このブログを検索

2012年1月13日金曜日

【私訳】ヨハネウムの生徒としてのニクラス・ルーマン

リューネブルク時代、つまり大学入学前のルーマンについてはあまり知られていないと思うので、以下の文章を訳出しました。非常に詳しくてためになります。原文はこちら






ヨハネウムの生徒としてのニクラス・ルーマン

2002年12月8日に、ニクラス・ルーマンは生誕75周年を迎えた。これを記念して、2002年12月6日から8日にかけて、リューネブルク大学で『ニクラス・ルーマンと文化理論』と題する会議が催された。国内外から一堂に会した名立たるルーマニアンたちが報告を行う中で、ヨハネウムは「ヨハネウム・リューネブルク校の生徒としてのニクラス・ルーマン」と題する展示を行った。


ニクラス・ルーマンは1927年12月8日にリューネブルクで生まれ、1937年の復活祭の日に、9歳でヨハネウムの生徒としてギムナジウムに入学してきた。そのため最初はラテン語の授業を受けることになった。ニクラスは入学時にすでに1学年飛び級していたので、結局基礎学校には3年在学しただけで卒業を迎えた。1406年創建のヨハネウムは当時、1870年から72年にかけて建てられたハーゲ通りの端の建物にあった。これは現在では市中心部の基幹学校とオリエンテーション段階の建物になっている。ルーマン家はリューネブルクの旧家で、港湾地区にあった。ニクラス・ルーマンの父ヴィルヘルム・ルーマンは、そこで小規模なビール醸造所兼麦芽製造所を経営しており、母親の方はスイスのホテル経営者の娘だった。現在その建物には古書店「プリニアーナ」と、飲食店「ポンス」が入っている。

ニクラスの家からギムナジウムまでは600メートルほどだったため、通学は楽だった。ルーマンがヨハネウムに入学した1937年というのは、民族社会主義の狂気がその数年前から忍び寄ってきている時代だった。ルーマン家は民族社会主義からは距離をとり、これを拒絶していた。ニクラスの父はもともと経済リベラルな人だったため、社会民主主義にも民族社会主義にも反対しており、権力者が交代した1933年以降は、様々な困難を抱えることになった(Detlef Horster, 1997, Niklas Luhmann, Beck-Verlag, p. 25 ff.)。

幼少期から少年期まで、ニクラス・ルーマンは夏期休暇をスイスで過ごした。彼はそこで、当時のドイツでは望ましくないと考えられていた政治的見解を学んでいた。たとえば彼は反フランコで、そのためヨハネウムの教師は彼の政治的見解を問題視し、父親が学校に呼び出されたりもした。ニクラス・ルーマンの児童期のことについては、これ以外にはあまり知られていない。飛び級で入学したため、同級生たちはみな1926年生まれでニクラスが一番年下だったが、授業に熱心に参加する様子はよく目立っていた。

民族社会主義による権力掌握と統制の網は、ヨハネウムもまたこれを免れなかった(以下の記述は、“Kantelhardt, Adolf: Das Johanneum zu Lüneburg,” in: Festschrift zum 550-jährigen Bestehen des Johanneums, Lüneburg 1956, S. 38 ffによる)。1935年以降は、14歳から18歳までの全生徒がヒトラー少年団(HJ)に、10歳から13歳までの全生徒が少国民(ドイツ少年団、DJ)に入隊させられることになった。教師も、NSLB(民族社会主義教員連盟)かNSV(民族社会主義国民福祉局)のいずれかに所属させられた。かねて毎週始めには朝の礼拝の時間があったのだが、これに代えて、校庭での党旗掲揚か、民族社会主義式の朝礼が行われるようになった。

党の命令による学外活動(ヒトラー少年団のキャンプ等)のため授業は大幅に阻碍され、生徒の成績は悪化した。これは、民族社会主義党によって任命されたヨハネウムの校長ですら、認めざるを得ないほどだった。民族社会主義党は、高等学校の8年制を導入した。これはつまり、高等学校の、ひいてはギムナジウムの修了年限を1年短縮したということである。また卒業のために必要な口答試験に、生物学が義務化された。これは生物学こそが、民族社会主義党の人種学教化の場だったからである。その他、歴史や国語といった学科でも、民族社会主義党の指針に沿ったイデオロギー的な学習計画が採用された。ただし、実際の授業の進め方についてはまだ個々の教師の裁量に委ねられてはいた。それも1939年に第二次世界大戦が始まると、規則に沿った授業進行が厳しく求められるようになった。正規の卒業試験が行われたのは1942年が最後でこのときの卒業生は7名であった。それ以外の生徒は、卒業試験を待たずして徴兵されていったからである。

