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2011年12月24日土曜日

ハーヴァード大学社会学部と社会関係学部


佐藤俊樹『社会学の方法』228頁にこうある。

マートンを大学院に受け入れたのはパーソンズではなく、ピリティム・ソローキンだ。ソローキンはボリシェヴイキ革命でロシアを追われ、ハーヴァード大学に迎えられた。パーソンズとは犬猿の仲で、社会関係学部の初代主任教授だったソローキンがパーソンズの昇進に頑強に反対したことはよく知られている。

しかし太字のところは間違いなので以下に訂正しておく。

最初のはただの誤記。ソローキンは Pitirim Sorokin だから「ピリティム」じゃなくて「ピティリム」。

2つめはもう少し重要な事実の間違い。ソローキンは1931年に創設された「社会学部」(Department of Sociology)の初代学部長でパーソンズの昇進に反対したのは事実だが、「社会関係学部」(Department of Social Relations)は、すでに大学のなかで勢力を増したパーソンズ自身が1946年に創設した学際学部で、創設から10年間パーソンズが学部長を務めている。もちろんソローキンは社会関係学部のメンバーではない。

どちらもただの誤記だと言えばそれまでだが、この本は伝記的事実を結構重視しており(それゆえ面白いのだが)、また「社会関係学部といえばパーソンズ」というのはパーソニアン的には基本中の基本なので、細かい点ではあるが指摘しておく次第。

2011年12月23日金曜日

【私訳】 Social Systems 英訳者の謝辞


ルーマンの Soziale Systeme の英訳版 Social Systems に掲載されている、英訳者 John Bednarz, Jr. による謝辞(617頁)を訳してみました。

本書の翻訳に当たっては、たくさんの方々に、いろいろな形でたいへんお世話になった。心からお礼申し上げたい。

まずはこのプロジェクトを可能にするために各方面で骨を折ってくれた方々に。ビーレフェルト大学社会学部のクラウス・ダンマン、ハンスユルゲン・アンドレス、ラインハルト・ザムゾンの三氏、ならびにラトガーズ大学計算機情報サーヴィスセンターのウォレン・マイヤー氏には、コンピュータの設備や図書館の利用許可をいただいた。またジルケ・シーアマイアー氏の根気よい技術指導にも感謝したい。プロジェクトが円滑に進み、私個人の持ち出しも少なくてすんだのは、各氏の援助があったればこそである。

訳文作成作業それ自体に対しては、ハンブルク大学のディートリッヒ・シュヴァニッツ、ビーレフェルト大学のディルク・ベッカー、ノースウェスタン大学のトマス・マッカーシーの三氏が、不明箇所に助言をくれた。とはいえ、最も感謝すべきは、訳文を作成する中で最も直接的な助言をくれた二人の人物に対してであろう。一人はニクラス・ルーマンである。ルーマン氏は、激烈な多忙にもかかわらず、いつも時間を作っては私の質問に答えてくれた。もう一人はルーマン氏の助手のアンドレ・キーザーリング氏である。氏の真面目さ、そして本書の内容と英語についての該博な知識のおかげで、本来すこぶる大変なはずの翻訳作業がずいぶんと楽になったと思う。この翻訳が成功しているとすれば、それは私一人の頑張りによるものではなく、上に挙げさせていただいた各氏の協力の賜物であることを、ここに記しておきたい。

この英訳本は Translated by John Bednarz, Jr. With Dirk Baecker となっているわけですが、こうしてみるとベッカー以外にもいろんな人が携わっていたのがわかります。

少年ニクラス・ルーマンの勉強

Detlef Horster の Niklas Luhmann より、 Horster によるインタビューの部分の抜粋(28-29頁)。ちょっと訳がかたいですが・・・

ホルスター

あなたの読者はみんな、あなたが持っている一般教養の堅固さに瞠目しています。それはどこで身につけられたのですか。ご家庭ですか、それとも学校でしょうか。あるいは……。

ルーマン

家庭でというのはあまりないですね。母方も父方も、教育のある家系ではありませんでしたから。だから勉強については親から受け継いだものというのはありません。教師とか法律家とか医者とかならそういうのもあるんでしょうが。父は私に、経済関係については、強い興味を抱かせました。確か8歳のときだったと思いますが、私は父が新聞を読んでいるのを見つけました。何を読んでいるのかと思って、私は父の背後に寄っていきました。父が読んでいたのは、紙面いっぱいの数字でした。何を読んでいるのかと聞くと、父は「株式相場だよ」と答えました。なぜそんなものを読むのかと聞くと、父は「相場は嘘を吐かないからね」と答えました。それ以上は何も教えてくれませんでした。そこで私は、嘘を吐かないのは相場だけであとは全部嘘なのかとか、それについて父はどう考えているのか、と一人で考えました。

うちにも本棚はありましたが、たいした本は揃っていませんでした。リューネブルクにはよい市立図書館がありました。私はそこでかなりたくさんの本を読みましたし、また学校での教育も当然優れたものでした。ラテン語もギリシャ語も習いました。ラテン語の授業は毎日あり、たとえばリウィウスを2頁予習してくるという宿題が毎日出され、学校ではそのテクストについて議論しました。

ホルスター

独学への関心はどのように出てきたのですか。

ルーマン

よく覚えていませんね。いつの間にか芽生えてきたんでしょうね。始まりを見つけるのは難しいのです。ナチの少年誌 Die Jugendburg を読んでいましたら、ネアンデルタール人とか、全身毛むくじゃらの人間の話が載っていました。別の頁にはアダムとエヴァの話が載っていました。そこで私はこの点について解明しようとしました。もともと私は歴史的な関心が強かったんですね。

2011年12月22日木曜日

【私訳】ニクラス・ルーマン「行政学における機能概念」(1958)

Niklas Luhmann, Der Funktionsbegriff in der Verwaltungswissenschaft, Verwaltungsarchiv 49 (1958), S. 97-105.

概念というのは、正しいか正しくないかを論じるものではない。概念について論じることに何か意義があるとしたら、それは、その概念の使い方をちゃんと決めることであり、そうやって決めた使い方を貫いていくとどうなるかを明らかにすることである。その概念が出てきたときに、誰にでもすぐにその意味がわかるためには、論理的に正しく制御できる使用法というのが必要なのであって、そのためにはまずその使用法を決めておかなければならない。

さて、そこで機能[関数](Funktion)概念であるが、この概念には、論理学や数学で使われているのを除けば、上で述べたような意味での明確さがまったくない。特にひどいのが行政学である。用法がもうばらばらで、あるときには目的が、あるときには課題が、あるときには必要な手段が、あるときには存立前提が、すべて「機能」と呼ばれるし、学者の用法と、その対象である組織の中の人のあいだで使い方が違っていたりする。ある人は、機能とは抽象的な関係を指す概念だといい、別の人はいや現実の関係だという。いやいや関係それ自体を指すんじゃなくて、考えるべきなのは機能と行為その他との関係なんだと言い出す人までいる。なぜこんなにいろんなものが「機能」という一つの言葉で表現されてしまうのかといえば、ひとつにはこの概念が論理学や数学で使われているので、なんか専門用語っぽい感じがするからだし、もうひとつには昔にはなかった言葉だからなんか近代的でいいなあと感じるからである。要するに、響きがいいのだ。機能とさえ呼んでおけば、その対象がなんかかっこよくなったような気がするという文学的効果である。

