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2014年9月13日土曜日

ルーマン邦訳「社会システムのオートポイエーシス」誤訳箇所メモ




以下、多少のミスリーディングな表現は無視し、明らかに間違っているところのみ指摘しているので、網羅的ではありません。



【訳文】

問題は、われわれの調査研究の「もつれた」「ヒエラルキー」という疑わしいものへのアプローチを用いていることにあるかもしれない。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,7頁
【原文】

The problem may well be that we use a questionable approach to the problem, "tangling" our "hierarchies" of investigation.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 1

邦訳は文法が読めていない雰囲気訳。「きっと問題へのアプローチの仕方がおかしくて研究の「ヒエラルキー」を「もつれ」させてしまっていることこそが問題なのだろう」くらい。


【訳文】

こういった仕方で、オートポイエーシスと生命の密接な関係とを保っておくことができるだろうし、またこの概念を心的システムおよび社会システムに同様に適用することができよう


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,7頁
【原文】

In this way we can retain the close relation of autopoiesis and life and apply this concept to psychic systems and to social systems as well.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 1

邦訳は「あれもできるしこれもできる」的に訳しているが間違い。「あれとこれが同時にできる」というニュアンスであることは文脈上明らか。つまり、「こう考えれば、オートポイエーシスと生命の密接な関係を保持したままで、この概念を心的システムと社会システムにも適用することが可能になる」ということ。


【訳文】

われわれは、こうすることが義務づけられ、またわれわれの概念的アプローチによって義務づけられているのである。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,7頁
【原文】

We are almost forced to do it, forced by our conceptual approach.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 1

邦訳は日本語になっていない。ここでは「また」でつながれるような二つのことが書かれているわけではないし、「義務」の問題でもない。「これはほとんど不可抗力である。というのも我々は自らの概念的アプローチ自体によってそうせざるをえないからである」くらい。


【訳文】

しかしながら、心的ならびに社会的システム――その再生産は、同一のシステムの同一の構成要素により、オートポイエティックなシステムという統一体を回帰的に定義する――の「構成要素」がなんであるか綿密に定義する際、ただちに困難に突き当たる。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,7頁
【原文】

However, we immediately get into trouble in precisely defining what the "components" of psychic and social systems are whose reproduction by the same components of the same system recursively defines the autopoietic unity of the system.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 1

邦訳は英文も読めていないしオートポイエーシスが何であるかも理解していない。 "whose" の先行詞は(邦訳は "psychic and social systems" だと誤解しているが) "components" である。オートポイエーシスは、あるシステムの要素が同一のシステムの要素によって再生産されることによるシステム単位の創発であるということを理解していないと正しく訳すのは難しい。すなわち、「[オートポイエーシスだというなら]同一のシステムの同種の構成要素による構成要素の再生産が、そのシステムのオートポイエーシス単位を再帰的に定義するのでなければならないが、では心的システムや社会システムの場合その「構成素」は何であるかという点を詰めようとすると、我々は途端に困難に行き当たってしまう」ということ。


【訳文】

また、心的システムおよび社会システムの場合、われわれの理論的アプローチが、心理学的および社会学的現実をも包括する(?)生命体の細胞、神経生理学上のシステム、免疫システム等々といったものを含むことを要求するのであれば、「閉鎖性」とは、なにを意味するものだろうか。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,7-8頁
【原文】

And what does "closure" mean in the case of psychic and social systems if our theoretical approach requires the inclusion of cells, neurophysiological systems, immune systems, etc. of living bodies into the encompassing (?) psychological or sociological realities?


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 1

邦訳は何が何を包括する(含む)のかの理解が正反対。心理学的/社会学的現実が、生体の細胞、神経生理学的システム、免疫システムその他を包括するのであって逆ではない。すなわち、「心理学的現実や社会学的現実に、生体の細胞や神経生理学的システムや免疫システムが包括(?)されるということが、我々の採用する理論的アプローチそのものによって要請されるのだとしたら、はたして心的システムや社会システムの場合に「閉鎖」とは何を意味することになるのか」ということ。

もちろんここでいう「アプローチ」とは、「社会にも心理にも生命が必要であり、かつ生命はオートポイエーシスであるから、したがって社会や心理もオートポイエーシスだ」という考え方のこと。