1943年の徴兵名簿などを見ると、当時のヨハネウムの住所は「Gauleiter-Telschow-Wall 1」となっている。リューネブルクは1937年に、それまでのハールブルクに代わって東ハノーファの「ガウ首都」に指定され、1937年以降、シースグラーベン通りの屋敷に民族社会主義党のガウ長テルショフが住んでいた。これはルーマンの家から約200メートルのところにあった。1939年から45年の間、ヨハネウムに直接通じるハーゲ通りと、フリーデン通りを合わせて、「Gauleiter-Telschow-Wall」と呼称したのだった。

1943年になると、1926年から1927年生まれの高学年の生徒に、空軍補助員として働くことが義務づけられた。1943年4月1日には、まだ15歳のニクラス・ルーマンも、1歳年上の同級生(ギムナジウム第6学年)たちと一緒に、空軍補助員としての適性検査を受けることになった。結果は合格(tauglich)だった(画像で「tgl」と書いてあるのがそれ)。「検査済生徒名簿」を見ると、誕生日が1926年12月8日とタイプ印字で誤記されているのを、手書きで1927年と訂正しているのがわかる。生徒たちはリューネブルク空軍基地の高射砲部隊の補助員となったが、ローテンブルクやシュターデにも派遣された。空軍補助員には日給0.50ライヒスマルクが支給され、衣食住が提供された。

服務規程には、空軍補助員は軍人と見なされるべきこと、生徒は十分な睡眠をとる必要があることが定められていたが、実際には、生徒も高射砲部隊に夜間配備され、それで疲れきっているのが現実だった。これに加えて「義務心得」があり、ニクラス・ルーマンもこれを暗唱させられたはずである。ギムナジウムの授業は、空軍補助員にとってもヨハネウムの教員にとっても困難な状況ではあったが、なお続けられてはいた。教員は毎日リューネブルクの郊外にある空軍基地に出動しなければならなかったし、生徒は生徒で、警報と戦闘に常時備えていなければならず、またひっきりなしに駐屯地が替わる(ローテンブルク、シュターデ)ので、これも大きな負担だった。駐屯地が替わると、そのつど違う教師の授業を受けなければならなかったからである。

1週間の授業時間数は6日間で平均18時間しかなかった。1日3時間である。ある報告書で、担任教師が戦闘準備による休講と地理学教師の不在について苦情を申し立てている。高射砲補助員の指揮所は何度も攻撃を受けた。生徒たちは給食の不足を訴え、担任教師だったグリースバッハは生徒たちを率いて不服の申し立てを行ったが、その内容はどちらかというとまだ陳腐なものだった。「バターの代わりにマーガリンが出ることが週に3回はある」。空軍補助員用の学習計画は、特に生物、歴史、国語の3教科において、民族社会主義のイデオロギーによって決められたものが用意された。たとえば生物なら「民族と人種」とか「文化民族の衰退の生物学的原因」、国語なら「ゲルマン的世界観の基本性質」、歴史なら「総統国家の本質」とか「第二次世界大戦の意味」と題した授業が義務づけられた。ラテン語ですら、「カエサル」講読の授業で「ゲルマンの章」を重視せよとされていた(“Lehrplan für Luftwaffenhelfer,” Archiv des Johanneumsによる)。とはいえ、ニクラス・ルーマンのいたクラスでは、教員不足のために1944年以降生物の授業は行われなかった。

ニクラス・ルーマンの空軍補助員経験は、さぞや劇的で恐ろしいものだったと想像されるが、これについて彼は自分で語っていることはそんなにない。一例としては、墜落した英国機の操縦士が格納庫で背後から射殺されて倒れている死体を見たと述べている(Horster 前掲書 p. 27)。(この書き方だと、ルーマンはある戦争犯罪の間接的証人であるように読めるが、歴史的背景が定かでない以上、そう確言することはできない。)1944年5月には大空襲がこの地を襲った。ルーマンはこれをローテンブルクで体験したはずである。この空襲についてはかつての国民的サッカー選手フリッツ・ヴァルターの文章を引くべきだろう。彼は1943年8月から1944年5月にかけて、サッカー好きの戦闘機乗りだったグラーフ少佐の飛行編隊に所属する地上勤務員としてイェーファとローテンブルクに駐屯し、その傍らサッカーの試合にも出ていた。

