているだけだ。英語で言うなら「unity」。「一つ(ein)であること」という以上の意味はない。「単位」と訳しても問題ない。そう訳せば「よく秩序づけられた全体」という含意はないわけで、日本語のニュアンスをジンメルのせいにされても・・・と言わざるをえない。
2011年7月28日木曜日
新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第15回 ウィトゲンシュタイン『青色本』
対象文献:
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン,大森荘蔵(訳),『青色本』,ちくま学芸文庫
以下、出席者の感想。
報告とコメントを聞いても、理解はできましたが、疑問点を見つけることはできませんでした。しかし、三谷先生の質問や、説明を聞いているうちに、自分が何をわからないのかがわかりました。三谷先生の疑問点に、私も同じ疑問を感じました。自分が、何をわかっていないかを知ることは難しいことだと思いました。
本書の内容のみならず、背景なども踏まえての報告だったので興味深かった。授業の趣旨とは異なると思うが、先生と報告者のやり取りがおもしろかった。
とても論がぐるぐる回っているように思えて、思考がうまく働かなかった。
結局、他人の心の中で感じていることははっきりとは分からないものだと思った。というのも、よく人と話をしていて「その気持ち分かる~」みたいなことを言われるが、私としては分かってたまるかと思うこともあるからです。で、こういった発言をするのって、似たようなことを経験したからなんだなと思いました。
最終回らしく一番頭を使った回になった。白熱した議論を聞くのは面白いです(笑)
◯◯さん[=報告者]の最終的な結論が、他人の意見をそのまま使っているのがやりづらい。自分だけで考えた自分なりの意見といった意見を述べてくれたほうが発言しやすかったです。今回の議論になったことは、もっと根本から考えないといけないのかなと思った。
報告者はウィトゲンシュタインの主張に疑問を呈しておきながら、議論が進むにつれて、ウィトゲンシュタインを援護する形になっていたと思った。
部分的には分かる所もあったが、◯◯さん[=報告者]のレジュメは長大で濃厚であったため、全体の流れが分かりづらかった。
今日は報告者と三谷先生がバトルしてました。独我論の面白さは現実対応から否定することではなく、そのような想定ができてしまうということであり、世界が一人称で捉えられる限りでは回答不可能である。独我論は言語を用いて世界を二人称で捉えるとき、あるいは、三人称で捉える世界を考えていくことで発展するものである。
この議論において私的言語と公共的言語が使われていたんですが、他人の言語においては感覚は比較しえないと思いました。よって、自分の中の感覚においてしか他者の感覚を示す言語を理解することはできないと思いました。
感覚するということや、理解するということがどのようなものなのかについて深く考えさせられる機会となった。
よく他人の痛みを理解するというような言葉を聞くが、今日の議論を聞いて、自分以外の痛みを理解することはできないと思った。安易にそのようなことを言わないほうがいいと思った。
恐らく一番発言の少ない会でした。全体的にですが。でも、やはり聞いているだけでも大分勉強になりますね。・・・本当に理解力欲しいです。ウィトゲンシュタイン組のみなさん、おつかれさまでした。
今日は話題が見つけられず、意見を述べられなかった。今までで一番難しいテーマだと感じました。
相手のことを本当に理解することは無理なのだと感じた。難しかった。
感覚は全人類が共有できるものなのか。はたまたやはり個人しかもちえないものなのか。おもしろい。
報告者の感想 今回の演習を通じてウィトゲンシュタインを深く学び直す機会を得ることができ、感謝いたしております。
コメンテータ1の感想 言葉についても言葉を用いて議論しなければいけない。言葉で説明できないものについて言葉で説明しなければならない。割り切るしかないんでしょうか。
コメンテータ2の感想 ウィトゲンシュタイン、難しかったです。感覚の話とか、言語の話とか、内容のレベルがとても高かったです。最後の講義、お疲れさまでした。
司会者の感想 今日、初めて司会をしてみて、こんなに難しかったんだと思いました。議論が全然分からないところに行ってしまって、なんかもう、力不足を痛感しました。終わってすごく安心しました。いつか司会が上手くなれたら良いです。
今回は最終回なので、この授業全体についての感想も書いてもらいました。
この人文総合を経験してみて、自分の平凡さとか浅さとかを目のあたりにすることができました。私は今まで、こんな所で発言なんてできるタイプではなかったけど、少し発言できてよかったです。
全体を通してみて、つらかったです。特にテスト前の今回などは眠くて眠くて・・・とても大変でした。でも、何かしらの進歩はあったと思います。お世話になりました。