【訳文】

さらに、これがオートポイエティックなシステムの自己再生産の様式として生命に結びつけられるならば、オートポイエーシスの理論は、脳と機械、物理システムと社会システム、全体社会と短期の相互行為を包含する一般システム理論のレベルに到達することはない。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,8頁
【原文】

Moreover, tied to life as a mode of self-reproduction of autopoietic systems, the theory of autopoiesis does not really attain the level of general systems theory which includes brains and machines, psychic systems and social systems, societies and short-term interactions.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 1

邦訳は「これ」が何を指すのか不明なのと、「これ=自己再生産の様式」と解しているのが間違い。 "tied" の主語は "the theory of autopoiesis" であり、それが自己再生産の一様式にすぎない生命に結びついたままでは一般理論にはなれないと言っているのである。あと邦訳は "psychic systems" を "physical systems" と見間違えている。

すなわち、「さらに、オートポイエティックシステムの自己再生産の一様式にすぎない生命に結び付けられたままでは、オートポイエーシスの理論が、脳と機械、心的システムと社会システム、社会と短期的相互行為をすべて含む一般システム理論の水準に到達することはない」。


【訳文】

もし、生命を抽象化して、オートポイエーシスを自己言及的閉鎖性を用いたシステム形成の一般的形式だと定義するならば


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,8頁
【原文】

If we abstract from life and define autopoiesis as a general form of system building using self-referential closure,


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 2

「生命を抽象化」するのではなくて「生命を捨象」する、つまり定義から「生命」にしか妥当しない特殊な要素を取り除くのである。訳文としては「生命よりもっと抽象的に」とかでもいいだろう。


【訳文】

生命に実質を与えているオートポイエティック組織の一般的諸原理が、他の様式における循環性と自己再生産においても存在すること


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,8頁
【原文】

there are general principles of autopoietic organization that materialize as life, but also in other modes of circularity and self-reproduction.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 2

オートポイエーシスは形式なので、それが「生命に実質を与え」るのではない。邦訳の書き方だと、生命に固有の原理が他のシステムにおいても働いているという(ルーマンが否定しようとしている)説のように読める。

正しくは、「オートポイエティックな組織化には一般的原理が存在し、それは生命として実現することもあるが、その他の循環性および自己再生産の様式において実現することもある」。


【訳文】

心理学の理論および社会学の理論はこの要求に答えられるよう展開されなければならず


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,9頁
【原文】

On the one hand, then, a psychological and sociological theory have to be developed that meet these requirements.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 2

邦訳だと、心理学の理論または社会学の理論という一つのものがすでにあって、それをヴァージョンアップさせろと言っているように読めるが、少し違う。「心理学でも社会学でも、この要求に答えられるような理論を一つつくらないといけない」ということである。他のがあってもよいが、少なくとも一つはこの要求を満たすものが必要だと言っているのである。


【訳文】

その際、オートポイエティック・システムは、同一性と差異性の構成という点で、統治者といえよう。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,10頁
【原文】

Autopoietic systems, then, are sovereign with respect to the constitution of identities and differences.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 3

訳者の語彙不足によるズッコケ訳。もちろんこの "sovereign" は「至高」ということで、それより上の審級がないということ。


【訳文】

このシステムは、たとえば、人間生活が、水が流動する温度の一定の短い時間を必要としているように、他のリアリティのレベルといったものを必要としている。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,10頁
【原文】

They presuppose other levels of reality, as for example human life presupposes the small span of temperature in which water is liquid.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 3

「水が流動する温度の一定の短い時間」――詩的言語のレベルに達しているといっても過言ではない意味不明訳。もちろんここで言っているのは、「温度変化の幅が、水が液体にとどまる程度の狭い範囲に限られる」ということ。文字通りには摂氏0度から100度。そうでないと飲めなくて人間が生きていけないからだが、実際にはもっと幅は狭いだろう。


【訳文】

いい換えれば、このシステムは、外部世界から同一性と差異性を取り入れることはできず、自己自身を決定しなければならないことに関する形式である


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,10頁
【原文】

In other words, they cannot import identities and differences from the outer world; these are forms about which they have to decide themselves.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 3

セミコロンの後の部分だが、ここは何重にも間違えている。まず主語の "these" を邦訳は「このシステム」としているが間違いで、正しくは「同一性と差異性」が主語である。次に邦訳は "about which" 以下が関係節であることが見えていない。また "decide themselves" を「自己を決定する」と読んでいるが正しくは「自ら決定する」である。

