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2012年2月6日月曜日

システム合理性概念の規範論的解明

日本社会学会第75回大会(2002年12月18日・大阪大学)での報告(D1=25歳のとき)。


報告要旨(エントリー時)

ルーマンの理論構築上の目標の一つに、経験的研究と規範的研究との再結合があることは言うまでもない(「機能的方法とシステム理論」最終節や『目的概念とシステム合理性』結論部を参照)。私見ではむしろ、ルーマン理論のその他の部分は究極的には全てこの目標に関わってくるのであり、そうした観点からの研究こそが真に有意義なルーマン論を提供すると思われる。実際、ルーマンが自分の営為を称して呼ぶところの「社会学的啓蒙」のプロジェクトが直接の批判対象とする方法論的態度は、アプリオリな規範的準拠点を前提とした「理性啓蒙」ではなくて、そうした態度が失墜したことによって生じた、規範的目標を完全に放棄した「暴露啓蒙」なのである。合理性をめぐる議論に関しても同様で、「システム合理性」が直接の批判対象としているのは、目的達成に資する最適手段選択を規準とする「目的合理性」ではなくて、そうした規準が失墜したことによって生じた、合理性判断の放棄という事態なのである。いずれの場合にも、目指されているのは科学性と規範性とのトレードオフを克服して、両者の折り合いをつけることである。そしてここで問われるべきことは、この課題をルーマンがどのように解決しようとしており、どのように失敗(あるいは成功)しているかを解明することである。

本報告は以上のような観点に立ったルーマン研究の一環として、システム合理性規準が、従来の合理性概念のどのような点をどのように改善するものであるか、ルーマンによるシステム/環境理論(「世界」と具体的実現との中間領域に「両立不能な複数可能性の限定的共在」として成立するシステムという表象)の提唱がどのように資するものであるかを解明する。さらに、オートポイエシス理論導入による「システム/環境の差異のシステムへの再導入」というシステム合理性の新しい(ほとんど意味不明な)定式化が、「パラドクス」と呼ばれるシステム崩壊(オートポイエシス停止)のシステム内在的契機と密接に関係していることを明らかにする。

以上の解明の中で、彼が科学性と両立する規範的研究にどのような条件を要求しているのかが浮き彫りになる。その重要な一つに「相対性」が挙げられる。特定のシステムに対する規範的言明は、当該システムを分析することによってはじめて、そのシステムにとってのみ有意味なものとなるのであって、一般的抽象的命法からの特殊具体的演繹としては出てこない。このような意味での相対性が、特定のシステムの内部で通用する規範的言明が、一度その外部に出ると必ずしも通用しなくなるという意味での「相対性」とは異なることに注意しなければならない。本報告が対象としているのは、システム内部での規範的言明ではなく、システムに対する理論家の規範的言明である。


報告原稿(エントリー時)


本報告の目標は二つである。一つは、システム合理性概念がルーマン理論全体の中でどのような位置づけにあるかを解明すること。もう一つは、前期と後期での定式化の違いが持つ意味を解明することである。「規範論的」という形容について一つ弁解しておくなら、これはシステム合理性概念が、機能分析の(したがって相対化、偶有化の)対象ではなく、その対象である諸概念に対して(ある意味で)超越的な位置にあることを、そしてルーマン独自のこの概念の定式化が、システムに対する合理性判断は(システム批判は)どうあるべきかという問題関心に依拠していることを示そうとした苦しい表現である。「規範」概念そのものが機能分析の対象となっている以上、「規範的」という表現を使うことができなかったことによる。

ルーマンの理論構築の出発点に、合理性判断の規準の刷新という目標があったことには疑いの余地がない(『公式組織』や『目的概念』の後書き、論文「機能的方法とシステム理論」や「社会学的啓蒙」を見れば明らか)。しかもこの目標設定の根幹にある学問の「現状」に対する不満は、それが過剰に規範主義的であることにではなく、過剰に経験主義的であることに向けられているのである。すなわち、ルーマンが憂えているのは、例えば既に使い物にならなくなった目的合理性規準に社会学者が固執していることにではなく、そうした基準の喪失とともに合理性判断それ自体までもが放棄されていることなのである。したがって、合理性規準の刷新という目標は、「使い物になる」規準を示すことで、社会学に合理性判断の能力を取り戻すことをより深い切実な目的としていることになる。