自分の中で大きな意味をもつ授業でした。この授業を受講しなければ、こんなにたくさんの哲学書を購入することもなかったし、無理くり哲学者に対して批判を加えることもなかったと思います。大変でしたが有意義でした。ありがとうございました。
参加させて頂きまして、ありがとうございました。
いかにも宣伝のようなコメントになってしまうかもしれませんが、本音です。この授業を受けて、レジュメ作成の力がついたのはいうまでもなく、物事を深く考える力がついたと思います。毎回の皆さんとの討論も楽しく、哲学的思考のきっかけをもらいました。
(主に先生と報告者・コメンテーターの方との)議論を通して、とても勉強になった。相手に質問をし、その答えを前提に議論をするとか・・・ 色々な本をよんでとても勉強になったが、背景知識が不足していたので、そこを勉強し直してからもう1度よみ返してみたいと思う。「自分の考え」を論理的に伝えることの難しさ、そして大切さを学んだ。
このゼミはグループ学習ではなく、ほとんど個人で討論会をする形で、一人ひとりの発言が、はっきりと聞いたり話たりすることができて楽しかった。いろいろな人の意見が聞けたし、討論するときの言葉一つ一つの意味の重さというのを初めて実感することができたので、良いゼミをとれたなと思いました。ありがとうございました。
竜頭蛇尾といいますか蛇頭無尾になってしまいました。理解力つけないとマズいですね。この授業で学べた一番のことだと思います。レジュメの作成能力も少しは上がってくれたことと思います。後期の人総Bに活かしていきたいです。実りある授業をありがとうございました。
本当にたくさん本を読みました。でも、理解をきちんとできた本は無かったです。もう一度読みたい・・・とは正直思いませんが、せっかく買ったのでもう一度手にとってみたいと思います。自分で貼ったふせんやマーカーが愛しいです。ありがとうございました。
この講義を受けてみて、沢山苦労したこともあったし、本の内容についていけないこと、報告時の反省等も多々あるが、とても良い経験になった。また、扱った文献をもう一度読み直したいと思う。
15回の授業を終えて、今までこんなに物事を考えたことがないくらい、頭をつかったので、とてもいい経験になりました。
きつかったが、「これが大学の授業かぁ」と実感することができる授業だった。哲学の道には進むことはないと思うが、この授業で培った能力は他の授業のレポート作りに役立つと思うし、大変有意義であった。
レジュメを、毎回授業の前に読めたらよいと思った。が、日程的に難しいので、そんなことはできなく、初見の文を読む訓練になったと思う。キツかったけど楽しかった。
本を読んだり、人の考えをもう1度自分で考えていくことで新しい見方や考えが生まれて、話し合うことがおもしろかったです。
「一番大学の授業らしいな」と感じたのが、最初の印象でした。正直、毎週難解な本を読むのはしんどかったです。でもここで学んだことは、絶対将来役に立つと思うので、有意義な授業でした。
13冊あっというまでした。正直死にそう、むしろ死んでましたが、いい経験になりました。ありがとうございました!
今まで自分の考えを示すという機会さえ少なかったけれども、今回は哲学書を読んだ上で、自分の考えを発表するというのは、とても良い体験になりました。みなさんありがとうございます。
自分の読書ペースならこの授業もいけるかと思ったが、結局は内容をつかみきれないままになってしまうことが多かった。なかなか発言できなかったが、レジュメ作成や、皆の前での報告はよい経験だった。
自分の報告の担当のときは、何でこの授業をとったんだろう!?と後悔しました。しかし担当をやり終えてみると、厳しくはありましたが、たくさんの事を学ぶことができ、よかったと思います。自分の言いたい事を言葉で表現することの難しさを身をもって知ることができたのは、大きな収穫だと思っています。三谷先生、ありがとうございました。
2011年7月21日木曜日
新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第14回 フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
対象文献:
E. フッサール,細谷恒夫・木田元(訳),『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』,中公文庫
以下、出席者の感想。
聞くタイミングを完全に逃しましたが、○◯君[=報告者1]にひとつ。人って本当に「ある程度の時間」さえあれば理解できるものなんでしょうか? 少なくとも例に上がってる原発に関してはちがうと思いますが。ちょっと話しあってみたいものです。フッサール組のみなさん、おつかれさまでした。
フッサールって若干頭固かったんじゃないかと思います。
本当の人間性の定義とは何か、というのが分かったらいいのに! とすごく思いました。
今回はこれまでの題材の中でもとくに難しい内容だった。夏休みの間にもう1度読み直したいと思った。
最近議論が深まらないですね。時間をうまく使わないときちんと議論ができないように感じました。司会者は思い切って話を途中でやめさせてもいいんじゃないでしょうか。信用と信頼の違い、という話が面白かったです。批判を丸のみにするのは自分の意見がもったいないのではないかと感じる。
