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2014年9月8日月曜日

サール邦訳『言語行為』誤訳箇所メモ


【訳文】

言語哲学とは、指示(reference)、真理(truth)、意味(meaning)、必然性(necessity)などという用語がもつある種の一般的特性を記述し、そのことによってある種の哲学的知見をもたらすことを企図するものである。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,4頁
【原文】

The philosophy of language is the attempt to give philosophically illuminating descriptions of certain general features of language, such as reference, truth, meaning, and necessity;


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 4

邦訳は "such as" 以下を "language" の例示と解し、 "language" を「用語」としているが間違い。 "such as" 以下は、 "general features of language" (「言語の一般的性質」)の例示である。


【訳文】

この形の議論――すなわち、概念Cは、分析と適用規準を欠くがゆえに正しく理解されていないということを根拠として、Cの分析とその適用規準を提出することを可能とするには、なんらかの意味において、あるいは、なんらかの観点においてCが不適切な概念であると論ずる議論


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,7頁
【原文】

This form of argument — we lack analysis and criteria for a concept C, therefore we do not properly understand C, and until we can provide analysis and criteria for C, it is somehow or in some respects illegitimate


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 5

邦訳は意味不明。しかし原文はごく単純である。すなわち――「概念Cには分析と基準が欠けており、したがって我々はCをきちんと理解できていない。そして、Cに対して分析と基準を与えることができるようになるまでCを使うのは不適切である」。


【訳文】

上述の議論で考慮されていた(やや奇妙な)意味での「規準」は、問題の語に対してわれわれが実際与え得る定義によって定められるものであった


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,7頁
【原文】

In the (somewhat odd) sense of "criterion" which is employed in these discussions the definition that we could give for these terms provides a criterion of sorts.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 5

原文は、「概念の適用基準がないとか言うけど、そんなもの定義を与えてやればそれが基準になるじゃん」と言っているだけなのだが、邦訳は謎の過去形(「定められるものであった」)のために意味不明になっている。


【訳文】

また、分析性の定義は、一つの陳述は意味または定義によって真であるとき、そしてそのときに限り分析的であるという形をとるとされてきた


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,7頁
【原文】

analyticity is defined as: a statement is analytic if and only if it is true in virtue of its meaning or by definition.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 6

これも一つ上の指摘の関係で、邦訳はここでサール(が紹介する既存の議論)が「概念の適用基準なんて定義で十分じゃん」的な議論をしていることを理解できていないために、またしても謎の過去形(「とされてきた」)を付け加えてわけわからなくしてしまっている。


【訳文】

しかし、このような議論をそのま続けるならば、以上の二つの定義はその期待された機能をはたすものでないということは明らかである。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,7頁
【原文】

But, so the story goes, such definitions are no good.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 6

これは邦訳にあるような「ならば」的な仮定法ではなく、「しかし――と議論は続くのであるが――この種の定義ではまだ不十分である」みたいな意味(もちろんこんな直訳的な訳し方をする必要はない)。このあたりの文章はずっとサールが既存の議論を(後で批判するために)紹介しているところであることに注意。


【訳文】

では、われわれが先に述べた理由が、この問題に対する解答を正当化する理由たり得るのはいかにしてであろうか。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,10頁
【原文】

How indeed do we even know that the reasons we give are even relevant to the problem?


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 7

長い段落の一部で、この箇所にかぎらず訳者による無駄な補足が理解を妨げることになっている。ある命題が分析的か否かを判断する外延的な基準が与えられたときに、それが間違っていると判断でき、その判断の理由を明示することもできるとして、ではどうしてその理由が「分析的か否か」問題に関係するものであることがわかるのか、という問いである(答えは、その概念を我々はすでに理解しているからだ、というものになる)。そもそも「我々が述べる理由」は外延的基準の不適切さの理由なのだから、「解答を正当化する」は文脈上も間違いである。


【訳文】

われわれとしては、これらの例を分析的なものとして分類することについても、また、非分析的なものとして分類することについてもまったく納得が行かないとしても不思議ではない