合理性規準の刷新はシステム表象の刷新と並行している。ルーマンによるシステム/環境理論の提唱とは、システム表象を存在者(単一の可能性)と世界(全ての可能性の共在)との中間(複数可能性の限定的共在)に置くことである。これは二つの議論から成立している。すなわち、複数可能性の共在(複雑性)としてシステムを脱存在論化(システム内で生じる出来事から見れば超越論化)すること、そして世界概念の仮設によってシステム存立を問題化すること(常に世界複雑性を縮減して初めて存立しうるものとして表象すること)の二つである。

これに伴って合理性規準も、第一に(何らかの)単一の可能性(理想状態)の追求ではないという意味で脱存在論化され(目的合理性はこの意味で存在論的)、第二に問題化されたシステム存立を規準とすることで規範論上の有意性を保証されることとなった(システム表象が非存在論的である以上、システム存立を目指すということがもはや存在論的な意味を持っていないことに注意)。

さて合理性判断の規準をシステム存立に求めるということは、合理性規準の具体的な定式化がシステム存立の定式化に依存するということである。複雑性概念によってシステム表象を脱存在論化し、かつ共在する可能性の無限定性によって限定的共在であるシステムを圧倒する世界概念を設定することによって、システム存立とはこの可能性の限定性(複雑性の縮減性)の維持と捉えられることとなった。この結果、システム合理性は、「環境変動に対応できる程度の複雑性をシステムが備えていること」として定式化される。

このシステム合理性規準と機能的方法との関係について一言しておこう。システムの自己複雑性を増加させるには、従来システム内で不可避的なものとして妥当していたものを偶有化すればよい。つまり選択可能なものとして捉えられるようになればよい。ところでルーマンの機能分析とは、分析対象に対して、当の対象が一つの解決可能性であるような一段抽象的な準拠問題を設定し、機能的等価物を索出することである。これはまさに対象を他の選択肢の中に置くことによる偶有化の操作である。ここから分かる通り、機能分析はシステム合理化に資する。

次に、オートポイエシス理論採用後のシステム合理性概念の定式化の変更を検討する。ここでは、システム/環境の差異を(単位として)システム内で観察することのできるシステムが合理的と形容される。ルーマンの用語系においては、観察とは区別した一方の側の指示であるから、合理的システムとは自己を生み出す区別を別の区別から区別されたものとして扱う、つまり自己の成立根拠を偶有化できるシステムのことである。

この定式化の意味を探るためにオートポイエシス採用によるシステム存立の定式化の変化を確認しよう。オートポイエシスとは、先行する選択が後続の選択の選択肢を生み出すという意味での選択接続によってシステム存立を(プロセス的に)定式化する理論である。システム存立という観点から見て避けられるべき事態は当然、選択が接続しなくなることであり、これはすなわち選択を無効化するような選択肢を先行の選択が生み出してしまう事態を意味する。これがルーマンによってパラドクスと呼ばれている事態である。システムの自己準拠的作動に孕まれるパラドクス化の可能性とは、すなわちシステムの作動にシステム崩壊(オートポイエシス停止)の契機が孕まれていることを意味する。

システム合理性規準がシステム存立に指向しているからには、上記の差異の(単位として)再導入による定式化は、このパラドクスの問題に関係していると考えるのが自然である。ルーマンの概念化ではパラドクスが生じるのは「否定の可能性が受容され、その否定が準拠する自己と準拠される自己のいずれかに関係付けられることでこの二つの可能性の間で自己準拠に基づいた決定が不可能になる」(Soziale Systeme, S.59)場合である。これはすなわちシステム存立の根拠が、存立しているシステムの作動そのものによって否定される可能性を意味している。

合理的システムは自己の成立根拠である差異をシステム内で他と区別されたものとして扱えるのであった。しかしこれはいわばダミーであって、これが否定されたところでシステム存立は脅かされない。以上が差異理論的システム合理性定式の意味するところである。

以上、システム合理性規準がシステム存立に指向しており、その定式化内容はシステム存立の定式化に依存していることを明らかにしてきた。ここまではルーマンの学説研究である。ここから、合理性判断を含む規範論的研究の文脈でルーマンの試みを検討するという理論的作業が始まらなければならない。

「システム合理性の思考モデルの探求は始まったばかりである」(Soziologische Aufklärung, S.48)とは四〇年前のルーマンの言であるが、ルーマン研究における合理性概念の規範論的検討は未だにほとんど試みられてすらいない。本報告がその端緒となることを望む。


報告原稿(大会時)


ルーマンにおいては、対象分析上の問題関心(システム表象)と規範論上の問題関心(合理性規準)とが表裏一体であるというのが本報告の出発点である。両者のうちどちらがより根本的であるのか、あるいはそもそも一方が他方に対して根本的というような関係にはないのか、といったことは現段階では明らかではないが、本報告では規範論的関心にひきつけた解釈を試みたい。