ところが困ったことに、社会科学が数学から拝借しているのは言葉のかっこよさだけで、内容までは受け継げていないのだ。社会科学での機能概念は、もともとは生物学由来の機能概念を独自に発展させたもので、上位単位が存続するに必要な原因のことをいう。ここでいう上位単位としては、有機体、文化、社会、組織といったものが考えられる。

一般社会学の水準で Talcott Parsons が強調していることだが(1)、機能概念には、機能の宛先となる上位単位の決め方に応じて、二つの用法が可能である。同じことが行政学でもいえる。まず、「組織目標のシステム」を上位単位とすることにしよう。つまりここでは、上位単位となるのは組織のイデオロギーだ。さてこの場合には、この組織目標と、それを達成するのに必要な手段とのあいだの関係が、機能と呼ばれることになる。機能概念の用法としては、まあこれが普通だといっておいてよいだろう。これに対して、上位単位を組織の存立として概念化することもある。するとこちらの場合には、人々のあいだの協働が継続するために必要となる経験的な条件が、機能と呼ばれることになる。成員の意欲とか、組織内体制がどういうふうになっているかについての共通了解とか、良好な環境といったものが挙げられるだろう。最近こちらの方の用法を採用する人が多い(2)のは、そうすることでイデオロギーに縛られない自由な行政学が約束された気分になれるからだろうか。

  • (1) Parsonsの著作に加えてMerton [1957]; Levy [1952]; Dahrendorf [1955] を参照せよ。
  • (2) たとえばSelznick [1948]; Selznick [1949]; Gouldner [1955a: 24 ff.]; Gouldner [1955b] を参照せよ。組織の存続に対して意味があるということを、経験的に(!)実証しなければならないという問題があるのが、この理論の難しいところだ。

さて、両者に共通しているのは、なんらかの上位単位に対する道具的な関係、因果的な関係を機能と呼んでいることだが、それだけではまだよくわからないのは、それで何か言ったことになるのか、ということだ。たとえば財務官の職務のことを、財務官が充足している「機能」と呼ぶ。はたして、これに何の意味があるのだろう(ただ職務といえばいいのでは?(3)。あるいは、公務員の年功序列制には、つねに出世の途上にあるという感覚を抱かせることによって現状を甘受させるという「機能」がある、という言い方をして、それにいったい何の意味があるのだろう。こういう言い方をするときに、機能という思考法はどんな働きをしているのだろうか。つまり、機能が充足している機能とは何か。

  • (3) Nordsieck [1955: 36, 113] は、機能を、職務と人間との関係、と定義し、そう定義することで機能と職務を区別することができると考えている(Nordsieck [1955: 38])。しかし、これは形式的な区別を超えるものではない。

「生物学的」な機能概念を使っているかぎり、この問いにはいつまでたっても答えることはできない。この問いに答えるためには、数学化した学問と数学化していない学問とを区別していたのではだめである。数学者と社会科学者のどちらもが満足できるような、基礎概念としての機能概念が必要だ。

そのために必要なのは十分な抽象性だ。そして、その条件に合う機能[関数]概念をもっているのが、ほかならぬ論理学である。論理学者にいわせると、機能[関数]に固有の性質とはその多義性だという(4)。もちろんただの多義性ではなく、統制的な多義性だ。機能[関数]とは変数間の関係である。そして変数とは機能[関数]規則にしたがって互いに交換可能な代入値を表す記号のことである。それゆえ機能[関数]とはこれらの記号の間の関係のことである。機能[関数]「 x は青い」の x には、「空」、「海」、「スミレ」等々を、その機能[関数]の真理値を変更することなく代入することができる。他方、「爆発」や「美徳」を代入することはできない。何が代入値として許され、何が許されないかは、この機能[関数]が属する言語の意味論規則によって定められているわけだ。

  • (4) たとえばRussell and Whitehead [1932: 57 ff.] がそのように述べている。この考え方を最初に定式化したのは Gottlob Frege で、彼は機能[関数]に独自な本質は補完の必要性だと述べている。Frege [1891]; Frege [1893: vol. 1, 5 ff.] を参照せよ。

「青い」という点で、空、海、スミレは、機能的[関数的]に等価である。この点から統制的多義性ということの意味を捉え直してみるならば、機能[関数]というのは、複数の可能性の等価性を統制するための図式だ、といえるだろう。ある可能性が別の可能性と等価であるかどうかは、機能[関数]図式にもとづいて決まり、またそれらの可能性が互いに交換可能となるのは、この機能[関数]に関してだけなのだ。空、海、スミレのあいだには、「青い」という以外に共通点はない。機能的[関数的]等価性というのは、特定のパースペクティヴから見たときにだけ成立するような性質なのであって、つまり特定の意味連関を前提にしなければ成立しない。等価である、という判断は、この意味連関に関わる側面だけをみて下され、そのとき他のすべての側面は無視されることになる。

だから機能[関数]というのは、具体的な存在者のすべての側面を完全に捉えきってしまうものではなく(5)、等価である、とか、交換可能である、といった判断を可能にする一面的な観点を設定するものにすぎない。それゆえ、機能の機能とは、パースペクティヴを一つ定め、それを参照点として、複数の可能性のあいだの交換を統制することだ、といえる。さて、以上の考察で、機能概念を、我々の目的に適した形で定義することができるようになった。こうだ。機能とは、y が、x (いわゆる変数)の等価性を判断するための観点(つまり変数 x を変数たらしめる観点)として働く場合に成立する、x から y への関係のことである(6)。この定義の x のところに「行為」を、y のところに「職務」を、それぞれ代入すれば、行政学の分野に応用することのできる機能概念ができあがる。

  • (5) この点で機能[関数]は、目的論的決定論とは本質的に異なるのだが、残念ながら両者が混同されることは少なくない。最近ではJanne [1954] がこの混同を犯している。またBredemeier [1955]のように、機能分析を二つの類型に区別したところで十分ではない。目的論と機能主義とでは、考え方の前提が違うのである。目的論は、真の目的というものがあって、何が起こるかはこの目的によって決まっている、という前提を置いている。しかし、近代的な解釈では、真理というのは間主観的な確実性のことだと考えるので、そうなると、もはや真の目的などといったものを想定することはできない。そこで、用済みとなった目的論にかわって登場したのが、機能概念なのである。機能は物事を決定するものではなく、異なる可能性の間の等価性を統制するだけである。存在しているからにはそれは不可避である、などという言い方は、もう通用しないのである。
  • (6) x が y の機能[関数]であり、かつ y が x の機能[関数]であるような、機能[関数]方程式のより複雑な事例(反転可能ないし対称的な関係)については、ここでは論じない。行為(=非対称的な因果関係)を対象とする行政学にとっては、そうした事例はとりあえずあまり意味がないと考えられるからである。ただし Simon [1957: 10 ff.] は、必ずしもそうとは言い切れないことを示す興味深い考察を展開している。