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,13頁
【原文】

We do not feel completely confident in classifying it either as analytic or non-analytic.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 8

なぜこの簡潔な原文をこんなに長い訳文にしてしまうのかというのはさておき。「境界事例である」ということを言い換えている箇所で、「分析的であるとも分析的でないとも絶対の自信をもって言うことはできない」ということ。


【訳文】

「Xは良い」の意味がたんに「私には、はXを好きだ」であったとしたら意味をなさないような単語の並べ方、たとえば、「私はそれが好きだ。しかし、それは良いものなのか」というような文を示す


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,17頁
【原文】

one [...] shows that certain forms of words make a kind of sense they could not make if "X is good" just meant "I like X", such as e.g. "I like it, but is it really any good?"


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 11

これは「私はXを好きだ」の誤植なんだろうけど、「単語の並べ方」とか書いてるから一瞬そうじゃないのかと思ってしまう。


【訳文】

以上のことを認めるならば、本書における研究の出発点は、人々が言語について上述のような知識をもち、その知識に対して特に望ましいとされている種類の規準を提出する能力をもつか否かということに対して、その知識の有無は無関係であるという事実である


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,18頁
【原文】

The starting point, then, for this study is that one knows such facts about language independently of any ability to provide criteria of the preferred kinds for such knowledge.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 11

ここも簡潔な原文を無駄に長くして意味不明にしてしまっている。「とにかく我々は言語についてそうした知識をもっているのであって、その知識について的確な基準を明示できるかどうかというのはまた別の話なのである」とか。


【訳文】

そのような言語特性記述を行なうことは、記述の対象となる言語自身を使ってなされた場合、それ自身が規則に従った発言である以上、私がその言語を習得しているということをさまざまな仕方で明示することと同じことになる


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,20頁
【原文】

[S]ince the linguistic characterizations, if made in the same language as the elements characterized, are themselves utterances in accordance with the rules, such characterizations are manifestations of that mastery.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 12

「対象と同じ言語を用いて言語特性記述を行う場合、その特性記述もまた対象と同じ規則に従っているわけだから、その特性記述自体が当該規則が習得されていることの一つの表れである」ということ。「さまざまな仕方で明示することと同じことになる」とか原文にはない( "manifestations" が複数形なのは主語である "characterizations" が複数形だからにほかならず、「一つの」と訳すのが正しい)。


【訳文】

そのような言語特性記述を限りなく与えようとも追及の手をやすめない相手に対して、「私は英語を喋っているのだ」と答える


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,21頁
【原文】

if pushed by the insistent how-do-you-know question beyond linguistic characterizations altogether, to say "I speak English".


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 13

「 "Women are female" は分析的な命題だ」に対し、何でそんなことがわかるの? としつこく訊いてくる人に「私は英語を喋っているのだ」が答えになるわけない。答えになるのは「私は英語が喋れる」(もっとくだいて言うと「いや俺、英語わかるからさ」)である(原文が "I am speaking English" ではないことに注意)。


【訳文】

一つの言語を私が使用できるためには、私によるその言語の諸要素の使用が規則的であり、かつ体系的な一群の規則を習得することが必要とされる。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,22頁
【原文】

My knowledge of how to speak the language involves a mastery of a system of rules which renders my use of the elements of that language regular and systematic.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 13

邦訳は意味不明。「ある言語の使用法を知っているならば、その言語の要素の使用を規則的かつ体系的にする規則体系を習得しているはずである」くらいか。


【訳文】

私の知識は、私が実際に野球に参加できるということ、とりわけ、一群の規則を内面化してもっているという事実に基づくのである。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,23頁
【原文】

My knowledge is based on knowing how to play baseball, which is inter alia having internalized a set of rules.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 14

「野球のやり方を知っているということ」で十分わかるのに「実際に野球に参加できるということ」にする理由がないし、実際には参加できないがやり方は知っているという事態がありうる以上、これは誤訳と言わざるをえない。