彼の理論的営為を一貫しているのは「脱存在論」の発想である。したがって、ルーマンが何を問題と考えているかを探るのに「存在論」の理解は不可欠である。まずはこれを確認しておきたい。ルーマンの用語系では、存在論とは「一定の可能性の肯定とそれ以外の可能性の否定」(Sein-und-nicht-Nichtsein)のことである。彼による先行研究批判は、システム表象についても合理性規準についても、この意味での存在論性に準拠している。逆に彼独自の理論的貢献は、脱存在論的なシステム表象と合理性規準を提出することに焦点を定めている。

さらに、ルーマンが当時(50年代末から60年代)の社会学のどのような現状に不満を感じて登場したのかという点も確認しておきたい。彼は58年の「行政学における機能概念」以来、機能分析の「等価物索出」機能に注目して等価機能主義を提唱してきたわけだが、これによって何が克服できると考えていたのか。一言でいえば、それは「経験的研究と規範的研究の分離」であり、社会学の前者への特化である。つまり従来有効だった規範的規準が失墜することによって社会学が規範的判断を放棄し、経験的研究に引きこもっていること。ルーマンはこうした現状を憂えていたのである。そして等価機能主義によって、両者の再統合が可能だと考えたのである。規範主義ではなく経験主義こそが克服されるべき対象だとされていることに注目したい。本報告が規範論的解明にこだわるのはこうした事情に起因している。

経験主義に不満を覚えるということは、学問は規範論上の立場を保持していなければならないということを、ルーマンが公理的に設定していることを含意する。理論は対象に対して何らかの意味で「よい」という規準を示すことができなければならない。つまりは独自の合理性規準を持っていなければならないということである。ただし、ルーマンが理論に要求する規範論上の公理はこれだけではない。この合理性規準は、従来の規準が失墜した原因をクリアするものでなければならない。ルーマンの観察によれば、従来規準が失墜したのは、偶有性が支配的となることによって存在論が失効したことによる。つまり、あらゆるものについての別様可能性の存在が顕在化することによって、一定可能性の実現を、そしてそれだけを「よい」とする規準は説得力を失ったのである。だから新しい合理性規準は、存在論的であってはならない。さらに、学問が提出する規準である以上は、対象が奉戴する規準から独立(距離化)したものでなければならない。以上、対象からの独立性と非存在論性という二つの特徴を持った合理性規準を独自に構築すること、これがルーマンの規範論上の目標である。

この目標の下でルーマンがひねり出したのが、「比較合理性」の発想である。合理的という形容に値するのは、一定可能性の実現ではなくて、複数可能性間の比較だというわけである。この発想がひとまず脱存在論の公理を満たしていることは明らかである。また、機能分析の醍醐味は、何らかの貢献によって分析対象を正当化することではなく、その貢献を準拠点として分析対象以外の可能性(機能的等価物)を索出し、それらの比較領域を開示することだという等価機能主義の発想も、これと密接に関係している。つまり等価機能主義が方法論として望ましいのは、比較合理性に資するからだと考えられるのである。

ところが、比較合理性それ自身は独立性公理を満たさない。というのも例えば行為者の主観的な目的設定をアプリオリに善とした上で、その実現に向けた手段選択の比較合理性を語ることは十分に可能だからである。しかも目的設定それ自体は存在論的規準であるから、非存在論性公理もこの場合には貫徹され得ない。このような隘路を回避するためには、準拠問題それ自体を非存在論的に設定する必要がある。ここから、システム/環境理論による非存在論的システム表象が定式化され、これと比較合理性とが結びついてシステム合理性規準が登場することになる。

システム/環境理論によるシステム表象とは、一言でいえば、一定可能性の実現状態(存在論的対象)と、全ての可能性の共在である世界との中間領域に、システムと呼ばれる対象を設定することである。このとき、存在論的対象はシステム内での複数可能性からの選択によって実現している。すなわち、このように定式化されたシステムは、複数可能性を比較し得る場所に設定されているため、このシステムの存立を比較合理性のための準拠問題とすることが可能である。問われるべきは、このシステム存立規準は本当に存在論的規準ではないのかということである。手掛かりとなるのは世界とシステムとの関係である。システムは世界における無限の可能性に限定がかかることによって(つまり世界複雑性の縮減によって)成立する。そしてシステム存立に関しては、それ以外の基準は与えられない。すなわち共在する複数可能性の限定性(複雑性の縮減性)、これだけがシステム存立を示す基準とされている。このように、システム存立を存在論的基準に求めないことによって、システム表象の脱存在論化を可能にし、さらには合理性基準の脱存在論化を可能にすることが、ルーマンの規範論上の工夫なのである。