ともかく、ある対象を機能によって同定するとき、その対象は本質的に代替可能・交換可能となる。つまり、同じ(あるいはそれ以上の!)働きをする他の対象に(心臓をポンプに、宗教を穏やかな社会風土に)置き換えることが可能になる。だから、機能とはまさしく、新しい可能性を発見せよ、という命令なのだ(7)。機能的な思考法には革命的な効果があって、直観的な日常世界の崩壊を導く、などといわれる(8)のはこのためである。機能的に考えるとは、直観によって捉えられた類似性の枠外にまで比較の領域を拡げ、最も有効な選択肢を選び出すための可能性の範囲を拡張するということなのだ。これは数学的自然科学でも、社会科学でも、さらには行政それ自体の内部でも同じである。潜在的可能性が拡がると、好きなときに好きな可能性を利用できる保証が増す。そうすると、自然与件からおしつけられてくる偶然的要因や、無制御な変化に対して、機能的システムの独立性が高まる。A嬢はもちろん比類のない存在であるが、速記タイピストとしての機能においては、彼女のかわりに別の女性を採用することもできるし、部分的には録音機で代用することもできる。このように、代わりがきく、からこそ、彼女が病気になった場合でも、そういう偶然的要因にとらわれることなく、彼女がやるべきだった仕事を早急に、かつ質を落とすことなく片付けることができるのだ。

  • (7) 「(A. Churchの定義によれば)『機能[関数]』とは、所与の物事に適用することで新しい物事を獲得するという性能を持った演算である」(Kattsoff [1948 :137])。
  • (8) この点についてはCassirer [1910]を参照せよ。

話はもう行政学の主題の中に突入している。これまで主流の、機能とは職務の達成に対する手段の必要性のことだ、とする道具主義的機能概念にしても、また Parsons のいわゆる機能理論にしても、機能化する、ということの本来の意味が捉えられていない。機能というのは、道具的関係でも因果的関係でもいいが、そういった関係それ自体のことではないのだ。機能というのは、なにか一つの関係のことを指す概念ではなく、特定の関係を一定のしかたで解釈することで別の関係の可能性が見えてくる、そういう解釈のことをいうのである。このように考えてはじめて、なぜ機能を特定する際に、つねに上位単位が参照されるのか、その理由がわかってくる。なぜ上位単位が参照されるのかといえば、それは、ある可能性と別の可能性が機能的に等価であり、その働きに関して比較可能であり交換可能である、という言い方は、上位単位を参照することで得られるパースペクティヴのもとでしかできないからだ。

実は、近代の官僚制的行政機構は、このような機能的思考法に基づいて編成されている。また同じ思考法が、行政機構によって統治される社会的秩序に対しても適用されている。つまり、行政の領域では、行為をその機能によって同定することになっているということだ。その際に参照される上位単位には、先ほど見たように二つの種類がある。一つは、行為を、その行為によって達成されるべき職務という観点から捉える考え方で、その場合にはイデオロギーが参照単位となる。もう一つは、その行為が協働の継続に対して与える結果という観点から捉える考え方で、その場合には組織の存立が参照単位となる(9)。たとえば、公務員の「秘書」設置について機能的に考えてみよう。一方では、その職務は女性秘書に担当させるよりも中央の文書課のような他の部署の方がうまく処理できるのではないか、という観点から考えることができる。他方、組織の存立という観点からは、公務員の威信を支えるのに別の手段はないものか、地位の高さを象徴するのに別の方法はないものか、という方向で考えることもできる(10)。どのパースペクティヴを選択するかによって、その行為に対して何が等価であるかが変わってくる。つまり、設定されるパースペクティヴごとに、別の比較可能性、代入可能性が与えられることになるのだ。これは、秘書というものが持つ様々な側面のうち、どれが有意でありどれが有意でないかが、選択されるパースペクティヴによって異なってくるからである。

  • (9) 両者の相違と、この相違が引き起こす緊張関係については、特にSelznick [1949] を参照せよ。また一般的な議論としては、Parsons and Shils (eds.) [1951: 173 ff.] を参照せよ。この区別は公式構造の水準での区別であり、行為者の意識度の差による顕在機能と潜在機能の区別と混同してはならない。たしかに、多くの場合イデオロギーは意識されているのに対して、行為が組織の存立に対してどのような結果を及ぼすかについては、行為者には気づかれていないことが少なくない。この二つの区別が容易に混同されてしまうのはそのためである。
  • (10) この後者の観点が「許容される変項」でないという人は、前者の観点をイデオロギー的に称揚しているだけである。

機能化するときにイデオロギーを参照単位にするのか、それとも組織を参照単位にするのかにかかわらず、考慮の対象となるのは具体的な行為の全体ではなく、その機能に関わる側面だけである。行為の意味はその側面だけで定義され、それ以外のすべての側面は無関係なものとして無視されることになる。さてしかし、そうやって、機能を特定することによって行為がその機能に関わる側面だけに縮減されていくということ自体は、実は、やはり現実の日常生活の世界で生じる一つの意味現象である。この点は、本稿による機能の概念化をみれば明らかだろう。本稿の機能概念は、機能的等価物のあいだの「交換」や、生活者の思考や実践とは無関係な側面の「無視」が行われる場として、機能的な意味連関に先行し、その基礎となっている、いわばメタ機能的な生活秩序の存在を示唆しているのだ。

人間はあらゆる機能化に先んじて、つねにすでに、いわば前国家的な社会的秩序の中で他人とともに生きている。人間は、他人に対して類型的な行動を期待したり、他人から期待される社会的役割を引き受けたり、相手が自分の期待に反したときには否定的な反応をしたりする。これらの期待は、合意、伝統、ステレオタイプ、事実連関によって強化され、強化された期待については逸脱行動に対して制裁を下す権利が与えられる。他方で、他人の期待に沿った行動をとった場合には、社会的な共感が増強され、独自の規範や慣習と、成員のあいだの非公式な序列関係をゆうする集団が形成されることになる。

この非計画的で「自然」な行動秩序は、人間の共同生活を魔術的に解釈する際にも、あるいは宗教的に解釈する際にも、そして機能的に解釈する際にも、つねに自明なものとして前提されている。物事の見方や考え方からすればとても自然とは思えないような行政官の共同生活も、実はこの基礎の上に成り立っているのであり、そういう基礎秩序がなければ考えることさえできない。役所というのは結局は役割の複合体なのだが、そこに見られる公職のハイアラーキーというのは、どんな集団にも存在する非公式の上下関係を模写したものにほかならない。命令権というのは、人格に基づく威信を安定化し、補完するもの、あるいはそれに代わるものである。規則は、行動期待が固定化したものとして体験され、遵守される。また、厳密に「職務」上の行動とは別に、機能化されていない無数の体験可能性への脱線が、つねに存在する。たとえば窓の外を見たり、無駄口を叩いたり、メモ用紙に落書きをしたり、といった具合に。

