読んでいて特に気になりメモする気になったところのみ。網羅的ではない。
【訳文】
誰が犯行におよんだのか、わたしにはそのときになってもまだわからなかった。ただ、われわれはそれが誰なのかを見つけだし、結局その人物に行きつくということだけは、始めからわかっていた。
【原文】
I still didn't know who was committing the crimes, but I knew for the first time that we would find out, and that we would arrive at him.
Thomas Harris,
Red Dragon, Berkley Books, Foreword
「始めからわかっていた」のではなくて、そのとき「初めてわかった」。著者とレクター博士(というキャラクター)との邂逅(=発明)によって初めて、という意味。
【訳文】
そして内心これでグレアムをつかまえたと思った。
――ひとつこの事件を料理することにしよう……
【原文】
He thought he had Graham. Let it cook.
訳者は "Let it cook" という表現が理解できず、苦し紛れに「事件を料理」としているがそうではない。 "Let it cook" というのは、料理で手を加えるところは全部終わったのであとはできあがるのを待つだけ、というニュアンスの表現。クローフォードは捜査にグレアムを引きこもうと画策していて、それが奏功したと確信する箇所。「あとは時間の問題だ」とか「座して待て」とか。
【訳文】
どんな行動をとったらいか、まだ自信がなかった
【原文】
He was not sure how he would act.
グレアムはトラウマのために事件現場で自分がどんな振舞いに出てしまうかわからないという不安を抱えており、その心情が書かれた部分。 would であって should ではない。
【訳文】
赤褐色の血の匂いがプンプンする。
【原文】
The coppery smell of blood was strong.
銅のようなのは色ではなくて匂い。日本語なら「鉄のような」とか言うところ。
【訳文】
クロフォードは電話交換台を通して電話をかけ、先方から受けたメッセージを簡単にメモした。
【原文】
Crawford checked in with the switchboard and jotted down his messages.
舞台は1981年。電話交換台を通して電話をかけたりはしない。場所は警察署内だから、おそらく署の電話交換係(代表番号にかけたらまずつながるところ)に内線でかけて、そこに届いていた伝言をメモしたのだろう。
【訳文】
率直に言ってあんたちはいつも一緒に仕事をしているのかね
【原文】
Let me get it straight, do you fellows work together all the time
「ストレートに言わせてもらう」みたいな感じで訳したんだろうがそういう意味ではない。「はっきりしておきたいんですが」とか「確認だけど」とかそういうこと。
【訳文】
「まさか旅費をよこせって言うんじゃないだろうな?」
「それなんだよ」
「おい、ジミー、今日はそううまく問屋がおろさんのさ」
【原文】
"Gonna piss in my ear about the per diem, aren't you?"
"Right."
"Today, Jimmy my lad, nothing's too good for you."
クローフォードの台詞二つに、ジミーの台詞が挟まれている。これも訳者が読解できず、なんとなくの感じで訳したのだろう。ジミーは凄腕の鑑識で、それまで存在しないと思われていた犯人の指紋をこの日発見した大功績者ということを念頭に置くべき。旅費も出さないなんてありえない(正確には「日当」)。
"too good for you" というのは「おまえには良すぎる」ということで、これなら「おこがましいわ!」という意味になるが、クローフォードは "nothing's too good for you" と否定しているのであり、つまりその働きに対し「なんでも褒美をとらすぞ」的な言い方をしているのである。最初の台詞で嫌そうな素振りを見せておいて次の台詞で覆しているわけ。
【訳文】
今度の満月の晩まで待ってくれ。その時がきたらぼくがやつのことをどれだけ知ってるか訊いてくれないか
【原文】
"Wait until the next full moon," he told Crawford. "Then tell me how much I know about him."
次の満月の夜に犯人は再び殺人を犯すと予想されている。また台詞の主はグレアムで、犯人像をクローフォードに伝えるのを渋っている。それでも「なにかわかってることあるんだろ」と執拗に迫るクローフォードをいなすのがこの台詞。
邦訳の言い方では、時間をくれれば犯人像を明確にしてやる、という意味になってしまう。そもそも "Tell me" であって "I'll tell you" ではないので「訊いてくれ」はおかしい。犯人像は不明と言っているのにクローフォードがしつこいので、次の満月の晩になってまた殺人が起こってもまだ同じことが言えるかな、という意味の自虐的な挑発をしているのである。つまり予想されている犯行期日になっても犯人は野放しなくらい、現状では何もわかっていない、とグレアムはいいたいわけ。
【訳文】
わしの使用量はいつも同じだ
【原文】
I'm keeping up with what I use.
電気料金でもめている箇所。いつも同じなわけないので。自分がいくら使ったかくらい自分でわかっとるわ! くらいか。訳者は "keep up with" という表現を知らなかった?
【訳文】
わたしはすっかり頭にきちまった
【原文】
I've about got a bait of you.
邦訳でもまあいいけど、この "bait" は「たくさん」という意味で、この箇所は "I've about got enough of you" と同じような意味。もういいかげんあんたにはうんざりだということ。
【訳文】
やあ、ホイト。ビールの早飲みくらべをしないか
【原文】
Hey, Hoyt. I'll match you for a bottle of beer.
上司が昼間から「ビールの早飲みくらべ」なんか持ちかけるわけない。「ビール一本賭けて勝負しようぜ」と言ってるだけ。何の勝負かというとシャッフルボードだと直前に書いてある。
【訳文】
きゅうっとしまった格好のいい腹をしてた
【原文】
Had a cute little peter belly.
"peter belly" というのは中年女性(特に経産婦)の下腹のこと。実際、言及対象は一家惨殺された三児の母。ちょっとぽっこりしている感じがかわいらしかったと言っている箇所。もしかして訳者は "cute" は「きゅうっと」の意味だと思っているのだろうか。
【訳文】
「こりゃあ警官を呼ぶべきかな?」
「別にどうってことないんじゃないか」とミークス。
「いや、警官と話せばパーソンズのやつもすこしは身にしみるかもしれん。
【原文】
"Reckon I ought to call the cops?"
"Wouldn't hurt nothing," Meeks said.
"Naw, it might do Parsons some good, talk with the law.
警察に電話すべきかという質問に、邦訳ではミークスが否定的な答えをしたことになっているが、原文を見ると「警察に電話しても何の害もない(んだからやってみればいいんじゃないか)」と言っている( not ... nothing と二重否定になっているように見えるがこれは強調)。それを受けた次の台詞の「Naw(= No)」はミークスの発言を否定しているのではなく、ミークスの発言が否定文だったからそれに同調しているわけ。
【訳文】
初心者用の釣り道具、年季のはいったフォルクスワーゲン、モンラッシェが二ケースという大人の遊び道具に、グレアムは軽い憎しみを感じて、われながらどうしてそんな気持ちが湧いたのだろうと思った。
【原文】
Graham, who owned almost nothing except basic fishing equipment, a third-hand Volkswagen, and two cases of Montrachet, felt a mild animosity toward the adult toys and wondered why.
ここにあがっているのはグレアムの持ち物。趣味的なアイテムとしてはこの程度しか持っていないグレアムが、高級な趣味をもっているらしい被害者に奇妙な感情を抱いている箇所。文法も難しくないのにすごい誤訳。
【訳文】
鳴いているコオロギが抜け目のない小鳥に襲われて命を失うのと同じに、殺人鬼の目を引いたのは彼女にちがいないとグレアムは思った。
【原文】
Graham felt that it was she who drew the monster, as surely as a singing cricket attracts death from the red-eyed fly.
面白い表現。red-eyed flyというのは目が赤い種類のハエのことなので、なぜ「抜け目のない小鳥」とやるのかわからない。詩的な表現なので、被害者夫人をコオロギに、犯人をハエに喩えている感じか。
【訳文】
あの女ったら、膝のところに大きな大きななウイスキーのしみをつけたまドレスを返すっていうんですもの。
【原文】
She wanted to return a dress with a huge big whiskey stain on the seat.