何よりも恐ろしかったのがサイレンの音だ。兵士たちは宿舎や作業場から駆け出して塹壕の中に飛び込む。事務所で一緒に働いていた空軍補助員の女の子たちも、原始的な防空壕に駆け込んだ。爆撃機の飛ぶ低音がどんどん近づいてくる。我々は塹壕の中から、それがまっすぐこちらに向かってくるのを見ているだけだ。爆弾格納部の扉が開いて、我々に死をもたらすその中身が降下してくるのがはっきりと見え、その数瞬間、心臓の鼓動が完全に停まる。その直後、恐ろしい爆発とともに地面が振動する。泥が噴水のように天を衝き、それがまた地面に降り注ぐ。ああ世界の終わりが来たんだと思う。2分か3分の間、その地獄は続いた。高射砲はまだ火を噴いていたし、速射砲は射程いっぱいまで対空砲火を続けていたが、爆撃機はすでに離脱した後だ。・・・・・・飛行場は爆弾のせいでそこらじゅう穴だらけだ。整備場は鉄骨とコンクリートの廃墟のようになっているし、格納庫も壊滅状態、宿舎も倒壊していた。何一つ形の残っているものはなく、すべてがばらばらだった。・・・・・・しかし一番恐ろしかったのは、負傷者や瀕死の人たちが助けを呼ぶ声だった。結局この攻撃によって200名の死者が出たのだった。・・・

Walter, Fritz: 11 rote Jäger, Nationalspieler im Kriege, Copress-Verlag München 1959 S. 112 ff.

(この文献は、オットー・グローシュプフ氏にご紹介いただいたものである。)

1944年9月30日、第8学年が始まってすぐに、ニクラス・ルーマンは国家労働奉仕団入団のために卒業することになったが、卒業試験はまだだった。生徒たちが受け取ったのは、「卒業するに十分な能力を有する」旨が明記された卒業証書であったが、これは1945年以降には無効になってしまうことになる。1944年末、ルーマンは国防軍に召集され、短期間の射撃訓練を受けた。1945年初めに、ルーマンは南ドイツの前線に送られ、ハイルブロンで米軍との激しい戦闘と爆撃に参加した。彼は1943年にはすでに敗戦は確実だと悟っていたため、生き延びることだけを考えていた。隣にいた戦友が手榴弾で吹き飛ぶという経験も避けられなかった。1945年の春、彼は米軍の捕虜となった。とはいえ17歳の少年にとって、そのときはまだ米軍が真の解放者であるとは思えなかった。腕時計を没収された上、尋問の間中、理由もなく殴られ続けたからである。これはジュネーヴ条約に背く処遇であった。(Niklas Luhmann, Archimedes und Wir, Berlin 1987, p. 129)

ルーマンは最初、ルートヴィヒスハーフェン近郊のライナウエンにある大きな捕虜収容所に勾留された。ここでは大体1000人単位で捕虜が組織化されていたが、そのどこでも毎日少なくとも1人の死者が出ていた。その原因の大半は疲労と消耗であった。終戦直前になって、捕虜たちはマルセイユ郊外の労働収容所に移管されることになった。フランスに対する賠償として労働が課せられたのである。結局ルーマンは1945年に捕虜収容所から釈放された。彼がまだ18歳未満、つまり未成年だったからである。

ヨハネウムは戦争末期の1944年8月5日以降、野戦病院となっており、授業はヴィルヘルム・ラーベ校で行われていたが、その後1945年1月になると、全市が宿舎として提供されるようになった。ヨハネウムの蔵書と持ち運び可能な財産は、別の場所に避難しておいたし、ヨハネウム自体は爆撃を受けなかったのだが、1945年5月の初頭に不注意からリューネブルクの手前にあった煉瓦製造場で焼却してしまった。戦後もヨハネウムに残った生木の机は、「ロシア原産」という出自を自ずから示していた。この机は野戦病院の備品としてロシアから持ってこられたものだからである。

ニクラス・ルーマンも復学し、生徒の間で「1406年からずっと使われている」と揶揄されていたぼろぼろの椅子に、再び座ることになった。「臨時卒業証書」は戦後は無効とされたため、ニクラス・ルーマンを含む、第8学年を修了していない復員学生に対して、2回の補講が組まれることになった。第1回は、1945年10月から1946年の復活祭までの期間で、これには137名が出席し、このうち卒業試験に合格したのはたった53名だった。ニクラス・ルーマンもそのうちの一人である。試験は、国語、ラテン語、ギリシャ語の3科目だった。2回目は1946年の5月から12月までで、これには72名が出席し(そのうちの多くは1回目の落第生である)、このうちの35名が合格した。この2回目の受講者には、ヨハネウムの卒業生のうちでもきわめて有名な人物が含まれていた。最近亡くなったクラウス・フォン・アムスベルク王子である。