この話は、すべての「公式組織」は「非公式組織」に支えられていて、その影響である程度歪んだものとなるという、産業研究の知見に近いところまで来ている。ここで大切なのは、非公式組織それ自体は機能主義的に基礎づけられるものではないということ、そして、非公式組織を公式組織の意図せざる副産物と捉えたり、あるいは心理学的(したがって機能的)な協働計画によって管理すべき領域としか捉えないとしたら、そうした把握は不十分だということだ。非公式組織というのは、産業研究にとって、その意味を独自に追究し解明すべき、れっきとした研究対象なのである。公式的な官僚制組織について明らかにするためには、そこでつねに前提となっている相互的な行動期待の秩序を考慮に入れ、この秩序を概念化してやる必要があるのだ。

行為の意味を機能的に定める、というのは、官僚制組織の本質的な原理、さらには決定的な原理だといえるだろう。ところがこれ自体がやはり、(意味を定める際の参照枠として)前機能的な行動秩序を前提とする。この前機能的な行動秩序では、自分の行為も、他人に対して期待する行動も、一つの目標を頂点とする直観的なひとまとまりの行動として現れてくる。今日一日どんなことがあったか、どのように過ごしたのかを知るのに、自分が行ったすべての行為を原因と結果(手段と目的)に分割する必要はない。

これに対して、行為を目的と切り離し、その目的を結果として実現するための原因が行為であるという捉え方は、二次的な(そして近代に特有の)解釈である(11)。この解釈には特に、ひとまとまりとしてある生活過程を原因と結果に分解し、前者を手段、後者を目的、とすることで、両者を、互いに他に対して不変項として定めるという意味がある。これによって、原因と結果を互いに他から独立に変更することが可能になる。目的を一つ定めた場合、それを実現するための手段としては、機能的に等価な行為が複数存在しうる。他方、行為を一つ定めた場合には、それを正当化しうる目的は複数存在しうるのだ。

  • (11) このように述べているものとして特にTönnies [1923] を参照せよ。John Dewey は、ほとんどすべての著作(特にDewey [1922])でこの点を指摘している。

この行為解釈の中には、やはり機能的同定の図式が含まれている。これは一目瞭然だ。既存のイデオロギーを参照単位として機能化する人は、目的を不変項として、それを行為を選択するための観点として用いる。組織の存立を参照単位とする人は、特定の行為をすることは前提として、それがひきおこす結果の中から、その行為を正当化する目的を選択する。イデオローグにとっては目的の実現が、組織人にとっては手段の正当化が、それぞれ問題となる。この二つの立場は、もちろん互いに補完しあわなければならないのはそのとおりだが、それは一方の立場が他方を吸収してしまうということではない。行為を因果的に解釈する以上は、目的と手段は区別しておかなければならないからだ。結局、機能化に二通りのやり方があるのは、因果的な行為解釈に含まれる非対称性のため、すなわち目的と手段が不可逆的な関係として捉えられているからなのだ(12)

  • (12) こういうややこしい議論を挿入するのは私としても遺憾なのだが、数学的自然科学では因果性が機能[関数]方程式として、それゆえつねに対称的関係として記述されている現状があるため、仕方なく挿入した。機能[関数]、因果、対称性の結びつきは、科学性を追求する社会科学者の思考を強く規定しているため、機能図式が非対称関係にあることは、ことさらにでも示しておく必要があるのだ。

このように、行為というのは何らかの目的を結果として実現する原因のことだ、と解釈すると、この解釈それ自体によって、社会的生活の中に機能的な物の見方が導入されることになる。この見方は、ひとたび導入されてしまうと、それ以降つねに決定的な位置を占めつづけ、その結果、素朴な自然的体験というのは不可能になる。手段としての機能、目的としての機能が、物事の本質となり、問題や対立を解決するために用いられるようになる。機能が行動期待を形成し、公式の役割を定義し、人々はそれを引き受けなければならなくなる。何が行為者の地平となるか、どんな作業をしなければならないか、関係があるのは何で無関係なのは何か、体験の中心に来るのは何で周縁にとどまるのは何か、こうしたことがすべて機能によって決定されるようになっていくのだ。労働連関はそれに応じて安定化し、可能なかぎり効率化する。しかし、その代償として、一つの仕事を完成させることによって得られるはずの意味充足は失われることになる。

これは、もう仕事というものを、一つのまとまりをもった全体として考えることができなくなるからだ。各人それぞれの作業が、それぞれ部分的な原因となって、それらがすべて合わさって一つの結果が出る。仕事というのはその結果でしかない。そういう解釈しか許されないのだ。もちろん、労働の意味が、仕事のひとまとまりの完成体から得られるものであった時代というのもあった。そういう時代には、労働の意味は機能拡散的で(13)、代々受け継がれる伝統的な役割類型と不可分のものだった。労働と仕事は一つのものであり、直観的な役割像(父親、医者、聖職者、農民、など)にしたがった伝統的な役割分担ができていたのだ。この体制を唯一解体することができたのが、機能分析なのである。機能分析は、実現する価値のある結果を一つ定め、それに対して機能特定的に役割を定義する。そうやって定義された役割は、機能的に等価な別のものと比較したり、あるいは組み合わせたりすることができるようになっている。こうなると、役割の意味というのは、大規模な労働連関の中であらかじめ定められ、個別に交換可能な部分的貢献ということにつきてしまう。しかしこの機能的抽象を行わないかぎり、十分な規模の代入行為・補完行為の可能性の全域を視野に収めることは不可能であり、それゆえ、きわめて多様で詳細な役割分業を必要とする大組織の編成には、この機能的抽象が不可欠なのだ。

  • (13) 機能拡散的/機能特定的の区別はTalcott Parsonsによるものである。Parsons and Shils (eds.) [1951: esp. 57 f., 83 f., u. ö.]を参照せよ。

この分析は産業分野にかぎらず、行政分野でも同様に成り立つ。行政がなすべき仕事とは、公式的には決定である。そこで、行政における決定を(おかしな言い方だが)一つの行為の結果と理解することにすれば、それによって行政活動を機能的に整理し、分業化することが可能になる。つまり、ある特定機能の観点のもとで複数の職員が共同作業する一連の手続を通じて決定が下されるような分業体制である。この共同作業は反復可能な形に類型化される。郵便物の記録と配達、郵便物に含まれる情報の取得、追加書類の要求、事前協議、企画の却下、修正案の呈示、承認署名、などから、終了署名、書類作成、決定通知にいたるまで、これらの作業は、決定過程が個別の行為に客体化したものである。そこでは、この過程にたずさわる個々人の主観的な思惑や決断は二次的なものとされるし、どの個人にとっても、この過程がどのように始まりどのように終わるのかを見通すことはまずできない。また各作業は法規、あるいは専門分野ごとに固有の規則にしたがって、規則さえ知っていれば誰でも行えるように定められる。誰でも行えるために、作業者は代替可能である。他方で、機能的に比較可能な可能性の範囲が、この規則によって限定される。このような体制になっているかぎり、決定にいたるまでの各作業は、それぞれ交換可能であり、かつ制御可能である。