もちろん「お尻のところに」が正解。
【訳文】
ええ、うちのウィルが電話でいつまでもいやらしいおしゃべりをしてるので、気が動転してたんですって言ったの。
【原文】
Oh, I said I was upset because Will talks like a jack-ass on the phone.
染みがついたドレスを返品しようとするクレーマー客とのやりとりについて報告する箇所。邦訳はこっちが折れたみたいになっているが、 "I said I was upset" というのは発言の時点で "upset" しているのだから、「腹立つわねあんた、って言ってやったわよ」的な感じ。過去形で "I said" と言ってその発言内容がその時点よりも過去なのであれば "I had been upset" でないといけない。
さらに because 節が現在形になっているのは、クレーマーのおばさんに言ってやった「腹立つ」を、電話口で「で、君はなんて言ったんだい?」「そしたら彼女は?」ばかり繰り返すウィル(グレアム)への軽い文句として二重利用している言い方。「腹立つわねあんたって言ってやったわよ。なにしろさっきからあなたが電話口でずっと馬鹿みたいなしゃべり方してるからね」みたいな。
【訳文】
ボールがとっても大きいの。
【原文】
He's got big balls.
飼い犬の話で、後続の会話から明らかにキンタマのこと。「ボール」では意味不明。「タマタマがね、すっごく大きいの」とか。
【訳文】
飼い犬が吠えたもんだから、彼は下着姿で小屋をとび出してくるとワンワン吠えてる犬をけしかけた。ところが運よく犬のやつ、ライマメの蔓にひっかってころんだもんだから、ぼくは逃げ出せたんだ。
【原文】
Alerted by his dogs, he burst from his dwelling in his BVDs, waving a fowling piece. Fortunately, he tripped over a butter-bean trellis and gave me a running start.
訳者は "fowling piece" がわからなくて当てずっぽうで犬のことにしてしまっているがこれは散弾銃のこと。犬は吠えただけで、つまづいて転んだのも銃を持った親父。
【訳文】
「彼は撃ったの?」
「その時は撃ったと思ったよ、うん。だけどぼくの聞いた銃声はうしろの方でしたのかもしれない。その点はどうもよくわからん。」
【原文】
"Did he shoot at you?"
"I thought so at the time, yes. But the reports I heard might have issued from my behind. I've never been entirely clear on that."
邦訳は「だけど」でのつながりが意味不明。なぜこんなことになっているかというと、 "from my behind" は「うしろの方で」じゃなくて「自分のケツから」だから。その時は銃声だと思ったが後から考えたら自分の屁の音だったかもしれん、とふざけて言ってる箇所。
【訳文】
しかしモリーとの会話を思い出すとわれながらいまいましかった。
【原文】
But it was his curse to pick at conversations, and he began to do it now.
邦訳はここでもわからないから雰囲気的にこんな感じかなと訳しているが "to pick at conversations" は特定の会話ではなく一般的なことを言っているのであって、「会話のあら探しをしてしまうのが呪い(=悪い癖)」で、それが今回も出そうになったというかちょっと出てしまったやばかった、と言っているのである。
【訳文】
いちばん上にのったメモには赤い付箋がついている。
【原文】
The top one was red-flagged.
これは単に「注意を惹いた」というだけだろう。
【訳文】
バーミングハム警察がジャコビ家のガレージの裏で靴箱に入れて埋められていた猫の死骸を見つけた。
【原文】
Birmingham police had found a cat buried in a shoebox behind the Jacobis garage.
「靴箱」(=下駄箱)ではなくて「靴の箱」。
【訳文】
そのメモによるとパーソンズは上役のすすめでとっくの昔に郵便局を退職していた。
【原文】
His notes said Parsons had taken early retirement from the post office at his supervisors request.
「とっくの昔に退職」ではなくて「早期退職」。
【訳文】
年寄りくさいべたべた髪で、キツツキの頭みたいなもみあげだ。
【原文】
He's got old greasy hair and those peckerwood sideburns.
"peckerwood" はキツツキのことではなくて "redneck" とか "white trash" とかと同様の貧乏白人に対する侮蔑語。
【訳文】
まず電柱とメーターを描いてから彼を訪ねるように言え。
【原文】
Tell him to draw the pole and the meter first and go from there.
「それから(人相書きを)始めろ」と言ってるだけ。
【訳文】
しかも第一の、そして最悪の徴候が見られる……子供と同様な、動物に対するサディズム。
【原文】
And he had the first and worst sign —— sadism to animals as a child.
これは「幼児期に動物嗜虐癖があった」ということ。
【訳文】
「ぼくの話を信じないなら、いったいなんだって訊いたりしたんだ?」
「今のその話を聞いてなかったからさ」
「いいだろう。こんなこと言うつもりじゃなかったんだ。しかし実際いま話したとおりなんだよ」
【原文】
"If you don't believe me, what the fuck did you ask me for?"
"I didn't hear that."
"Good. I didn't mean to say it. That's the way it happened, though.
これは最初の台詞でグレアムが "fuck" と言ってしまったので、スプリングフィールドが「いまのは聞かなかったことにしよう」と流し、それを受けてグレアムが「本気じゃなかった」と言っている箇所。内容の話ではない。
【訳文】
ということは世間の人に知らせぬことが最良の警告というわけだ。
【原文】
That meant not giving the public the best possible warning.
犯人の手がかりを公表するかどうか、という箇所。いずれにしても公表しないことが最良の警告なわけがない(常識的に考えて)。訳者は英語の構文が読めていない。原文の赤字にしたところ全体が "That meant" の目的語になっているのであって、「つまり最良の警告を世間の人に与えないということだ」が正解。だから直後にそれは "moral question" だと言われることになる。
【訳文】
そして犯人が危険を無視してまでペットをやっつけるようなことはしないのではないかと言った
【原文】
Dr. Bloom doubted that the man could stop attacking the pets, regardless of the risk.
直前の文で、捜査情報を公開すると犯人はリスク回避で犯行の方法を変えるだろうという予測が披露されている。それをうけて、とはいえリスクが増大したとしても、一家虐殺の前にペットを殺す部分については変えないだろうと言っているのがこの部分。邦訳は正反対の意味になっている。
【訳文】
そうしているうちに何かいいアイディアがうかんでくるだろうと思ったのだ。
【原文】
He courted the feeling that precedes an idea.
何か思いつく前に覚えるあの感覚きてくれーということだが邦訳はそこを無視している。
【訳文】
彼が手に入れたい一つの見解があった。なんとも奇妙な見方を共有し、フロリダ・キーズでぬくぬくと何年もすごしたあと、もういちど思考様式を取り戻さなければならなかった。
【原文】
There was an opinion he wanted. A very strange view he needed to share; a mindset he had to recover after his warm round years in the Keys.
邦訳はまともな文になっていなくて意味不明。 "an opinion" と "a very strange view" と "a mindset" は同じことの言い換え。
【訳文】
そしてそのあと看護人に取り押さえられたんですがね。ついでに言うと彼はすこしも抵抗しませんでした……もっとも看護人がそのとき彼の腕をねじあげたので肩の骨を脱臼しましたがね。
【原文】
Here, he is subdued by the attendant. He didn't resist, by the way, though the attendant dislocated his shoulder.
邦訳は「ねじあげた」などと原文にないことを補って看護人がレクターの肩を脱臼させたとしているが、そうではなくて、レクターが抵抗しなかったのに看護人は肩を脱臼したと言っている。レクターがいかに油断ならない人間であるかを強調しているわけ。なお、この文を含む段落は、チルトンが心電図を示しながら「ここで看護人の顔を掴んで、ここで押さえつけられて……」と言うシーンなのだが、邦訳には反映されていない。
【訳文】
チルトンは椅子にもたれかって指さきで顎を支えるようにした。
【原文】
He leaned back in his chair and steepled his fingers under his chin.