【訳文】

たとえば、家具を一定の仕方で配置することによって意思疎通をはかるということも可能であるかもしれない。しかし、その配置の意味を別の誰かがなんらかの仕方で理解するとき、彼がその配置に対してとる態度は、その配置に対して私がとる態度とはまったく異なるものとなるであろう。しかし、いずれの場合も配置が意図的行動の結果であるという点にかわりはないゆえに、私が言語行為と呼んでいる行動にとっては特定の種類の意図のみが適当であるということを理解することが可能である。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,28頁
【原文】

For example, it would be possible to communicate by arranging items of furniture in certain ways. The attitude one would have to such an arrangement of furniture, if one 'understood' it, would be quite different from the attitude I have, say, to the arrangement of furniture in this room, even though in both cases I might regard the arrangement as resulting from intentional behavior. Only certain kinds of intentions are adequate for the behavior I am calling speech acts.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 17

邦訳は、家具の配置に対して、それをメッセージと理解する人とそうでない人の態度の違いを対比しているように書いているが間違い。そんなふうに受け取る側の態度の違いだけを論じたのでは、意図の違いについての議論につながらない。

ここでは、メッセージを担うよう意図的に配置された家具と、そうした目的はないが例えば美観上の観点から意図的に配置された「この部屋」の家具を比較して、どちらも「意図的に配置された」という点では変わらないのに受け取る側の態度がまったく異なるのは、言語行為(前者の例)に特有の意図が存在することの証拠だ、と論じているのである。


【訳文】

さて、言語使用は、それが規則に支配されるものであるゆえに、それ自身独立した研究の課題となり得るという形式的特性をもっている。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,28頁
【原文】

Now, being rule-governed, it has formal features which admit of independent study.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 17

「という」が不要。これがあると全然意味が違ってくる。


【訳文】

さて、このうちのいずれかの文を話し手が発話するということに対して、われわれはいかなる描写や記述を与えるべきであるかということに関して考察してみたい。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,39頁
【原文】

Now let us ask how we might characterize or describe the speaker's utterance of one of these. What shall we say the speaker is doing when he utters one of these?


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 22

「それぞれの発話をする際に、この話し手が何をしていると我々は言うだろうか」訳抜け。(これはわざとかもしれないが)


【訳文】

話し手は、上述の四つの文を発話するときにはつねに、ある特定の対象、サムを指示(refer)または表示(denote)し


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,40頁
【原文】

in uttering any of these the speaker refers to or mentions or designates a certain object Sam,


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 23

原文では "denote" という動詞は使われていない。なぜ入れたのかちょっと意図が謎……


【訳文】

発語内行為を表わす英語の動詞には、次のようなものがある。[略] "censure" 「検閲する」[略]


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,40頁
【原文】

Some of the English verbs denoting illocutionary acts are [...] "censure," [...]


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 23

「検閲する」は発語内行為だろうか……というのは措くとしても、「検閲する」は "censor" であって "censure" は「非難する」。


【訳文】

私の用語法においては、なんらかの表現を指示する(述定する、主張するなど)という述べ方はまったくの無意味となるか、あるいは、その表現がさまざまな話し手によって指示する(述定する、主張するなどの)ために使用されていると述べるかわりに用いられる省略表現であるかのいずれかである。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,48頁
【原文】

To say that an expression refers (predicates, asserts, etc.) in my terminology is either senseless or is shorthand for saying that the expression is used by speakers to refer (predicate, assert, etc.);


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 28

うっかりミスだろうけど、ここは間違えてはいけないところ。「表現を指示する」ではなく、「表現が指示する」。


【訳文】

確定指示という概念とそれに対応する確定指示表現という概念の間に明確な境界はない


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,48頁
【原文】

The notion of definite reference and the cognate notion of definite referring expression lack precise boundaries.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 28

「指示(するという行為)」とそこで使われる「表現」の間には明確な境界があるだろう(定義的に考えて)。ここは、両者の間の境界が不明確だというのではなく、「(確定)指示」とそうでないものの間の境界が不明確だと言っているのである。