決定手続がこうなっていると、自分がたずさわっている作業の意味は、他の機能的に等価な行為の意味と変わらない、ということになる。各作業の固有性は、機能によって可能になる他の可能性との比較によってしか得られない。その機能に対する「働き」を評価されるわけだ。ところがこの評価は、あくまでも、行為をある結果を実現することのできる交換可能な原因の一つと解釈することによって成立する暫定的な図式の中でしか通用しない。この解釈のもとでは、行政行為はいわゆる形式的で非人格的な「官僚制」的様式をとる。個人的な感情や気まぐれな思いつきのような、そこでの機能にとって外的な成分は可能なかぎり排除することができるようになり、それゆえ行政行為は計算可能、反復可能になる。形式性にしろ、非人格性にしろ、計算可能性や反復可能性にしろ、Max Weber以来なんども繰り返し指摘されてきた官僚制的行政に固有の特徴であるが、これらは基本的に機能法則にしたがった交換可能性のことを言っているのであり、それゆえいずれも行為を機能的に同定することの副産物なのだから、そのかぎりで、これらの特性は、相互に連関しているといえるのだ。

官僚制的行政とその環境との接し方についても、この固有の機能法則に対応したものとなっている。この世界で起こる出来事というのは、その一つ一つが固有なもので、同じ現象は二つと起こらない。ところが行政は、その出来事について報告を受けると、あらかじめ定められている規則にしたがって、同じ仕方で処理すべき案件へと分類してしまう。ただし、ここでいう案件の同一性は、やはり直観的・質的な同一性ではない。案件は自然法にしたがって本質を与えられるのではなく、機能的に同定されるのだ。同じように処理されるべき対象だから同一なのであって、同一だから同じように処理されるのではないのだ。対象の側の視点からいえば、機能主義というのは、行政活動がルーティン化され、迅速に遂行され、予見可能であるための条件なのである。

以上のように、官僚制的行政は機能主義をとっており、何かと何かを等価であると判断し、等価なものどうしをその働きにおいて比較するような体制になっている。最後に指摘しておきたいのは、このとき、そういった判断や比較のために必要な観点の実定性(被定性)こそが、官僚制的行政の、そして機能主義一般にとっての前提だということだ。この観点に求められるのは、あらかじめ定められていること、そしてその正当化は機能的思考の内部で行われなければならないということである。つまり、機能的観点は、比較領域を構造化するという機能によってしか正当化されえないのだ。機能はつねに何らかの「上位単位」を前提とするわけだが、これはそれ自体が明証的であるとか、いわんや真である必要はない。上位単位の評価は、それが示す秩序化の働きによってなされるからだ(14)。近代国家では、公的な事柄を機能的に秩序化するのに、真なる国家目的を持ち出してきたりはしない(15)。イデオロギーで十分だからだ。

  • (14) この考え方は、近代論理学でも採用されている。近代論理学の基礎概念は「暗黙に定義」されるものであり、無矛盾な演繹を可能にするという機能によってのみ基礎づけられることになっている。
  • (15) それに、Hans Kelsen(Kelsen [1928: 83])の慧眼が見抜いていたように、国家目的は国家主権と矛盾する。近代的な考え方では、主権というのは絶対的機能主義の公準なのである。

以上述べてきたとおり、行政の機能主義は、社会生活の中に新たに人為的な視角を導入するものである。機能概念は、そうやって社会生活が再構造化される仕組みを研究するための分析上の補助手段として使える。しかし機能概念の役割はそれだけではない。この概念は、歴史上の出来事を指すものでもあるからだ。

機能というものを、その概念内容だけでなく、歴史的にも理解しようと思ったら、機能によって変形させられた秩序とはどんなものだったのか、という観点から考える必要がある。機能は、本質とか固有性といったものによって実体的に同定されていた事物を、機能的に同定しなおす。つまり現象から、その元来の意味や形を奪うのだ。これによって、公的生活のあり方は、全面的に変化することになる。儀礼や儀式のような定型的な動作によって所属意識が弱まったり強まったりするということはなくなり、祭事は季節を区切るための輝きを失う。人が生まれ、成長し、死んでゆく、そのあり方を定めていた古い形式は消え去っていく。助け合いの精神は公的生活から私的生活へと撤退し、そこが唯一、社会的共感の表明が求められる場となる。英雄も道化も、王も乞食も、例外的な役割としての力を失って死に絶え、悪党すら、近代の行政には登場してこない(もちろん前近代的な要素を多く残した政体にはまだ悪党がいるが)。その代わり、行為や制度はそれらが果たす働きの連関の中で、その機能に関して代替可能なものとして捉えられる。そのため、同じ働きをするものが非常に多く見つかることになり、その結果、最善の可能性を見つけて実行することがつねに保証されている。このように、機能は自然に存在していた区別を無化し、人為的で機能特定的な区別に置き換えるのだ。そしてそのような体制が支配的になることで、専門家は不要になる。

行為を機能的に同定するということは、行為を特定の一側面からのみ捉えるということだから、その結果、個人の生活の自足性と、社会的秩序の調和性が脅かされることになる。これは、旧来の儀式中心の体制では起こりえなかったことだ。そこで、それを埋めるための補償が必要になってくる。つまり、労働、生活必需品、社会的地位、成功の機会、信じるに足る意味といったものを、計画的に供給することが求められるようになる。ところが、そうした補償の必要性自体が、機能的に同定され、組織によって充足されることになる(というか、補償の必要性を同定するというのは、それを機能的に同定するということでしかありえない)。こうして社会的秩序は緊張を緩和され、存立が保たれる。ただし、そのためには大規模な行政が不可欠である。

行政学は、このような歴史的状況を認識した上で、それを受け容れなければならない。それが近代国家の前提である以上、近代国家を対象とする行政にとっても、この歴史的状況は前提なのだ。行政学が研究すべき事柄というのは、最大限広くとって言うなら、公的生活の秩序に対して、機能思考がどんな影響を及ぼしているかということだ。この研究課題に応えるには、機能的に同定するということがどういうことなのかを理解している必要がある。この点が理解できていないと、学問としての射程と限界を見定めることができないからだ。類型的で反復可能な状況を見つけたら、そこで自然的世界が機能的な指向によってどのように再構造化されているかを調べてみること。それが行政学の課題である。そうすれば、その再構造化によって何が得られ何が失われているのか、生活や社会的関係がどのような変化を被っているのかを知ることができる。そうした研究成果が蓄積し、近代国家の現実についての内容的・歴史的な認識が確立したとき、そのときはじめて、我々は機能の機能の先にまで進み、まだ見ぬ機能の本質を問うことができるのだ。

(訳了)