今回はもう少しみんなの意見が出ると良かったかなと思います。報告者の意見が明瞭に示されていて欲しかった。
授業も終わりに近づいてきて、本の内容もレジュメも難しくなってきて、レベルも上がったなと思いました。学問をしている人はごくわずかという発言がありましたが、学問の定義とは何なんだろうと思いました。
今日の話は本当に難しかった。先生の黒板の説明を見ても、半分も理解できなかった気がする。“理性の信頼”と「自己自身」への信頼が異なるもの、というのもいまいちよくわかりません。
読み間違いかもしれないが、◯◯さん[=報告者2]のレジュメで、「自己自身(自己の全生活)」が自明のものとして扱われていたと思うのだが、それの根拠を知りたいと思った。レジュメを事前に読めたら、きっともっといい質問ができるのに・・・といつも思う。
人間の生活には何かしら学問が関わっているような気がします。私が知らないだけで、ほとんど学問で説明づけられちゃいます。そうなるとつまらないかんじがしますが、それが人間なんですよね。すみません意味不明です。
本のレベルがいきなり上がったのではないだろうか。ついて行くことができなくて、残念に思った。次回は最後なので頑張っていきたい。
報告の内容を理解しようとしているうちに終わってしまった。今回は題材の本も報告も難しかった。「科学の発達と人間の理解のタイムラグ」にはどう対処すれば良いのか気になった。
最近のレジュメでtwitterやFacebookなど、けっこう最近の具体例が用いられるのが増えてきて、第1回目の授業から考えると、より身近な議論になってきたなと思う。
信頼の崩壊であったり、人間性の喪失であったりと、けっこう深く考えさせられるテーマでした。正直、途中の議論でついていけない部分も多々ありました。今度、夏休みにでもしっかりと読み直したいです。
報告者1の感想 自分の考えを人に伝えるにはどうしたらよいのか。一番自分が苦手なところなので、今回をきっかけにもっと客観的に自分の文章を見つめられるようになりたい。
報告者2の感想 コメントに対するコメントで、みんなの議論の時間をとってしまって申し訳なかった。あとはもっと自分の考えを主張できるようになりたいと感じた。“信頼”について述べるのはとても難しかったけど、良い経験になった。
コメンテータ1の感想 「科学は人間にとって必要不可欠なので、科学が人間を対象外としているならば、人間は人間らしさを失っている」という主張を◯◯くん[=報告者1]は貫いたのが立派でした。
司会者の感想 みんなの意見をもっと交換できるように司会を進めたかったというのが、今回の反省点でした。
2011年7月14日木曜日
新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第13回 ヴェーバー『職業としての政治/職業としての学問』
対象文献:
マックス・ウェーバー,中山元(訳),『職業としての政治/職業としての学問』,日経BPクラシックス
以下、出席者の感想。
倫理の話だったり、政治家のあるべき姿であったり、考えさせられる議論でした。やはり、意見を反映させるにしても選ぶのは政治家であるので、システムよりもまず、政治家そのものをよりよい人々に選び直すべきなのではないでしょうか。
最終的に、政治家は固い信念を曲げないが、民衆の意見をきくのも必要なんだと思いました。
なかなか意見がまとまらなかった。また、政治の話で意見することはできても、どう現実に反映させるのかと考えると、また別の難しさがあるんだなあと思った。
責任を持って投票すべきですね。先生の解説すてきでした。未来をつくる世代になったんだなあと実感した、今回はそんなかんじでした。
◯◯さん[=報告者2]の例に挙げられていた生命倫理の問題について考えたのだが、結局もやもやしたまま終わったのが残念だった。もっとなにか思いつきたかった。
◯◯さん[=報告者2]のレジュメはすごい身構えて読んだのですが、大変分かりやすかったです。◯◯さん[=報告者1]のレジュメも読みやすかったです。内容が難しくて理解してついていくのが精一杯でしたが、とてもためになる議論でした。
最後の議論を聞いて、だから職業としての政治は良くないんだと、やっと納得しました。職業は生きるためにするもので、だから失わないために信念をまげざるを得ないものなんだなと思いました。
なかなかハードなないようだったなと思う。でもこれから20歳になるので、選挙についてより考える良いきっかけになった。
近い将来、政治に参加する身としては、今日の議論は政治を考えるいい機会になった。
政治家や政治の在り方を考えさせられた。インターネットなどのツールをどう使うかも大切だろうと思った。
政治について考えられました。おなかへった~
最終的に恐ろしく高尚な話になりました。置いてけぼり感が凄かったです。言いたいことは多々ありましたが、もやもやしていて口に出すことはできませんでした。いつまでたっても成長できません。ウェーバー組の皆さん、お疲れさまでした。