当該部分、正しくは、「同一性と差異性は、システムが自ら決定しなければならない形式なのである」。


【訳文】

情報、伝達そして理解、それらはシステムの――システムにとって独立して存在することのできない――局面であり、


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,11頁
【原文】

Information, utterance, and understanding are aspects that for the system cannot exist independently of the system;


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 3

邦訳は最後の "of the system" がthat節をはさんで "aspects" にくっついていると読んでいるがそんな英語はない。 "independent of A" は「Aから独立」と読むのである。というわけで正しくは、「そのシステムにとって、そのシステムから独立しては存在しえない局面」。


【訳文】

[情報は]選択として、他のものと比較されて(つまり、他に生起しうるであろうことと比較されて)、システム自身によって生産されるのである。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,11頁
【原文】

As selection it is produced by the system itself in comparison with something else (e.g., in comparison with something that could have happened).


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 4

まず、 "e.g." は「つまり」ではなく「例えば」。次に "could have happened" は「生起しうるであろう」ではなく「(実際には生起しなかったが)生起しえた」である。


【訳文】

それ[=情報・伝達・理解の綜合としてのコミュニケーション]は、そのオートポイエティックな作業をただシステムの要素として遂行するにすぎない作動上の単位としては分解不可能である。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,12頁
【原文】

As an operating unit it is undecomposable, doing its autopoietic work only as an element of the system.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 4

邦訳が意味不明なのは "doing" 以下が前の部分の理由を述べているという構造が読めていないから。「要素である」ならば「分解不可能である」という含意関係が前提にあることを念頭に置く必要あり。正しくは、「それ[=コミュニケーション]は作動単位としては分解不可能である。オートポイエーシスにおいて、作動は当該システムの要素としてしかなされないからである」。


【訳文】

それら[=後続の単位]は、さしあたり分解不可能であって、情報に関するさらなる情報を求めて、まえのコミュニケーションの内容をまず参照する。あるいは、コミュニケーションについて、その伝達に焦点を合わせて、「いかに」また「なぜ」ということを問うことができる。それらは、第一に他者言及を、第二に他者言及性を押し進めようとする。


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,12頁
【原文】

They can, being themselves undecomposable for the moment, refer primarily to the content of previous communications, asking for further information about the information; or they can question the "how" and the "why" of the communication, focussing on its utterance. In the first case, they will pursue hetero-referentiality, in the second case self-referentiality.


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 4

いちいち指摘するのが面倒なので正しい訳だけ。「後続の単位は、それが生じる瞬間においてそれ自身は分解不可能だが、得られた情報について追加情報を求めるときには主として先行のコミュニケーションの内容を参照することができるし、また先行コミュニケーションについて「どのように」とか「なぜ」と問う場合にはその伝達に照準する。前者の場合が他者言及性、後者の場合が自己言及性である」。


【訳文】

それ自身に言及することで、過程は情報と伝達を区別しなければならず、


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,12頁
【原文】

Referring to itself, the process has to distinguish information and utterance


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 4

すぐ後で、自己言及とは他者言及と自己言及の区別への言及であると結論づけられているのだから、邦訳のように自己言及が情報と伝達の区別の手段であるかのように訳すのは間違い。正しくは「コミュニケーション過程が自己を参照できるためには情報と伝達の区別が必要であり」。


【訳文】

自分自身に言及するということ(auto-referentiality)は、一値のものとして理解されるかもしれず、また二値をともなった論理によってのみ記述されるかもしれない


土方透/大澤善信(訳),「社会システムのオートポイエーシス」,
自己言及性について』,国文社,12頁
【原文】

auto-referentiality could be seen as a one-value thing and could be described by a logic with two values only


Niklas Luhmann, "The Autopoiesis of Social Systems,"
Essays on Self-Reference, Columbia University Press, p. 4

"could" を「かもしれない」と訳すのはやめよう(「やろうと思えばできる」のニュアンス)。また、この邦訳は全般に "only" の読解が怪しく、ここも「たった二値だけの論理によって」が正解。あと、ギュンターの「術語」として出てくる "auto-referentiality" の訳語が「自分自身に言及するということ」では全然術語になっておらず、訳文では自己言及(self-reference)と区別がつかない。

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