これは、両手を指先だけくっつくように合わせて尖塔(steeple)のような形を作っているのだが、邦訳では全然わからない。
【訳文】
「レクターはあなたをよく知ってて、いろんな考えをあなたに与えてくれたわけですね」
【原文】
He's very familiar with you. He's given you a lot of thought.
チルトン「レクターと話したことは?」、グレアム「見たことしかない」に続くチルトンの台詞で、邦訳だと意味不明。 "give A a thought" というのは「Aについて考える」という意味なのだが訳者は知らない模様。「レクターの方はあなたのことをよく知っているようですよ。あなたのことをずいぶん考えているらしい」くらい。
【訳文】
なぜ坐らないんだ、ウィル?
【原文】
Why don't you have a seat, Will?
中学生の答案じゃないんだから。もちろん「座ったらどうだ?」の提案。
【訳文】
ブルーム博士は《臨床精神病理学会誌》に載った、外科手術を受けた結果生じる麻薬常用癖に関するあんたの論文を見せてくれたよ」
【原文】
Dr. Bloom showed me your article on surgical addiction in The Journal of Clinical Psychiatry.
これは手術を受けたくてたまらなくなる「手術依存症」のこと。
【訳文】
ここの連中にいつも病的なことばかり考えてると思われたくないんだ
【原文】
I wouldn't want them to think I was dwelling on anything morbid.
邦訳ではまるで、レクター博士が「思われたくない」から何か遠慮しているかのように読めてしまう。そういうことではない。 "I wouldn't want" と条件法になっているのは、「もし~だとしたらそれはやめてほしいな」というニュアンス。直前にハサミを房内に持ち込ませてくれないから新聞の切り抜きができないという話があり、それをうけて「私が病的なことばかり考えていると思うのはいいかげんやめてほしいものだな」と続くわけだ。直後にレクターは歯を見せて笑うので、これは「とはいえハサミを渡したら大変なことになる」という含意込みの台詞である。
【訳文】
めったにないが、わたしの弁護士が電話をかけてくると、電話機を持ってきてくれることがあるんだ。たいていはインターコムにつないでくれるが、もちろんみんなは聞いている。
【原文】
On the rare occasions when my lawyer calls, they bring me a telephone. They used to patch him through on the intercom, but everyone listened of course.
邦訳は現在形と過去形の使い分けに気づいていない。以前はインターコムでつないでいて会話内容が丸バレだったが、現在は電話機をもってきてくれる、と言っているのである。
【訳文】
《ナショナル・タトラー》に載ったとき、この写真はトリミングされて、グレアムの顔と、石に刻まれた〈精神異常犯罪者治療施設〉という文字だけになっていた。
【原文】
As it turned out, The National Tattler cropped the picture to just Grahams face and the last two words in the stone.
"Baltimore State Hospital for the Criminally Insane" の最後の二文字なので "Criminally Insane" である。グレアムの顔に「異常犯罪者」と添えることで、グレアム自身の精神に問題があるというイメージを与えようとしており、これは第11章に出てくる記事本文と対応している。邦訳のようにやると意味がわからない。
【訳文】
レクターは私用で弁護士と話をする法的な権利が与えられていた。
【原文】
Lecter was entitled by law to speak with his lawyer in privacy
「人に聞かれずに」ということ。精神病院に収容されている人間に公私の区別などない。
【訳文】
グレアムはバーミングハム支局から指令を受けたので、空港から電話で警察に連絡をとった。
【原文】
Graham got directions from the Birmingham field office and checked in with the police by telephone from the airport.
グレアムは単独捜査なので指令を受けたりはしない。これはFBIの支局から「道順を聞いた」。そのうえで、現地警察にも挨拶の電話を入れたということ。
【訳文】
ジャコビの住んでいた家に向かって車を走らせているあいだ、グレアムは冷たい尾を引く陰欝な気分だった。
【原文】
Graham had the flat feeling of a cold trail as he drove out to the Jacobi house.
訳者は "cold trail" を "cold tail" だと思い込んだうえでわからないなりに一生懸命考えた結果「冷たい尾を引く陰欝な気分」なる珍訳でお茶を濁したのであろう……。この "cold" は時間が経って新鮮味が薄れた状態を表す形容詞で、 "trail" =痕跡がそうなっていると感じるがゆえに、殺害現場へと向かっているのに気分が盛り上がらない( "flat" )と言っているのである。次の段落が「事件から一月以上経過した」と始まっているのと対応している部分。
【訳文】
そしてリーズ家とジャコビ家の者はみんながいま生きているとして、今後どういう生活ぶりになったか考えると、グレアムはもうそれ以上バスケットボールを見る気がしなくなった。
【原文】
And with the thought of the Leedses and the Jacobis alive came the thought of how they were afterward, and Graham couldn't watch basketball.
生前の両家の様子を思い浮かべると同時に、その後かれらがどうなったか(=一家惨殺)まで頭に浮かんでしまって、ということ。普通の過去形なので訳者のような解釈は無理。
【訳文】
どれもこれもみんなくぼんでまるくなり、何度か降った雨水が残っていた。
【原文】
All were caved in and rounded, left several rains ago.
足跡の話。形が崩れていることから、つけられてから何度か雨が降ったと判断している箇所。直訳すると「何度か雨が降る前に残された」。邦訳は "ago" を見逃した? それにしても雨水を "several rains" とは言わない。
【訳文】
グレアムはのぼるのにかなり苦労した。
【原文】
It was a hard enough climb for Graham.
これは「降りる」が正解。前段落で、犯人が枝から降りるのは大変ではなかっただろうと予想しているのと対照的な表現。なぜ苦労したのかといえば、この段落で述べられているように犯人の遺留物である空き缶を枝に引っ掛けて持って降りないといけなかったから。
【訳文】
工場から帰宅する途中でダラハイドはボートやキャンピング・カーでよく使われる、水にとけやすいトイレット・ペーパーと、鼻をおおう呼吸器を買った。
彼は枯草熱にかっているのに気分はよかった……大々的な鼻の整形手術を受けた多くの人たちと同様、ダラハイドも鼻毛が↓本もないので、枯草熱に悩まされていたのだ。気管支炎にもかかっていた。
【原文】
On his way home from the plant, Dolarhyde bought toilet paper of the quick-dissolving kind used in boats and campers, and a nasal inhaler.
He felt good despite his hay fever; like many people who have undergone extensive rhinoplasty, Dolarhyde had no hair in his nose and hay fever plagued him. So did upper respiratory infections.
「鼻をおおう呼吸器」のような大袈裟なものではなく、鼻の穴に入れてシュッとやる鼻炎スプレーのこと。また "upper respiratory infections" は「上気道感染」であるが、気管支は下気道なので「気管支炎」ではない。なお「枯草熱」というのは「花粉症」のこと。
【訳文】
自分が神のごとき存在になりつつあることがわかっていたからだ。
【原文】
He knew that he was developing a becoming dignity.
邦訳はおそらく "dignity" を "divinity" に見間違えたのだろう。これは「自分にふさわしい品位が身につきつつあることを自覚していた」くらい。
【訳文】
ウィリアム・ブレイクの筆跡に似ていなくもない黒インクを使ったみごとな銅版彫刻のような字体だ。
【原文】
black ink in a fine copperplate script not unlike William Blakes own handwriting.
これは「カッパープレート体」という筆記体の一種のことを言っているのであって「銅版彫刻のような字体」なる謎の書体ではない。またこの場合の "fine" は「みごとな」ではなく、「字の線が細い」という意味。
【訳文】
ダラハイドはもっとい写真を持っていた……小部屋にある箱から持ってきたものだ。
【原文】
Dolarhyde had a better one, which he fetched from a box in his closet.
邦訳は、あらかじめ持ってきていた写真を今手に持っている、という意味だが、時制を見ればそうではないことがわかる。ここは、もっといいのを所有しているのでそれを取りに行った、という箇所。 "which" の前にコンマがあることにも注目。
【訳文】
破裂する色とりどりの軽気球のようなものだ。
【原文】
Like balloons of color bursting.