Bredemeier, Harry C., 1955, “The Methodology of Functionalism,” American Sociological Review 20, pp. 173-180

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Substance and Function and Einstein’s Theory of Relativity

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河村望訳,『人間性と行為』,人間の科学社

東宮隆訳,『人間性と行為』,春秋社

Gouldner, Alvin W., 1955, Patterns of Industrial Bureaucracy, Routledge & Kegan Paul

岡本秀昭・塩原勉訳,『産業における官僚制』,ダイヤモンド社

Gouldner, Alvin W., 1955, “Das Dilemma zwischen technischem Können und Loyalität im Industriebetrieb,“ Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie 7, pp. 520-531

Frege, Gottlob, 1891, Funktion und Begriff, Jena

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Janne, Henri, 1954, “Fonction et Finalité,” Cahiers Internationaux de Sociologie 16, pp. 50-67

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Levy, Marion J., 1952, The Structure of Society, Princeton University Press

Merton, Robert K., 1957, Social Theory and Social Structure, Revised and Enlarged ed., The Free Press

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宮沢光一訳,『人間行動のモデル』,同文館

Tönnies, Ferdinand, 1923, “Zweck und Mittel im sozialen Leben,” Hauptprobleme der Soziologie: Erinnerungsgabe für Max Weber, Duncker und Humblot, Bd. 1, pp. 235-270

2011年12月16日金曜日

ヴェーバーの「意味」概念の定義 (の「超訳」の試み)

「定義」というより「用法の限定」というべきかもしれないが、とにかく「社会学の基礎概念」にてヴェーバー曰く、

»Sinn« ist hier entweder a) der tatsächlich α. in einem historisch gegebenen Fall von einem Handelnden oder β. durchschnittlich und annähernd in einer gegebenen Masse von Fällen von den Handelnden oder b) in einem begrifflich konstruierten reinen Typus von dem oder den als Typus gedachten Handelnden subjektiv gemeinte Sinn.

さて、清水幾太郎訳『社会学の根本概念』(9頁)では、こう訳されている。

本書でいう「意味」には、大別して、次の二つの種類がある。(一)(イ)或る歴史上のケースにおいて、一人の行為者が実際に主観的に考えている意味、(ロ)多くのケースを通じて、多くの行為者が実際に平均的近似的に主観的に考えている意味、(二)概念的に構成された純粋類型において、類型として考えられた単数或いは複数の行為者が主観的に考えている意味。

阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』(7頁)ではこうだ。

「意味」とはここでは、a)事実的に、α. 歴史的に与えられた一つの場合に一人の行為者によって、またはβ. 平均的かつ近似的に、与えられた多くの場合に諸行為者によって、主観的に思念された意味であるか、あるいは、b)概念的に構成された純粋型において類型として考えられた行為者または諸行為者によって主観的に思念された意味のことである。

いずれも、原文に合わせて一文で書こうとした結果、非常にわかりにくい文章になっている。でも、文を分ければもっとわかりやすくなる。次は私の試訳。

本書でいう「意味」とは、行為者が主観的に思念した意味のことだ。まず、(a)この行為者が歴史上の実際の事例に登場する場合を考えよう。(α)事例が一つでそこに行為者が一人登場するだけなら、この人が思念している意味が「意味」だ。他方、(β)事例が複数の場合は行為者も複数なので、この複数の行為者が思念している意味を平均したものを、近似的に「意味」とする。次に、(b)純粋な類型を概念的につくって、やはり類型として考えた行為者をそこに登場させる場合を考えよう。この場合は、そこに登場するのが一人でも複数人でも、この類型的行為者が思念する意味が「意味」である。

まあ、こういう「超訳」が嫌いな人はいるかもしれないが、こうした方がわかりやすいのは明らかなわけで、せっかく訳すならこのくらいわかりやすくしないと意味がない(原書で読んだ方がまし)と思うわけで。(原書がわかりにくいなら訳書もそのわかりにくさを反映すべき、という変態のことまでは知らん。)

実際、現実の行為者が複数の場合について、既訳はどちらも、この複数行為者がみんなそろって「平均的かつ近似的」に「思念」しているかのように訳しているが、それでは「平均」とか「近似」という言葉を使う必要はないのであって、ここは間違いだろう。

2011年12月13日火曜日

ジンメルの心的相互作用について

盛山先生の『社会学とは何か』41-42頁にこうあった。

相互作用があれば、そこに社会があるといえるか。ジンメルはそうではないと考える。彼は、社会を構成するのはたんなる相互作用ではなくて、「心的相互作用」だという。

(中略)

相互作用というだけなら、街頭ですれ違う人と「ちょっとだけ目をかわす」というのも相互作用だ。それは、たんにショウウインドウの中を見たり、信号を見たりするのとは異なって、明らかに相手を他者として、しばしばとくに「異性」として、意識している。しかしそのレベルでの相互作用はまだ社会を構成する要素たりえないとジンメルは考える。

この議論をするために、ジンメルの『社会学の根本問題』(阿閉吉男訳)22頁から次の箇所が引かれている。

社会概念をそのごく普通の意味でとらえれば、それは個人間の心的相互作用ということになる。このように定義したからと言って、ある種の限界現象がただちにこれに結びつくというふうに誤解してはならない。つまり、二人の人間がちょっとだけ目をかわすとか、出札口で押しあうというだけでは、まだ社会化しているとはいえないであろう。

実のところ、ジンメルが「心的」という形容で何を意味しているのかよく知らないのだが、少なくともこの訳文が間違っているということは言える。原文はこうだ。

Fasst man diesen in seiner weitesten Allgemeinheit, so bedeutet er die seelische Wechselwirkung zwischen Individuen. An dieser Bestimmung darf nicht irre machen, dass gewisse Grenzerscheinungen sich ihr nicht ohne weiteres fügen: wenn zwei Personen sich flüchtig anblicken oder sich an einer Billettkasse gegenseitig drängen, so wird man sie darum noch nicht vergesellschaftet nennen.

(私が唯一もっている)清水幾太郎訳『社会学の根本概念』20頁ではこうなっている。

社会概念を最も広く解すれば、諸個人間の心的相互作用を意味する。もっとも、二人の人間がチラッと顔を見合わせたり、切符売場で押し合ったりしても、まだ二人が社会を作っているとは言えないであろうが、しかし、こういう限界現象が右の規定に簡単に当て嵌まらないからといって、それで右の規定に戸惑う必要はない。

清水訳は基本的にだらだら文体なのでよくわからないが、ニュアンスは阿閉訳とは正反対である。そして方向性としてはこっちが正しい。

なお、私なら次のように訳す。

社会概念を最も一般的に定義するなら、それは個人間の心的相互作用のことだ。このように定義すると、二人の人間がちょっと視線をかわすとか、切符売場で押し合うとかいった限界事象はこの定義にうまくはまらない気がしてくる。その程度では社会化しているとは言えないのではないかと。だが、そうした疑念に惑わされてはいけない。

要するに、「視線をかわす」とか「押し合う」も心的相互作用の(限界事例とはいえ)一種だという解釈である。ジンメルの言い回しは微妙ではあるが、しかしこの引用文の直後を見ると、そう考えざるをえない。

Allein hier ist die Wechselwirkung auch eine so oberflächliche und vorüberfliegende, dass man in ihrem Maße auch von Vergesellschaftung reden könnte, bedenkend, dass solche Wechselwirkungen nur häufiger und intensiver zu werden, sich mit mehreren, generell gleichen zu vereinen brauchen, um diese Bezeichnung zu berechtigen.