【訳文】

むしろ、哲学においてしばしば犯される誤謬は、以上のような疑問に対して、錯覚を免れた一義的な解答が存在すると考えたり、さらに悪いことに、錯覚を免れた一義的な解答が存在しないかぎり指示という概念自体に価値がないというように考えたりすることである。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,49頁
【原文】

A common mistake in philosophy is to suppose there must be a right and unequivocal answer to such questions, or worse yet, to suppose that unless there is a right and unequivocal answer, the concept of referring is a worthless concept.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 28

ことさらに誤訳というわけではないが "right" を「錯覚を免れた」と訳す意図が不明。赤字箇所は「一義的な正解」でいいんじゃないの?


【訳文】

指示表現を発話することの特徴的な機能は特定の対象を他の対象とは切り離して固定すること、あるいは、このように選び出すことである。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,49頁
【原文】

The utterance of a referring expression characteristically serves to pick out or identify a particular object apart from other objects.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 28

邦訳は意味不明。おそらくこういう過程を経たのではないかという予想は次の通り――まず(なぜか)後ろの "identify" から訳して「同定する」としたがこれが誤植で「固定する」になり、その後に原文では前にあった "pick out" を「選び出す」とし、「他の対象とは切り離して」の意味で「このように」をつけたのではないか。いずれにせよ、「他の対象とは切り離して取り出す、または同定すること」と素直にやっておけばよかったところ。


【訳文】

そして、命題を表現するのみにとどまり他のことをまったく行なわないということは不可能である。そして、命題を表現するならば、その結果何らかの完全な言語行為を遂行することになる


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,51頁
【原文】

One cannot just express a proposition while doing nothing else and have thereby performed a complete speech act.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 29

一文の原文を訳文で二文に分けるのは下手な人がやると間違えるので注意という案件。

まず正しい訳文は、「命題を表現するだけで他のことは何も行わず、それでいて完全な言語行為を遂行しているなどということはありえない」である。

そのうえで、邦訳の一文目は誤訳ではあるが内容は間違っていないのでぎりぎりセーフ。しかし二文目は「命題を表現する」ことが原因となって「完全な言語行為を遂行する」という結果が起こると言っているのであるから明らかに間違いである。せめて「命題が表現されているならば、何らかの完全な言語行為が遂行されているはずである」という論理的な言い方をしておけば内容まで間違えずにすんだ。しかしまあいずれにしても誤訳である。


【訳文】

実際、「私は行くと約束しない」における「約束しない」という発話は、「私は行くと約束する」における「私は約束する」という発話と同様に、自叔伝の中の主張に完全に同種であるということはできない


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,57頁
【原文】

But, e.g., "I don't promise" in "I don't promise to come" is no more an autobiographical claim than "I promise" is in "I promise to come".


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 33

邦訳は意味不明。まずここの "autobiographical" は「話し手が自分の行為について陳述する」という意味なのだから、「自叙伝」とか無茶な訳語を使うくらいなら「自己叙述的」くらいにしておけばいいのである。いずれにせよ、「自叔伝の中の主張に完全に同種であるということはできない」などという迷訳がどこから出てきたのか理解に苦しむ。

ここは「私は約束する」という発語内行為が「約束を内容とする陳述行為」であるわけではなく端的に「約束行為」であるのと同様に、「私は約束しない」という発話は「約束の不存在を内容とする陳述行為」であるわけではなく端的に「約束行為の不存在」であるということを言っているのである(が、邦訳からそのことを読み取れる人はいないだろう)。

なお、邦訳で直前のところに「┣~(q)」とあるのは「┣(~q)」の誤植。


【訳文】

統制的規則は、エティケットに関する規則がその規則とは独立に成立している個人間の関係を統制するという例にみられるように、既存の行動形態をそれに先行して、またそれとは独立にそれを統制する。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,58頁
【原文】

As a start, we might say that regulative rules regulate antecendently or independently existing forms of behavior; for example, many rules of etiquette regulate inter-personal relationships which exist independently of the rules.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 33