今日は自分が報告者であった時の次に言葉を発した日でした。個人的に詩や詩人に興味があるので、◯◯さん[=報告者2]にくらいつけた。
議論が難しくあまり入っていけなくて、大変でした。みんなの意見がすくなかったのもそのせいかなと思いました。
報告者1の感想 報告をしました。ここ1,2週間はこのことしか考えられなかったので、達成感でいっぱいです。皆さんお疲れ様でした。
報告者2の感想 多数決が常に正しいとは限らないことは、危険性が指摘されつつも推進が強行されてきた原発を見ると明らかである。詩人たる政治家はその時代の主流に逆らって、正しいと信じた理念実現に進むべきなのだ。
コメンテータ1の感想 議論のタネとなるコメントができず残念だった。とても勉強になった。
コメンテータ2の感想 どうやら私は信条倫理、責任倫理をわかっていた気になっていただけだったようだ。帰結主義における帰結が「患者の苦しみを取り除いた」「患者を殺した」の2通りが考えられると思うのである。このどちらを選択するのかで、信条倫理、責任倫理が逆転してしまうのではないだろうか。
司会者の感想 今日は司会でしたが、うまく進行できず、報告者やコメンテーターに助けてもらったので感謝したいです。
2011年7月7日木曜日
新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第12回 フロイト『人はなぜ戦争をするのか』
対象文献:
フロイト,中山元(訳),『人はなぜ戦争をするのか』,光文社古典新訳文庫
以下、出席者の感想。
戦争の発生や防止を考える際、文化同士の在り方ははずせないと思う。今回の報告もそれに関した内容で、改めて容易な問題ではないと感じた。
〇〇君[=報告者1]って戦争に詳しい。初めて先生の解説なく質問ができた気がする。今回はまんべんなく質問が担当の人にいっていた。
小学校の道徳の授業ってどんなんでしたか忘れてしまいました。でも覚えているのは、たくさんの話が載った教科書をみんなで考えてました。そのときにはある程度こんなことはしちゃいけないっていう考えはもっていました。私の場合、NHKとかで身につけたものですが、道徳はメディアによる植え付けもあると思います。
どうしたら戦争をなくせるのか、それ自体に答えはでないかもしれないが、考えることに意味があると思った。
道徳はすべてから学ぶものであると思う。経験だったり、授業だったり、親から教わったことなどである。
小学校の道徳の授業について思い出してみたが、教科書があったような気がする。物語がいくつかあり、それについて議論するかたちだった。これは親の存在だけではできない体験かもしれない。
助け舟を出したいと思ったが、タイミングがわからず発言することができなかった。
戦争の話でしたが、今までと少し毛色が違うようでした。昔の日本みたいに何でもかんでも受容・混合していけば文化対立はなくなるんでしょうか・・・。道徳の授業は「知としての道徳」で、心に直接は届かないとふと思ったのですが・・・言えばよかった。フロイト組のみなさん、おつかれさまでした。
戦争ネタが多い。具体例が詰めてあって反論できないです。
学校で教えられた道徳は押しつけだったのでしょうか。学校では、人間としての(大多数の人間が考える)美徳を教わったけれど、それをどう考えるかは人によって変わってくると思います。そうして人それぞれの価値観ができ上がるんだし、道徳も人によってちがうんだと思います!
今日議論があまり深まっていかなかったような気がして残念でした。報告者やコメントの人が自分の論に対して「現実的に無理」と言ったり、簡単に反論を受け入れたりすると萎えます。
実は戦争が文化の対立に見えるのは、外部の遠い人々の理解しやすい解釈でしかないのです。
戦争をなくすためには、文化相対主義なのか、国連のように1つの基準をもうけるべきなのかはとても難しい問題だと思います。でも難しいからといって、放棄すべき問題ではないし、人として考えなくてはいけないと思います。
今日はスムーズに話し合いができて楽しかった。司会も上手だったと思います。道徳のことにも触れられて楽しめました。
報告者1の感想 ◯◯先輩の例えがとてもすばらしく、感激しました。先生の質問は返答を用意していなかったので、一番苦戦しました。もっと、学習を深めていきたいです。
報告者2の感想 質問されていることをきちんと理解し、的確な答え方をしたいと思った。この経験を次に生かしたい。
コメンテータ1の感想 社会の上層部の人達が自立した思考=良心を持っている人たちだとしたら、ルワンダ紛争で差別されている人たちのことは考えずに、紛争を止めようとするだろうか。
コメンテータ2の感想 今回コメントを担当したんですが、戦争をなくすための対策を抽象的に論じてしまったため、もう少し、具体的に現代にあてはめて考えたいと思いました。
司会者の感想 司会の仕事は思ったよりも大変でした。私にもっと技術があれば、もっと上手く話をふって、議論を盛り上げる事ができただろうと思い、残念です、反省しています。みなさんの話はレベルが高くて、いつもながら感心しました。