清水訳はこうだ。

ただ、この場合の相互作用は非常に表面的で一時的であるが、それでも、それなりに社会を作っていると言えるものの、これが大切な点なのだが、本当に社会を作っていると言えるためには、こういう相互作用がもっと頻度や強度を増し、それに似た多くの相互作用と結びつきさえすればよいのである。

例によってだらだらしすぎていて何を言っているのかわかりにくい(本人もよくわからないまま、適当に接続詞でつなげているだけなので)が、「表面的で一時的」な相互作用も「社会を作っていると言える」ということは読み取れる。

私ならこう訳す。

このように表面的で一時的な相互作用であっても、それが頻度と密度を増し、他の多くの似たような相互作用と結びつきさえすれば、それを社会化と呼んでもおかしくないわけで、そう考えるならば、表面的で一時的な相互作用であっても、それはそれなりに社会化だと言っていいはずだ。

阿閉訳がこの箇所をどう訳しているのか確認できないので残念だが、代わりに Kurt H. Wolff による英訳 The Sociology of Georg Simmel (リンク先は Internet Archive で、PDFが無料でDLできる)9頁を挙げておこう。

If the concept "society" is taken in its most general sense, it refers to the psychological interaction among individual human beings. This definition must not be jeopardized by the difficulties offered by certain marginal phenomena. Thus, two people who for a moment look at one another or who collide in front of a ticket window, should not on these grounds be called sociated. Yet even here, where interaction is so superficial and momentary, one could speak, with some justification, of sociation. One has only to remember that interactions of this sort merely need become more frequent and intensive and join other similar ones to deserve properly the name of sociation.

おおむね私の訳と似ていると言っていいだろう。

そもそも、この箇所でジンメルは、「心的」というのがどういうことなのかを説明しようとしているのではないし、そのあとにも特に説明は出てこない。ここでジンメルが主張しているのは、「社会(Gesellschaft)」という言葉は国家や会社みたいな大規模な集合的単位にしか使われないのが普通だが、自分はちっぽけな相互作用にもこの言葉を使いたい、そのために、「社会化(Vergesellschaftung)」という言葉に加工して使うんだ、ということである。だから文脈的に考えても、「こんなちっぽけなものでも社会(化)なんだ!」というニュアンスの文章でないとおかしいのである。

そのうち、阿閉訳ないし最新の居安訳(『社会学の根本問題』)、あとジンメルの別の本ないしジンメル研究を見て、何か必要があれば補足するかもしれない。




上の話とは直接関係ないが、やはり『社会学とは何か』53-54頁に気になる文章が・・・ ジンメルの『社会学』39頁から「社会は客観的な統一体、それに含まれない観察者を必要とはしない統一体なのである」という文を引用したうえで次のように述べる。

しかし問題は、ジンメルがここで「統一体」というような言葉を使っていることである。「統一体」といえば、なにか「よく秩序づけられた全体」というような意味をもってしまう。社会がそうした統一体だということは経験的にもけっして正しくないし、規範的な含意においてもミスリーディングである。

共同性をなにか「よく秩序づけられた関係性」のようなものだと前提してしまうと、現実に存在する共同性に潜んでいる問題を発見したり、欠陥のある共同性を考察の俎上にのせたりすることが困難になる。共同性の概念は、そうした暗黙の「規範的な正当化」を避けて、もっと中立的に組み立てられなければならない。

「統一体」という言葉についてはまったく同意だが、もちろん「統一体」という日本語を使っているのはジンメルではなくて訳者の居安正である。ジンメルは「Einheit」と言っているだけだ。英語で言うなら「unity」。「一つ(ein)であること」という以上の意味はない。「単位」と訳しても問題ない。そう訳せば「よく秩序づけられた全体」という含意はないわけで、日本語のニュアンスをジンメルのせいにされても・・・と言わざるをえない。

2011年7月28日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第15回 ウィトゲンシュタイン『青色本』

対象文献:
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン,大森荘蔵(訳),『青色本』,ちくま学芸文庫


以下、出席者の感想。


  • 報告とコメントを聞いても、理解はできましたが、疑問点を見つけることはできませんでした。しかし、三谷先生の質問や、説明を聞いているうちに、自分が何をわからないのかがわかりました。三谷先生の疑問点に、私も同じ疑問を感じました。自分が、何をわかっていないかを知ることは難しいことだと思いました。

  • 本書の内容のみならず、背景なども踏まえての報告だったので興味深かった。授業の趣旨とは異なると思うが、先生と報告者のやり取りがおもしろかった。

  • とても論がぐるぐる回っているように思えて、思考がうまく働かなかった。

  • 結局、他人の心の中で感じていることははっきりとは分からないものだと思った。というのも、よく人と話をしていて「その気持ち分かる~」みたいなことを言われるが、私としては分かってたまるかと思うこともあるからです。で、こういった発言をするのって、似たようなことを経験したからなんだなと思いました。

  • 最終回らしく一番頭を使った回になった。白熱した議論を聞くのは面白いです(笑)

  • ◯◯さん[=報告者]の最終的な結論が、他人の意見をそのまま使っているのがやりづらい。自分だけで考えた自分なりの意見といった意見を述べてくれたほうが発言しやすかったです。今回の議論になったことは、もっと根本から考えないといけないのかなと思った。

  • 報告者はウィトゲンシュタインの主張に疑問を呈しておきながら、議論が進むにつれて、ウィトゲンシュタインを援護する形になっていたと思った。

  • 部分的には分かる所もあったが、◯◯さん[=報告者]のレジュメは長大で濃厚であったため、全体の流れが分かりづらかった。

  • 今日は報告者と三谷先生がバトルしてました。独我論の面白さは現実対応から否定することではなく、そのような想定ができてしまうということであり、世界が一人称で捉えられる限りでは回答不可能である。独我論は言語を用いて世界を二人称で捉えるとき、あるいは、三人称で捉える世界を考えていくことで発展するものである。

  • この議論において私的言語と公共的言語が使われていたんですが、他人の言語においては感覚は比較しえないと思いました。よって、自分の中の感覚においてしか他者の感覚を示す言語を理解することはできないと思いました。

  • 感覚するということや、理解するということがどのようなものなのかについて深く考えさせられる機会となった。

  • よく他人の痛みを理解するというような言葉を聞くが、今日の議論を聞いて、自分以外の痛みを理解することはできないと思った。安易にそのようなことを言わないほうがいいと思った。