「軽気球」というのは空気よりも軽い気体が入っているために宙に浮く気球、要するに普通に言われる「気球」のことである。当然だが気球は破裂などしない。ここで "balloon" と言われてるのはもちろん「ゴム風船」。
【訳文】
彼らの変身が、祈りを捧げながらしがみついている生活より重要なのだということ。
【原文】
That they are more important for the changing, more important than the lives they scrabble after, pleading.
邦訳は意味不明。この "pleading" はダラハイドに殺されかけて「命乞い」をしている様子だろう(この点は次の段落で "screams" と言い換えられていることから明らか)。そうやって死を目前にした被害者が必死でしがみつこうとしている「命」よりも、殺す瞬間の一瞬の光と空気と色と音の方が重要だ、と言っている箇所。
【訳文】
やっと簡単な方法を一つ思いつき、彼はもういちど書いた。
その手紙は読み返してみると、控え目でおずおずしすぎているような気がした。それに〈熱烈なファン〉と署名した。
彼はその署名をするのに五、六分も考えた。
【原文】
Finally a simple way occurred to him and he wrote again.
The letter seemed too diffident and shy when he read it over. He had signed it "Avid Fan."
He brooded over the signature for several minutes.
邦訳は、手紙を書き直し、読み返し、控え目すぎると五、六分悩み、最後に〈熱烈なファン〉と署名した、という時系列になっているが、これは原文の時制が読めていない証拠。基本が過去形の文章で「署名」のところが過去完了になっていることからもわかるように、書き直した時点で署名もしているのであって、特にその署名(「熱烈なファン」)が控え目すぎる気がしたから、書き終えた後で数分間どうしようかなと悩んだのである。
【訳文】
グレアムはカフスについた雑草をつまみ取りながら、エアコンが涼しいのでありがたいと思った。
【原文】
Graham, picking the cockleburs off his cuffs, was grateful for the air conditioning.
「袖口についたオナモミ」。あのトゲトゲの付いた実のこと。
【訳文】
「異常者の暴行と見せかけた動機のある犯罪……この場合は遺産ってことです。
【原文】
A crime with a motive, power in that case, disguised as an insane attack.
「この場合」というのは、この箇所の直前で言及されている、組合内の「権力」争いを動機としたヤブロンスキー事件のこと。邦訳は本作の事件のことだと思って無理に「遺産」としている。
【訳文】
窃盗罪でチノの保護観察院へ送られました。
【原文】
Went to Chino for theft.
「保護観察院」とは何か不明。「保護観察」というのは収監しない処分だから、「保護観察院へ送られ」たりはしない。「チノ」はこの都市の刑務所の別名なので、ふつうに「チノ」もしくは「チノの刑務所」に送られた、としておけばいい。
【訳文】
おれの瑞息を治すのにほんのちょっぴりでいいんだがヤクはないか、おい。
【原文】
Just some stuff for my asthma, man.
大学の学生寮でマリフアナを吸っているところに見ず知らずの人が入ってきたときに、「ヤクはないか」とか訊いたりはしない(原文は疑問文ですらない)。仮に訊くとしても喘息とか言う必要はない。ここは、マリフアナをやっているのをみつかって、「喘息を治すためにちょっとやってるだけだよ」と言い訳しているのである。
【訳文】
彼女はしからはしまで行ったらしい……室内トイレの水を流す音も何度かした。
【原文】
Everywhere she went, commodes flushed.
「彼女が行く先々で、トイレの水を流す音がした」ということ。警察が来たことを知らせて回っているわけだ。
【訳文】
おもてにとめてあるのは、いろんな部品を寄せ集めて組み立てた妙な車が一台、(以下略)
【原文】
The vehicles parked outside were an odd assortment, ...
邦訳は "an odd assortment" を以下に列挙されている様々な車種の一つとして数えているが、そうではなく、ここは「以下に列挙するようなバラバラの寄せ集め」として以下の列挙を総括している言い方。
【訳文】
だけどおやじはぼくが学校へ行く気があるなら、保護観察官のとこへ行くと言った。そして頼んでみるって。
【原文】
He said he'd go custody if I'd go to school. And try.
上で指摘したように、邦訳は発言者(ナイルズ・ジャコビ)が「保護観察院」にいると誤解しているため、それに引きずられている。ここは、「学校へ行く気があるなら面倒を見てやる」くらいの意味。そして二文目はif節の続き。「頑張ってみるんなら」ということ。
【訳文】
ジャコビ家の者たちは持ち物に自分たちの指紋を残す間もほとんどなかったのだ。
【原文】
The Jacobis hardly had time to leave their marks on their possessions.
いや指紋くらいは残るだろう。ここは使用感がないほど新品同然といっているだけ。
【訳文】
アジア研究部の意見では、そのしるしは中国文字で、“当たりだ”ないし“楽勝だ”の意味だ……が、時には賭けごとにも使われる表現で、その場合は“いいてだ”とか“ついている”という合図だと考えられているというのだ。
【原文】
Asian Studies advised that the mark was a Chinese character which meant "You hit it" or "You hit it on the head" —— an expression sometimes used in gambling. It was considered a "positive" or "lucky" sign.
「中」という漢字について述べている箇所。まず "hit it on the head" は金槌で釘を打つときに釘の頭を正確に打つのが原義なので、「楽勝」ではなくて「大当たり」。それで、ダーシでの繋がれ方を見ると、この「当たり」という意味でこの漢字が賭博に使われることがある、と言っているのであって、邦訳の言い方はミスリーディング。 "positive" とか "lucky" というのはそうした用法をまとめて抽象的に表現しているのだから、邦訳のように賭博の現場で発せられる台詞のように訳すのは間違い。また "sign" も「合図」のことではなくて「記号(文字)」の意。
【訳文】
クロフォードはプライスの骨ばった肩に手をかけた。「おい、ジミー。これはあんたしか見つけられないんだがな」
【原文】
Crawford put his hand on Price's bony shoulder. "Hell, Jimmy. If there was one, you'd have found it."
指紋を見つけられなかったジミーに対してクローフォードが言う台詞。邦訳は「もっと頑張ってくれよ」的な感じだが、原文を見ると「もし指紋が付着してたならもう見つけてるさ」、つまり見つからなかったってことはなかったってことだ、という慰めの言葉。
【訳文】
あんたのヘアスタイル、なかなかいいね……よっぽど急いで出かけてきたんだろう
【原文】
I congratulate you on your hairstyle. A brave departure.
この "departure" は「出発」ではなく「逸脱」の意味。「思い切ったね」とか「前衛的だ」とか。
【訳文】
こっちとしたってなんとか情報収集工作だけはしなきゃならんが、残念ながらその工作の方法が今のところわからんのだ。
【原文】
Some way we've got to make the contact work for us, but damn if I know how yet.
この "make" は使役動詞で "the contact" を "work for us" させるという意味なのだが、邦訳はそれが読めず、 "the contact work" をすると読み、しかし何のことか意味がわからなくて「情報収集工作」という雰囲気訳をひねり出している。なお "the contact" というのはダラハイドがレクターに手紙を送ったことを指していて、この展開を捜査に活かしたいと言っているのである。
【訳文】
弁護士にかけてたんだとチルトンに言ってる。なにしろ能率のわるい広域電話局の線のことだから自信はない。
【原文】
He told Chilton he was calling his lawyer. It's a damn WATS line, and I can't be sure.
これは要するに普通の電話回線を使ったから電話の相手や内容を警察が知ることができないと言ってるのだろう(WATSだとそうなのかどうかは私もよくわからないが、直後に専用回線を引いたから今後は大丈夫、と言っているので)。少なくとも能率は関係ない。
【訳文】
これからさきレクターの都合がいいように、病院の交換台にリースした線をつけたから、もう素通りしちまうようなことはないだろう。
【原文】
We got a leased line to the hospital switchboard for Lecter's convenience in the future, so that won't get by us again.