邦訳は "antecendently or independently" という副詞が "regulate" という動詞にかかっていると解しているが間違い。この二つの副詞はその直後の "existing" という形容詞にかかっているのである(セミコロン後の例示で "independently" がどう使われているか見れば明らか)。規則によって統制される行動形態が、その規則に先行し、規則とは独立に存在するということ。


【訳文】

この両者の疑問の表面上の意味のみを理解して答えようとするかぎり、「XをYとみなす」という形式をもつ規則を引用して答えるという以外の方法はない。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,60頁
【原文】

As they stand both questions can only be answered by citing a rule of the form, "X counts as Y"


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 35

言及されているのは「約束をすることが義務を生じさせるのはいかにして可能であるか」と「タッチダウンによる得点が6点であるのはいかにして可能であるか」である。邦訳ではこの二つの疑問文に「表面上の意味」に対比される「深い意味」があるようにしか読めないが、もちろんここはそんなことを言っているのではない。

正しくは「このような形の問いに対しては……のように答えるしかない」。


【訳文】

しかし、この意味における新たな行動形態に言及することは無意味である。そして、このような概念は、そもそも私が問題にしているものではない


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,61頁
【原文】

That is not the sense in which my remark is intended.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 35

無茶苦茶である。ここは「……な言い方も可能だが、私が言っているのはそういう意味ではない」ということ。


【訳文】

しかし、ここにおいて述べなければならない修正が二点ある。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,63頁
【原文】

But there are two qualifications that need to be made..


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 36

"qualification" は「修正」ではなくて「限定」。


【訳文】

第一に、構成的規則は、さまざまな体系をなして存在するゆえに、この形式を具体的に実現するのはその体系全体であり、体系内部の個々の規則ではない。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,63頁
【原文】

First, since constitutive rules come in systems, it may be the whole system which exemplifies this form and not individual rules.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 36

文末に「場合もある」をつけてください。


【訳文】

たとえば、「オフサイド」、「ホームラン」、「タッチダウン」、「チェックメイト」などは、Xの位置に来る言葉によって特定された事態に対するたんなるラベルではなく、むしろ、たとえばペナルティーや得点や勝ち負けという方法によって更にさまざまな帰結を導入している。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,63頁
【原文】

Thus "offside", "homerun", "touchdown", "checkmate" are not mere labels for the state of affairs that is specified by the X term, but they introduce further consequences, by way of, e.g., penalties, points, and winning and losing.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 36

邦訳だと、例えば「オフサイド」が「ペナルティ」という方法によって更に別の帰結を導入するように読めるが、もちろんここで言われているのは、「オフサイド」が「ペナルティ」という帰結を導入している、ということである。どうもこの邦訳は「道」でない "way" を「方法」と訳すという拙い方針を採用しているようで困る。


【訳文】

しかし、しかじかの条件においてある人が魚を釣ったことになるということは、慣習の問題ではなく、さらに、慣習に類するいかなるものとも無縁である。それに対して、一つの言語において遂行される言語行為の場合には、ある種の条件においてしかじかの表現を発することが約束することであるとみなされるということは、――作戦や、テクニックや、こつや、自然的事実とは区別される――慣習に関わる問題なのである。


坂本百大/土屋俊(訳),『言語行為』,勁草書房,63頁
【原文】

But that under such and such conditions one catches a fish is not a matter of convention or anything like a convention. In the case of speech acts performed within a language, on the other hand, it is a matter of convention — as opposed to strategy, technique, procedure, or natural fact — that the utterance of such and such expressions under certain conditions counts as the making of a promise.


John R. Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, p. 37

「どういう条件下で魚を釣ったことになるか」というのは明らかに「魚を釣る」という行為の定義の問題であって、ここの例にはふさわしくない。原文をきちんと訳すなら「しかじかの条件下で魚が捕れる」であり、これはもちろん自然的物理的事実の問題である。邦訳は「ことになる」という余分なものをつけたことでおかしなことになっている。

またこの邦訳は "convention" を「慣習」と訳しているが不適。最近なら「規約」が定訳だが、「決め事」でもいいだろう。

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