以上の戦争体験は、ルーマンのその後の経歴と彼のシステム理論に明らかな影響を与えている。彼は諸所で、法律を勉強することに決めたのは、「人々が生きるカオスの中で秩序を形成する可能性」という希望に導かれたからだと述べている(1998年11月6日の死の直前にヴォルフガング・ハーゲンが行ったインタヴュー。Wolfgang Hagen (ed.), Warum haben Sie keinen Fernseher, Herr Luhmann?, Kulturverlag Kadmos, 2004, p. 17)。A. コショルケとC. ヴィスマンはさらに進んで、秩序を形成しようという動機は、ルーマンのシステム理論が成立するにあたっての、個人史上の根本的発想だと考えている(Hagen前掲書p. 11)。さらに補足して次のように言えるだろう。戦争を生き抜いた人がいる一方でそれができなかった人もいるというこの偶然の経験もまた、ルーマン理論のもう一つの要素である偶然性の概念に刻印されているのではないだろうか。

ヨハネウムでの教育について、後年ルーマンは好意的に評価している。特に挙がっているのが、ギリシア語とラテン語の授業で、これらの授業では扱われるテクストの内容についての議論も含まれていた(Horster 前掲書29頁、Hagen前掲編著20頁)。他方で、古代語の意義についてルーマンは、生徒の「学習能力」が「知識の複雑性に対して越えることのできない限界を画す」と述べていて、この箇所などは懐疑的な考えをもつようになったとも読める(Luhmann, Niklas: Die Wissenschaft der Gesellschaft, 3版602頁[邦訳644頁])。ルーマンの読書熱は当時の同級生たちからも恐れられていた。これをその時代の過酷さからの逃避だとみなすことは可能ではあるが、それよりもむしろ、主として歴史に興味をもっていた当時の埋もれた才能を示すものだと考えるべきだろう。

最後に、当時の同級生2人から、ニクラス・ルーマンについてのコメントをいただいたので、それでこの文章を締めくくることにしよう。

ニクラス・ルーマンとはギムナジウムの同級生でした。つまり、我々は2人ともまずラテン語から習ったんです(そこが、英語から習い始める「オーバーシューレ」とは違うところです)。ニクラス・ルーマンは優等生でした。勤勉で、どんな科目でも良い成績を収めていました。当時から目立っていたのはその読書熱で、私の印象では、脳神経の限界ぎりぎりまで本ばかり読んでいるように思えました。その後、1943年に我々は空軍補助員となったのですが、ニクラスはその時代を実に不愉快に感じていました。好きな読書ができなくなったからです。我々はリューネブルク、シュターデ、ローテンブルクで空軍補助員として動員されました。リューネブルクでは、ヨハネウムの見知った教師が特別に空軍基地まで出張授業に来ていたのですが、ローテンブルクとシュターデでは東プロイセンから来た、知らない教師の授業を受けさせられました。夜中に警報が鳴ると、次の日の1限目の授業が休講になったのですが、特に1944年にはそういうことが週に2、3回はありました。ところで、ニクラス・ルーマンも一緒に体験したローテンブルク飛行場への大空襲については、すでにドイツの国民的サッカー選手であるフリッツ・ヴァルターが自伝に書いています。

(オットー・グロシュプフ、元ハノーファー上級行政裁判所長。2002年12月3日、筆者との電話インタヴューにて。)


ルーマンはギムナジウムの生徒でしたが、私や私の友人たちはオーバーシューレに通っていましたから、その頃はあまり接触はありませんでした。それが1943年に、私とルーマンそれぞれが所属するクラスの生徒が、同じ高射砲部隊に空軍補助員として召集されることになったのです。1944年の秋までのあいだ、我々はリューネブルク、ローテンブルク、シュターデの飛行場に動員されました。ルーマンは感じがよく友好的でしたが、特に目立つような存在ではありませんでした。当時の私は、彼がその後こんなふうになるなんて夢にも思いませんでした・・・

(ギュンター・ヴィルケ、工学士。現在は引退してリューネブルク在住。2002年11月1日付の筆者宛書簡)

ゲアハルト・グロムビク

0 件のコメント:

コメントを投稿