もちろん電話の内容をFBIに知られるのはレクターにとって「都合がいい」わけないのだから、こんな訳し方をしてはいけない。「レクターのために」くらい。また "leased line" は「専用回線」のこと。
【訳文】
クロフォードはドアのところへまっすぐ行くと、ヴェストの札を鍵穴に挿し込んだ。
【原文】
Crawford bellied up to a door and stuck the tag on his vest into the lock slot.
ベストの胸のところにIDタグがついていて、それを解錠用のスロットに挿入した、ということ。「札」とか「鍵穴」と言われてもなんのことやら。
【訳文】
「資料室じゃレクターと君の記事を載せたのは《タトラー》一紙だけだと断言してたよ」とクロフォードは言うと、アルカセルツァーをのむ用意をする。「これ、一部どうだい? 参考になるよ。
【原文】
"The library confirms the Tattler is the only paper that carried a story about Lecter and you," Crawford said, fixing himself an Alka-Seltzer. "Want one of these? Good for you.
邦訳はクローフォードがグレアムに新聞を勧めていると解しているが間違い。頭が痛そうな様子のグレムに、鎮痛剤のアルカセルツァーを勧めているのである。「これ飲むか? 調子が悪そうだ」くらい。
【訳文】
印刷所の主任はチェスターのことを宣伝広告で先手を打とうとしてる不動産屋だと思ってる。
【原文】
The shop foreman thinks Chester's a Realtor trying to get a jump on the ads.
邦訳は意味不明。要するに、新聞に掲載される予定の広告を、印刷前のゲラ段階で先に見せてもらい、ビジネスに活かそうとしている――という体で捜査しているのである。
【訳文】
「神よ、どうか《タトラー》が大騒ぎにならないように」グレアムが祈るように言った。
【原文】
"Please God don't stir the Tattler up," Graham said.
"God" と書いてあるからといって「神よ」と訳したり「祈るように」という原文にない形容を入れるのはいかがなものか(それだと "Oh my God" と出てくるたびに「おお神よ」とか訳さないといけなくなる)。あと「大騒ぎになる」では意味不明。「『タトラー』を変に刺激しなけりゃいいが」くらい。
【訳文】
われわれはあいまいなものを一掃するために、あらゆるもの、あらゆる宣伝広告を手に入れている。
【原文】
We're getting everything, all the classifieds, just to blow some smoke.
邦訳は "blow smoke" という表現を知らないため、煙がかかって見えにくいのを吹き飛ばして見えやすくする、という意味だと考えたようだが、 "blow smoke" は「大袈裟に言う」という意味であって、ここでは「ちょっと大袈裟に言えば、広告と名のつくものなら全て確保している」ということ。
【訳文】
わかりきってるじゃないか……そいつを郵便受けに近づけるようにすることさ。
【原文】
The obvious thing is to try to get him to come to a mail drop.
ダラハイドとレクターの連絡方法がわかれば罠を仕掛けられるが、どんな罠を仕掛ければいいかという箇所。この "obvious" は「見え透いた」の意味で、「見え見えのやり方としては」と、まずは否定されるべき方法を言っているだけ。実際すぐ後で「そんなのにひっかかるわけないよな」と否定されている。
【訳文】
こっちは遠くから眺めることができる場所がごく限られた郵便受けを選んで、見張りを立てる地点をきめることができる。
【原文】
We could pick a drop that could be watched from only a few places a long way off and stake out the observation points.
邦訳は何を言っているのかよくわからない。原文を見ると、遠くから眺めることのできる場所が限られた数しかない、そういう地点を犯人をおびき寄せる場所に設定し、その限られた数の「遠くから眺めることのできる場所」に捜査員を張り込ませる、と言っている。
【訳文】
ゼラーのオフィスへ行ってみよう。あそこのオフィスはここより広くて、こんなにわびしくない。
【原文】
Let's go up to Zeller's office. It's bigger and not so gray.
これは「この部屋ほどグレーじゃない」と塗装の色のことを言っているのである。邦訳だと上巻234頁でクローフォードが新しいオフィスは業者が戦艦を塗った余りのペンキで塗ったのさと皮肉を言っているのに対応する箇所。
【訳文】
さきを下にして、キャップをせずに筆立てか小さな缶に立てとったのかもしれん……これでデスクの様子がわかる。
【原文】
It might have been stored point-down and uncapped in a pencil jar or canister, which suggests a desk situation.
これは「デスクの様子がわかる」と言っているのではなく、「デスクで書かれたと考えられる」ということ。
【訳文】
この広告を出さなければいられない者の苦痛と絶望にわれを忘れ、彼はビヴァリー・カッツに声をかけられてはじめて、ほかの広告を見ていなかったことに気づいた。
【原文】
Lost in the pain and desperation of the ads, he didn't notice that the others were leaving until Beverly Katz spoke to him.
邦訳のように読むのは無理。「他の者たちが席を立とうとしているのに気づいた」ということ。
【訳文】
となると〈噛みつき魔〉の注意を“あなたの署名”ではじまる第二の伝言に向けるってわけさ。
【原文】
It directs the Tooth Fairy to a second message that begins with your signature.
FBIが犯人を誘き出すために偽のメッセージを二通、新聞の広告欄に載せようと画策しているところ。邦訳は前文までの工作でこの文の効果が導かれるかのように書いているが間違い。そうではなく、第一のメッセージの中に「あなたの署名で始まる第二のメッセージを見よ」という内容の文言を具体的に入れる、という工作の一環である。「署名」が何だったか( "Avid Fan" )は犯人とレクターしか知らないため、この方法が効果的なのである。
【訳文】
グレアムは何も持っていない両手をひろげてみせた。
【原文】
Graham showed him an empty hand.
「片手」。
【訳文】
レクターを拷問にかけたらどうだ? 精神病院じゃ確か薬物で……。
【原文】
What about sweating Lecter? In a mental hospital I would think drugs ——
自白剤を使うという提案なのだから「拷問」ではない。「レクターから聞き出せないか?」くらい。
【訳文】
彼は後でもういちどその新聞を見て、第一面のあたらしいインクで自分の親指が汚れたことを思い出すだろうが、それは何年もあと、FBI本部の見学で特別陳列物のあいだを子供たちを連れ歩く時のことになるはずだ。
【原文】
He would see that paper again and remember his thumb smudge on the front page, but it would be years later, when he took his children through the special exhibits on a tour of FBI headquarters.
展示された新聞を見て「そういえばあのとき親指が汚れたなあ」と思い出すのではない。展示された新聞に親指の跡が付いているのを見て、「あ、これはあの時のだ!」と思い出すのである(そして連れてきた子供たちに「これ父さんの指の跡なんだぞ」と自慢するのだろう)。
【訳文】
部屋の中は暗く、妻の肉づきのいい尻が彼のウェストのくびれた部分に気持ちよく押し当てられているのがわかった。
【原文】
He saw the room dark, felt his wifes ample bottom comfortably settled against the small of his back.
おっさんのウエストがくびれてるわけない……。これは背中の、尻の上のへこんだ部分のこと。
【訳文】
ては打ってあるから……おれが話すあいだ電話のそばを離れるな
【原文】
I've taken care of it, so stay on the phone when I tell you.
「電話を切るな」
【訳文】
ホッブズのことや、その事件のあとあなたがどんな立場に立ったか、レクターのことや……何もかもね。
【原文】
About Hobbs, the place you were after that, Lecter, everything.
この "place" は「立場」ではなく、具体的な「場所」。精神病棟に入れられたことを指している。
【訳文】
彼女は、まるで受話器が手の中で死んだかのように、ソーッともとに戻した。
【原文】
She held the receiver as though it had died in her hand.
