対象文献:
ニーチェ,丘沢静也(訳),『ツァラトゥストラ 上』,『ツァラトゥストラ 下』,光文社古典新訳文庫
以下、出席者の感想。
今日はすみませんでした。様々なニーチェ像の捉え方を聞けて良かったです。担当の皆さんお疲れ様です。
今日の孤独についての議論は非常におもしろかったです。私個人としては、孤独やさみしさは打ち勝つべき対象ではなくて、超越するべき対象であるように思います。◯◯さん[=フロア1]の中庸や空の話にはとても共感ができました。でも◯◯さん[=フロア1]の言う中庸は、どちらかというと「悟り」に近いのかなとも思いました。今日は◯◯君[=コメンテータ1]が集中砲火をうけていました。おつかれさまでした。
◯◯くん[=報告者1]のレジュメの内容が、これまでと違い、著者の心情について考えているのでおもしろいなと思った。○◯さんが司会でしたが、暴走してたと思う。自分の聞きたいことばかりを聞こうとするのではなく、もっと他の人の意見を中心にしていったほうが良かったと思う。
ニーチェの考えは「善悪の彼岸」という書名が示すように、二項対立的な価値図式を乗り越えることにあるという理解を、今日の討論を通して再認識することができました。
人の成長にさみしさ、孤独は必要なのだと思います。なぜなら、傷みを知るからです。さびしさなどで心が傷いた時、それを乗り超えることで、他人に優しくなれると思います。少なくとも、自分中心の考え方はなくなるでしょう。
私は私しか信じられない。ああ孤独だ。
孤独といっても人によって考える内容は異なると思う。
「孤独」ということに関して、自分を理解してくれる人がいない状況から、孤独に打ち勝つというのは、孤独という状態から抜けだすのか分からなかったです。
孤独は単にさみしいものだと思っていた。しかし、孤独を見つめることで、生まれるものがあるという考えはとても新鮮だった。孤独でいることをさみしいと思うことは、もしかしたら損なのだろうかと思った。
論点が次々に移り変っていって、ついていけない時があった。
さびしさを乗りこえて、その先に何かを見つけることができた人はいないのではないかと思う。
中庸って、なんだろうか。中国の思想でも出てきたし、ギリシア哲学でも出てきたし。中庸はキリスト者の徳のあり方として使われていると報告者は言うが、中庸とキリスト教のつながりがよく分からなかった。ニーチェはおそらく孤独だったろうな。男の人に孤独は似合うのかな。でも、女の人も、家帰って1人になれば、孤独だなぁって思うと思うなぁ。
孤独感とか、やっぱりふと感じるときありますよね。普段生活しているときも。自分でも、そういうときって、自分の中でぐるぐる悩みすぎてるときであって、自分の中で解決してるものですよね。自分勝手な感覚ですよね、孤独感。
ニーチェがどんな心境でこの本を書いたのか、は全く考えなかった。寂しさを伝えたかったのかは分からないが、孤独感を味わった中で考えたことを文章にしたのかな、と思う。
報告者1の感想 みんなの考え方を聞くこと、やっぱり、すごく楽しい。もっとニーチェの思想とはどんなものかについて知りたくなった。
報告者1の感想 具体的な考えがないと質問されたときに困るということがすごく感じました。
コメンテータ1の感想 今回は失敗したと思う。きちんと整理してから後半の議論について書けばよかった。反省します。あと報告者がもう少し話せればよかったと思う。
コメンテータ2の感想 いつになく深いテーマだったように思います。本の内容から広がりのある議論ができました。まあ「理解する」といえど感情は人それぞれですし、人は皆孤独なんだと思いますが・・・。ニーチェ組の皆さん、おつかれさまでした。あと、◯◯ちゃん[=司会者]! 仕事とっちゃって申し分けなかったです。
司会者の感想 初司会ー(>_<)!! いきとどかなくてごめんね。ユルすぎた!?
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