以上、ルーマンの規範論上の取り組み、つまり合理性規準の脱存在論化を論じてきたわけだが、そこで用いた用語系は前期のものに限られていた。以下では、差異理論を前面に押し出してきた後期ルーマンの用語系においても、同様の議論が成り立つことを見ていきたい。

差異理論では、まず存在論的なるものが、区別によって生じる二つの領域のうちの一方を指示することとして再定式化される。合理性規準に関して言えば、存在論的規準とは、例えば正/悪を区別して正のみを規準として採用することを意味する。これを脱存在論化するためには、時に応じて悪の方も採用できるように一段階の抽象化を行えばよいように思えるが、ことはそれほど簡単ではない。差異理論では、特定の区別は特定のシステムの固有の作動として考えられており、しかもそれが当該システムを成立させるシステム/環境の区別と重ね合わせられているため、例えば正/悪の区別を用いるシステムは、正をシステムに、悪を環境に割り当てざるを得ないことになっている。したがって、合理性規準の脱存在論化を行って比較合理性を獲得するためには、この区別そのものから一段階抽象的な地点に立って、区別間比較を行えるのでなければならない。このとき、区別(差異)は一つの単位として扱われることになる。

後期システム表象の最も重要な特徴は、前期においては存在論的ではないとして消極的にのみ語られていたシステム存立の問題性を、より積極的に表現できるようになったということにある。すなわちシステムは、オートポイエシス的再生産があって初めて存立するのであって、それができなければ存立し得ないというわけである。オートポイエシス的再生産とは、簡単に言えば選択接続のことである。選択が接続していくためには、二つの条件が必要である。第一に先行する選択が一定の存在論的状態を帰結するのではなく、後続の選択の選択肢(複数可能性)を用意するのでなければならない。これは「意味」と呼ばれる否定の反省的適用可能性によって確保される。合理性規準にとって重要なのは第二の条件の方である。すなわち選択は排他的でなければならない。選択肢の中からあるものを取り出し他を排するからこそ一つの選択が終了し、次の選択が始まり得る。ところが自己準拠的システムではこの排他性条件が満たされない事態が生じ得る、というのが後期合理性概念にとって決定的な洞察である。自己観察のパラドクスと呼ばれているのがこの事態である。

パラドクスとはある選択肢の選択がその否定を導出することであり、結局当の選択が無化してしまう事態を言う。それゆえ選択接続によって初めて存立を得るシステムがパラドクスを生じてしまうと、選択が接続しなくなり、すなわちシステムが存立しなくなる。だからシステム存立にとってパラドクスは回避しなければならない事態である。後期システム合理性規準が照準するのはこの問題である。

後期システム合理性規準の定式化を確認しておこう。「システム/環境の差異をシステム内で単位として扱えるシステム」が合理的なシステムである。「単位として」というのがポイントである。単位ということは観察の対象ということであり、観察とは何らかの区別の下での排他的指示のことであるから、単位として扱われるものは別様可能性を伴うもの、偶有的なものとして扱われる。したがって、システム/環境の差異というシステム存立の根源的根拠に関する比較合理性を持ったシステムがシステム合理性を有することになる。

さて、このような意味での合理的システムは、先のパラドクスに伴う接続不可能性問題をどのように解決するのか。簡単に言えば、それはダミー提供による盲点確保である。パラドクスは、システムという可能性領域を構成している根拠を、その根拠性を保持しつつシステム内で扱うから(いわば絶対性を保持したまま相対化することによって)生じるのであって、システム内で偶有的なものとして扱えるような根拠のダミーがあれば、本当の根拠には手をつけないで、そちらを観察して済ますことができる。ルーマンがパラドクスは観察にとっては問題だが作動にとっては問題でないとか、「盲点」という表現で言っているのはこういうことである。

以上、ルーマンが合理性規準の脱存在論化(比較合理性の獲得)を準拠点(システム表象)の脱存在論化によって達成しようとしていることを、その内在的論理を明らかにすることによって確認してきた。しかしこれだけでは解明はきわめて不十分である。ここを端緒として、この試みを規範論上の学説史・理論史の文脈において捉え直す作業、その上で規範論としての妥当性を内在的・文脈的に再検討する作業が必要である。またルーマンによるより具体的な議論――機能分化した全体社会には合理性が不可能とか、組織には可能だとか、相互行為はどうなのかといった議論――についても上と同様の作業が必要となる。それがこれからの私の研究課題である。