受話器を置いたのではなく、そのまま持っているのである。
【訳文】
あいつはしがみついてる女房を踊り場へ引きずり出して、ナイフで何度も何度も突き刺した。彼女がこときれるのを見さだめ、部屋の中から悲鳴が聞こえると、血まみれでぬるぬるのまっ赤な女房の指をもぎ離し、肩をドアにぶっつけるようにして中へ入った。
【原文】
He left out Mrs. Hobbs on the landing clutching at him, stabbed so many times. Seeing she was gone, hearing the screaming from the apartment, prying the slick red fingers off and cracking his shoulder before the door gave in.
第一文。邦訳は主語の "He" を犯人のホッブズと誤解したことで無理な訳し方をしている。この主語はグレアム。 "stabbed" はホッブズ主語の過去形ではなく、ホッブズの妻を形容する過去分詞。 "left out" はホッブズが「引きずり出した」のではなく、グレアムが「外に放置した」のである。つまり、「グレアムはめった刺しの状態で自分にしがみつくホッブズの妻を踊り場に残したまま部屋に向かった」くらい。
第二文も邦訳は主語をホッブズだと誤解しているが、これも第一文の続きでグレアムが主語。ホッブズはめった刺しにした妻をドアの外に放り出した後でドアに鍵をかけたのだろう。グレアムはホッブズの妻が死ぬのを確認し、さらに部屋の中から悲鳴がしたので、肩で体当りしてドアをぶち壊したのである。
【訳文】
わたしはうちの仕入れさきの人たちがくるので、すくなくとも一日か二日はマラソンへ戻らなけりゃならないわ。
【原文】
But I've got to go back to Marathon, at least for a day or two when my buyers come.
仕入先の人( "sellers" )が来るのではなく、仕入れを担当する人( "buyers" )が来るのである。
【訳文】
その男の方が射撃場を使わせてくれと言ったときに見せた司法省発行の身分証明書には、〈調査官〉と記載してあった。
【原文】
The Justice Department credentials the man showed when he asked to use the range said "Investigator."
司法省発行の身分証明書というのは FBI (Federal Bureau of Investigation) すなわち「連邦捜査局」の身分証であって、 "Investigator" とは「捜査官」のこと。
【訳文】
それにしても彼はこの連邦政府の役人が拳銃の撃ち方を心得ていることは認めざるを得なかった。
【原文】
Still, he had to admit the fed knew what he was doing.
これはFBI(に所属している人間)のことなので、「連邦政府の役人」では広すぎる。邦訳278頁にも「連邦政府の役人にしては妙な武器だ」という訳文が出てくるが、「連邦政府の役人」のほとんどは武器など使わないのであって、ここも「FBIにしては」としなければならない。
【訳文】
二人の男女は二二口径のリヴォルヴァーしか使っていなかったが、男は女に、左足をやや前へ出し、両腕を同じように緊張させ、両手でしっかりと拳銃のグリップを握るウィーヴァー式の構えで、実戦射撃のこつを教えていた。
【原文】
They were only using a .22-caliber revolver but he was teaching the woman combat shooting from the Weaver stance, left foot slightly forward, a good two-handed grip on the revolver with isometric tension in the arms.
邦訳は "isometric tension" がわからないので雰囲気訳にしている。これは「等尺性緊張」と訳される術語で、筋の長さを一定に保ったままで筋肉を緊張させることをいう。ウィーヴァースタンスの場合は、引き金を引く利き手(文中では右手)を前方に押し出し、サポートする方の手(文中では左手)を自分の体の方へ引きつけるように(つまり左右で逆方向に)力を込める。これにより、両腕の筋肉が固定された状態で緊張し構えが安定するのである。邦訳のように「同じように緊張させ」るのではこうした効果は得られない。
【訳文】
管理人は弾丸が軽い標的に命中するたびに、標的のがくっがくっとするのがわかった。
【原文】
The rangemaster recognized the pop of the light target loads.
命中するたびに「がくっがくっ」とする標的は不良品だろう。 "light target loads" というのは弾薬のこと。ターゲット射撃用の装薬量の少ない弾で、その特有の「パン、パン」という発砲音を射撃練習場の管理人がききわけた、と言っているのである。
【訳文】
管理人はスピードローダーで弾丸を装填しやすくするためにグリップがけずられているのではないかと思った。
【原文】
He suspected it was throated for the speed-loader.
まず、「グリップ」はこの直前の文で "grips" と複数形で出てくるので "it" では受けられない。この "it" は明らかに銃(リヴォルヴァー)そのもののこと。それが "throated" だというのは――この解釈も完全には正確でないかもしれないが――おそらく弾倉の内壁を削って少し直径を広げているということではないかと思う。スピードローダーとは、六つの弾薬を弾倉と同じ形に円形に並べてあるものを弾倉に落としこむことで一動作で装填を終える道具。一つずつ手で押し込むのではないため、スムーズにやるには穴の方の直径をちょっと拡げておくほうがいいということかと思う――が違うかもしれない。いずれにしても、邦訳のように、グリップ(これは銃の持ち手の左右に付いている滑り止めのこと)が削られていると装填がしやすくなるというのは意味不明。
【訳文】
ショルダーバッグから拳銃を抜いて最初の一発を撃つのに四秒くらいかかったが、十点式の円形標的には三発命中している。
【原文】
True, it took her maybe four seconds to get the first one off, coming up from the bag, but three were in the X ring.
標的全体で三発しか当たっていないのでは次の文で「才能がある」とは言えないだろう。正しくは、同心円が描いてある円形標的の中心に「X」のマークがあり、それを囲む一番内側の円のことを "X ring" と呼ぶ。その内側に三発命中させているということ。
【訳文】
管理人は人間を型どった一つの標的を倒すのにグレイザー弾を五発も使うなんて、どういう気なんだろうと思った。
【原文】
The rangemaster wondered what in Gods name they saw in the silhouette that it would take five Glasers to kill.
邦訳は練習している二人の正気を疑うような書き方だが違う。管理人は二人がFBIであることは知っているので、一発でほぼ確実に即死させることのできるグレイザー弾を五発も撃たなければ殺せないような犯人とは何者なのだろう、と思ったのである。
【訳文】
ミスタ・ピルグリムとはいったい何者だろう?……レクターではない――それにはクロフォードも確信があった。
【原文】
Who was Mr. Pilgrim? Not Lecter — Crawford had made sure of that.
電話をかけてきた相手が誰かという話。FBIが「確信」で動いてどうする。もちろんクローフォードは、レクターが収容されている精神病院に、その時間レクターが電話を使っていないことを「確認」したのである。
【訳文】
グレアムは防音仕様になった電話ボックスのあけ放したドアのところに立っていた。
【原文】
Graham stood in the open doorway of a soundproof booth.
FBIの建物の部屋の中に「電話ボックス」があるの? これは「遮音室」としておけばいいところ。
【訳文】
彼女のデスクとその横のもう一つのデスクは、声紋スペクトログラフや、テープレコーダーや、アクセント鑑別器であらかた一杯だ……ビヴァリー・カッツは自分の椅子に坐っていたが、サラは何かせずにおれなかった。
【原文】
With the voiceprint spectrograph, tape recorders, and stress evaluator taking up most of her desk and another table beside it, and Beverly Katz sitting in her chair, Sarah needed something to do.
「アクセント鑑別器」って何? ここの "stress evaluator" は "Psychological Stress Evaluator (PSE)" のことで、要するに声に出る心理的なストレスを感知する一種の嘘発見器。
【訳文】
三人ともポケットに手を突っこんだまま、横一列に並んでいる。
【原文】
They had adopted a sidelines stance, hands in their pockets.
"sidelines stance" は傍観者的なスタンスのこと。犯人から電話がかかってくるというのでみんなが準備に大忙しの中、この三人はポケットに手を突っ込んで手持ち無沙汰なのである。
【訳文】
いいかね、これは景気のいいおしゃべりでもなけりゃ、ばか話でもなく、あんたがあいつをすばやくとっつかまえるチャンスなんだ。
【原文】
Listen, this is not a pep talk or any bullshit; you can take him over the jumps.
邦訳は「これ」を「犯人から電話がかかってくるこの機会」と解しているが間違い。この「これ」は、セミコロンの次の台詞のこと。「励ましとかそういうんじゃないんだが」と断ってから次の台詞を言っているわけ。
そしてセミコロンの後の "you can take him over the jumps" だが、邦訳はこの表現がわからないために苦し紛れの雰囲気訳にしている。この "take sb over the jumps" は直接には乗馬で、「馬に障害を飛び越えさせる」ということ。それが転じて「うまく操る」くらいの意味になっている。グレアムはこれからかかってくる電話でうまく犯人を調子づかせて逆探知の時間稼ぎをしなければならない。そういう意味で犯人を「操る」必要があるわけだ。発言者のブルームはそれを踏まえて「君ならできる」と励ましているのである。
【訳文】
ては二つしかない……キーズの君の家で張り込みをするのと、郵便受けとだ。
【原文】
That would give us two baits, a stakeout at your house in the Keys and the drop.
「二つしかない」のではなく、ある作戦を採用すれば餌を二つ用意できる(だからいい作戦だ)、と言っているのである。
【訳文】
クロフォードがはげますように領いてみせる……相手の気が変わるようなことは言うなという合図だ。
【原文】
Crawford nodded encouragement.
Don't tell him anything that he could change.
まず、頷いただけで邦訳にあるような複雑な内容を伝えられるわけがない。クローフォードは励ましただけである。原文は改行してあり、他の箇所でもそうだが、イタリックになっているのはグレアムの内心の声である。
さらに、「相手の気が変わるようなことは言うな」は間違い。「相手が[犯行に際して]変更可能なことは言うな」である。この箇所でグレアムは、犯人から「犯人について知っていることを言ってみろ」と言われている。犯行に関して犯人が変更可能なことを言ってしまえば(つまりそれをFBIが掴んでいることが犯人にばれてしまえば)、次回から犯人はその点を変えて犯行に及ぶため捜査がやりにくくなる。だからこの直後でグレアムは「白人である」とか「身長は―」とか、犯人が変更できないことを言っているのである。
【訳文】
胸のポケットに身分証明書が入ってる。それで納得がいくだろう。
【原文】
You'll find my ID in my breast pocket. That tickles.
ポケットを探られて「くすぐったいだろ」と言っているのだが、邦訳がなぜこうしているのか不明。
【訳文】
広告編集上のこと、配達されてくる郵便物の調査など、何もかもだ。
【原文】
Ads, editorial, monitoring incoming mail, anything.
「広告編集」ではなく、「広告、社説」。
【訳文】
ラウンズには人に注目されたいという猪突猛進的なところがあったが、よく自惚れ屋だと誤解された。
【原文】
In Lounds was the longing need to be noticed that is often miscalled ego.
「猪突猛進」ってそういう意味じゃないよねと思うがそれはともかくとして。邦訳はラウンズが誤解された、としているが間違い。「注目されたいという強い願望」が「しばしば“エゴ”という誤った名称で呼ばれる」のである。過去形が基本の文章でここだけ現在形になっていることにも注意。
【訳文】
この書き取りはフレディが勤めている新聞社の古参の記者たちにとっては日常の仕事だった。
【原文】
Dictation was the glue factory for old reporters on the paper where Freddy worked.
"glue factory" は膠工場。走れなくなった馬を殺処分して膠にするイメージ。会社で言うと窓際族みたいなニュアンスだが、邦訳はそうした感じが全然出ていない。
【訳文】
死にかけている人たちの身内の者たちは、[略]傍若無人に猛威をふるう癌と戦おうとして疲れ果て、さんざん神に祈りを捧げるが、前途に何の希望も見出せないのだ。
【原文】
The relatives of the dying, worn out, prayed out, trying to fight a raging carcinoma [...] are desperate for anything hopeful.
「ちょっとでも希望がありそうなら何にでもすがろうとする」ということ。だからこそ癌の記事は内容がトンデモでも金になるという話につながる。邦訳は意味が正反対。
【訳文】
フレディがこの方式を思いつき、その記事は《タトラー》を売りまくった。
【原文】
Freddy earned his money turning them out, and the stories sold a lot of Tattlers.
方式を思いついたのではなく、「記事を粗製濫造して荒稼ぎした」のである。
【訳文】
読者が増えた上に、奇跡の大型メダルや癌治療服といった副産物までがいろいろと売り出された。
【原文】
In addition to increased readership, there were many spinoff sales of miracle medallions and healing cloths.
"clothes" ではなく "cloths" なので「布」。
【訳文】
そのおかげで自分の気に入ったことはたいていやったし、楽しく過ごそうとしてその金を使った。
【原文】
He covered pretty much what he pleased and spent the money trying to have a good time.
「書きたい記事があればほぼ自由に書けた」くらい。
【訳文】
壁の地面から三十センチほどのところに、個人用の駐車場所だということを示す〈フレデリック・ラウンズ氏〉という名前が書いてある。
【原文】
There on the wall was his name in letters a foot high, marking his private spot. Mr. Frederick Lounds.
文字そのものの高さ(縦の長さ)が1フィート(30cm)なのであって、位置の高さではない。
【訳文】
この長い年月のあいだに彼女がラウンズを見て、おどろきの色を見せたことは一度もない。が、いま彼女が見た彼は体を震わせていた。
【原文】
She looked at Lounds with eyes that had not registered surprise in years. She saw that he was trembling.
邦訳は今まで驚いた顔をしなかった彼女が初めて驚いたと解釈しているがそうではない。ラウンズが身震いしているのを、彼女はそれまで同様冷静な目で見ているのである。
【訳文】
彼女の首に押しつけた拳骨のように堅い表情をしていたラウンズの顔も、ようやくほころび、拳骨をひらくのと同じように表情が動きだした。
【原文】
Lounds's face, like a fist pressed against her neck, relaxed at last, became mobile as suddenly as a fist becomes a hand.
邦訳はラウンズが拳骨を彼女の首に押し付けていると解しているが、それでは暴力である。 "a fist pressed against her neck" に "like" がついているのではなく、 "like a fist" と "pressed against her neck" がどちらも "Lounds's face" を形容しているのである。(険しい顔を首に押し付けていてそれが突然緩むというのは、要するに正常位でセックスしていて射精したということだろう。明示的には書かれていないが。)
【訳文】
そして彼女の盛りあがった胸のとがった乳首にささやきながら、何もかも打ち明けた。
【原文】
He told her all about it, whispering into the buck jut of her augmented breasts.
まず "augmented breasts" は単に「盛りあがった胸」ではなく、豊胸手術をした胸。また邦訳は "the buck jut" を「とがった乳首」としているが "breasts" が複数なのだから乳首も複数でなければおかしい。したがって "the buck jut" は "her augmented breasts" の言い換えと読むべき。
【訳文】
彼が従来のような偏執的精神病患者なら、彼を刺激して怒らせ、正体を曝露させることができるかもしれんが。
【原文】
If he were a classic paranoid schizophrenic, you might be able to influence him to blow up and become visible.
専門家が専門用語で話しているのだから「典型的な妄想型分裂病」とすべき。
【訳文】
あのちびのフレディとは手を切ったんだろう。
【原文】
You and little Freddy have cut a deal.
「手を切った」のではなく「手を組んだ」のである。 "cut" とあるからと言って「切る」と訳せばいいものではない。
【訳文】
ブルーム博士は〈噛みつき魔〉の犯行と手紙は、この仇名が不適当だという腹いせの気持ちを示すものだ[略]と言った。
【原文】
Dr. Bloom said the Tooth Fairy's acts and his letter indicated a projective delusional scheme which compensated for intolerable feelings of inadequacy.
原文には仇名への言及はない。「耐え難い劣等感を埋め合わせる投射性の妄想」という抽象的な表現。
【訳文】
彼はグレアムの拳銃が通常の三八口径じゃないのを見てほっとしたが、構えた銃身からあがる発射炎が気になった。
【原文】
He was relieved to see that Graham did not carry the regulation .38, but he worried about the flash from the ported barrel.
"ported barrel" は銃身の上部に開けた穴から発砲時にガスを逃すことで反動を抑える「マズルブレーキ」を施した銃身のこと。邦訳だと上巻278頁にグレアムがその種の銃を使っていることが書かれている。
【訳文】
モリーは家に入りこんだ異常者が重々しい足音をたてて部屋から部屋を歩いている夢を見た。
【原文】
Molly dreamed of heavy crazy footsteps coming in a house of changing rooms.
邦訳は "of changing rooms" を「部屋から部屋を」としているが文法的に無理。 "a house of changing rooms" で、「更衣室(ロッカールーム)ばかりが入った建物」のことだろう。
【訳文】
ほとんどの新聞売場と同様、この売場もチェーン店の一つで、普通の雑誌や新聞もひっくるめて、店のあるじは一定以上の売り上げがなければならない。
【原文】
Like many newsstands, this one is owned by a chain and, along with the standard magazines and papers, the operator is required to take a certain amount of trash.
普通の(standard)に加えてゴミみたいなの(trash)も店に並べないといけない、と言っているのである。 "along with" に「ひっくるめて」の意味はないし "trash" に「売り上げ」の意味はない。もちろんゴミ新聞の典型が『タトラー』である。なお、チェーン店だと言っているのだから「店のあるじ」はおかしい。バイトだろう。
【訳文】
新聞を毎日運んでくる男たちは新聞を整理する仕事を手伝ってはくれない。
【原文】
The day guys never did their share of straightening.
場面は夜10時であり、新聞の売店整理しているのは夜番(遅番)の担当者。「昼番の連中は本来やるべき整理の仕事を決してやらない」ということ。
【訳文】
彼が振り返ろうとしたとき、角材が彼の耳をぶんなぐった。
【原文】
He was turning, had half-turned when the flat sap thocked over his ear.
「フラットサップ」とは「スラッパー」とも呼ばれる殴打用の小型武器の名称。「角材」ではない。
【訳文】
後頭部から足のつまさきまでガムテープで椅子に縛りつけられているからだ。
【原文】
From the back of his head to the soles of his feet he was bonded to the chair with epoxy glue.
ラウンズは車椅子に乗せられているのだが、後頭部から足の裏まで、要するに椅子と接する面を接着剤で固定されているのである。ガムテープではないし、そもそも「後頭部を縛りつける」というのが日本語としておかしい。
【訳文】
もし自分であけなけりゃ、テープでまぶたを額に貼りつけるぞ。
【原文】
If you won't open them yourself, I'll staple your eyelids to your forehead.
まぶたを額にホッチキスで留めるぞと言っているのである。テープでは全然怖くないではないか。
【訳文】
おれの行動は、偉大なゲストスターの行動がそうであるように、熱心にたどられ、記録されてる。一〇五四年のゲストスターが誰か、あんたは知ってるか? もちろん知らないだろう。
【原文】
My movements are followed and recorded as avidly as those of a mighty guest star. Do you know about the guest star in 1054? Of course not.
邦訳は「ゲストスター」を人だと(つまりゲスト出演するスター芸能人のことだと)誤って思い込んでいるため意味不明の珍訳になっている。 "guest star" は天文学用語で「客星」のことであり、「1054年の客星」とは超新星「SN 1054」のことである。ダラハイドはこういう高等な知識を知らんだろうこの愚民めがとラウンズに迫っているわけだが、それに訳者がついていけてないのではお話にならない。
【訳文】
ナメクジが自分でつけた粘液の跡をたどって巣へ帰るように、あんたの中身のない脳とジャガイモづらに話を戻そう。
【原文】
Back to your shallow skull and potato face as a slug follows his own slime back home.
これは直前の文で "tired loops of reason" と言ったのでその補足。ナメクジの比喩は、ダラハイドがラウンズとその記事の読者について使っているものなので、「ナメクジのように(ダラハイドが)話を戻す」というのはおかしい。ラウンズの記事などナメクジの這った跡にすぎず、読者はそれを指でなぞっていって、またラウンズの頭に戻るだけであり、ダラハイドの崇高な目的については何一つ知ることがない、という感じのことを言っているのである。
【訳文】
あんたなんか偉大なるべき存在にとっては屋外便所なのに、なんにもわかっちやおらん。
【原文】
You are privy to a great Becoming and you recognize nothing.
邦訳は "privy" を名詞(屋外便所)と解しているがそれなら "a privy" となっているはず。これは形容詞で "privy to sth" で、「秘密など(sth)のごく近いところに迫っている」ということ。いままさにダラハイドを目の前にしながらその偉大さにまったく気づかないこの愚民めと言って非難しているのである。
【訳文】
わたしだって理解してもらいたいよ。
【原文】
I want to understand.
ダラハイドに「理解」するための手助けをしてやると言われた直後の台詞。もちろん「私だって理解したいんだ」が正解。 "I want to be understood" とか "I want you to understand me" ではない。
【訳文】
目隠しは彼の鼻までおおっていないので、ダラハイドの指さきが口をおおっている猿ぐつわを調べているのが見えた。
【原文】
The blindfold was tented across his nose and he could see Dolarhydes fingers checking the crusted gag.
まず "crusted gag" を「口をおおっている猿ぐつわ」とは訳せない。 "crust" を「覆う」と解しても、覆われているのは「猿ぐつわ」である。おそらく古くなって表面にひび割れができている猿ぐつわ(ギャグ)という感じだろう。
次に、目隠しが鼻まで覆っていなければ何も見えないはずだ(目隠しなんだから)。そうではなく、目隠しが目だけでなく鼻にもかかっているからこそ、目隠しの布と鼻梁との間に空隙ができ、そこから口元でギャグをチェックしているダラハイドの指が見える、と言っているのである。
【訳文】
ダラハイドは、ゴミ収集車と駐車中のトラックの間の、かげになったゴミの散らかったわずかばかりの隙聞に車椅子をとめた。
【原文】
Dolarhyde stopped the wheelchair in a bit of littered shelter between a garbage Dumpster and a parked truck.
邦訳はでかい車が二台並んでいるその隙間と解しているが間違い。 "Dumpster" というのはゴミ箱の商標である(米国映画によく出る、直方体で蓋の部分がちょっと斜めになっている大型のゴミ箱)。ゴミ収集車が無人で路上にとまっているわけないので(常識的に考えて)、邦訳のように解するとダラハイドは作業中のゴミ収集員に見つかる危険を犯したことになるがもちろんそんなわけない。
【訳文】
そしてサッと毛布をはぎ取ると、魔法瓶の栓を抜いた。
【原文】
He whipped off the blanket and opened the thermos.
邦訳は魔法瓶がほんとに瓶で口に栓がしてあると思っているようだが、もちろん魔法瓶(水筒)の蓋はくるくる回して開けるのである。
【訳文】
ガソリンの匂いがしたのでラウンズは思わず体が緊張し、前腕の下の皮膚が肘かけから浮いて、頑丈な車椅子がきしむ音を立てた。
【原文】
Lounds strained hard when he smelled the gasoline, separating the skin from under his forearms and making the stout chair groan.
上でも指摘したように、邦訳はラウンズの体が車椅子に接着剤で貼り付けられていることを理解していないのでこの部分も正しく読めていない。「前腕の下の皮膚が肘かけから浮いた」のであればそれは「腕が肘かけから浮いた」だけであって皮膚とか言う必要はない。そうではなく、接着剤で貼り付けられているのに無理に腕を浮かせたため、前腕の下の皮膚が剥がれたのである。