  • 恐らく一番発言の少ない会でした。全体的にですが。でも、やはり聞いているだけでも大分勉強になりますね。・・・本当に理解力欲しいです。ウィトゲンシュタイン組のみなさん、おつかれさまでした。

  • 今日は話題が見つけられず、意見を述べられなかった。今までで一番難しいテーマだと感じました。

  • 相手のことを本当に理解することは無理なのだと感じた。難しかった。

  • 感覚は全人類が共有できるものなのか。はたまたやはり個人しかもちえないものなのか。おもしろい。

  • 報告者の感想  今回の演習を通じてウィトゲンシュタインを深く学び直す機会を得ることができ、感謝いたしております。

  • コメンテータ1の感想  言葉についても言葉を用いて議論しなければいけない。言葉で説明できないものについて言葉で説明しなければならない。割り切るしかないんでしょうか。

  • コメンテータ2の感想  ウィトゲンシュタイン、難しかったです。感覚の話とか、言語の話とか、内容のレベルがとても高かったです。最後の講義、お疲れさまでした。

  • 司会者の感想  今日、初めて司会をしてみて、こんなに難しかったんだと思いました。議論が全然分からないところに行ってしまって、なんかもう、力不足を痛感しました。終わってすごく安心しました。いつか司会が上手くなれたら良いです。



今回は最終回なので、この授業全体についての感想も書いてもらいました。

  • この人文総合を経験してみて、自分の平凡さとか浅さとかを目のあたりにすることができました。私は今まで、こんな所で発言なんてできるタイプではなかったけど、少し発言できてよかったです。

  • 全体を通してみて、つらかったです。特にテスト前の今回などは眠くて眠くて・・・とても大変でした。でも、何かしらの進歩はあったと思います。お世話になりました。

  • 自分の中で大きな意味をもつ授業でした。この授業を受講しなければ、こんなにたくさんの哲学書を購入することもなかったし、無理くり哲学者に対して批判を加えることもなかったと思います。大変でしたが有意義でした。ありがとうございました。

  • 参加させて頂きまして、ありがとうございました。

  • いかにも宣伝のようなコメントになってしまうかもしれませんが、本音です。この授業を受けて、レジュメ作成の力がついたのはいうまでもなく、物事を深く考える力がついたと思います。毎回の皆さんとの討論も楽しく、哲学的思考のきっかけをもらいました。

  • (主に先生と報告者・コメンテーターの方との)議論を通して、とても勉強になった。相手に質問をし、その答えを前提に議論をするとか・・・ 色々な本をよんでとても勉強になったが、背景知識が不足していたので、そこを勉強し直してからもう1度よみ返してみたいと思う。「自分の考え」を論理的に伝えることの難しさ、そして大切さを学んだ。

  • このゼミはグループ学習ではなく、ほとんど個人で討論会をする形で、一人ひとりの発言が、はっきりと聞いたり話たりすることができて楽しかった。いろいろな人の意見が聞けたし、討論するときの言葉一つ一つの意味の重さというのを初めて実感することができたので、良いゼミをとれたなと思いました。ありがとうございました。

  • 竜頭蛇尾といいますか蛇頭無尾になってしまいました。理解力つけないとマズいですね。この授業で学べた一番のことだと思います。レジュメの作成能力も少しは上がってくれたことと思います。後期の人総Bに活かしていきたいです。実りある授業をありがとうございました。

  • 本当にたくさん本を読みました。でも、理解をきちんとできた本は無かったです。もう一度読みたい・・・とは正直思いませんが、せっかく買ったのでもう一度手にとってみたいと思います。自分で貼ったふせんやマーカーが愛しいです。ありがとうございました。

  • この講義を受けてみて、沢山苦労したこともあったし、本の内容についていけないこと、報告時の反省等も多々あるが、とても良い経験になった。また、扱った文献をもう一度読み直したいと思う。

  • 15回の授業を終えて、今までこんなに物事を考えたことがないくらい、頭をつかったので、とてもいい経験になりました。

  • きつかったが、「これが大学の授業かぁ」と実感することができる授業だった。哲学の道には進むことはないと思うが、この授業で培った能力は他の授業のレポート作りに役立つと思うし、大変有意義であった。

  • レジュメを、毎回授業の前に読めたらよいと思った。が、日程的に難しいので、そんなことはできなく、初見の文を読む訓練になったと思う。キツかったけど楽しかった。

  • 本を読んだり、人の考えをもう1度自分で考えていくことで新しい見方や考えが生まれて、話し合うことがおもしろかったです。

  • 「一番大学の授業らしいな」と感じたのが、最初の印象でした。正直、毎週難解な本を読むのはしんどかったです。でもここで学んだことは、絶対将来役に立つと思うので、有意義な授業でした。

  • 13冊あっというまでした。正直死にそう、むしろ死んでましたが、いい経験になりました。ありがとうございました!

  • 今まで自分の考えを示すという機会さえ少なかったけれども、今回は哲学書を読んだ上で、自分の考えを発表するというのは、とても良い体験になりました。みなさんありがとうございます。

  • 自分の読書ペースならこの授業もいけるかと思ったが、結局は内容をつかみきれないままになってしまうことが多かった。なかなか発言できなかったが、レジュメ作成や、皆の前での報告はよい経験だった。

  • 自分の報告の担当のときは、何でこの授業をとったんだろう!?と後悔しました。しかし担当をやり終えてみると、厳しくはありましたが、たくさんの事を学ぶことができ、よかったと思います。自分の言いたい事を言葉で表現することの難しさを身をもって知ることができたのは、大きな収穫だと思っています。三谷先生、ありがとうございました。



2011年7月21日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第14回 フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

対象文献:
E. フッサール,細谷恒夫・木田元(訳),『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』,中公文庫


以下、出席者の感想。

  • 聞くタイミングを完全に逃しましたが、○◯君[=報告者1]にひとつ。人って本当に「ある程度の時間」さえあれば理解できるものなんでしょうか? 少なくとも例に上がってる原発に関してはちがうと思いますが。ちょっと話しあってみたいものです。フッサール組のみなさん、おつかれさまでした。

  • フッサールって若干頭固かったんじゃないかと思います。

  • 本当の人間性の定義とは何か、というのが分かったらいいのに! とすごく思いました。

  • 今回はこれまでの題材の中でもとくに難しい内容だった。夏休みの間にもう1度読み直したいと思った。

  • 最近議論が深まらないですね。時間をうまく使わないときちんと議論ができないように感じました。司会者は思い切って話を途中でやめさせてもいいんじゃないでしょうか。信用と信頼の違い、という話が面白かったです。批判を丸のみにするのは自分の意見がもったいないのではないかと感じる。

  • 今回はもう少しみんなの意見が出ると良かったかなと思います。報告者の意見が明瞭に示されていて欲しかった。

  • 授業も終わりに近づいてきて、本の内容もレジュメも難しくなってきて、レベルも上がったなと思いました。学問をしている人はごくわずかという発言がありましたが、学問の定義とは何なんだろうと思いました。

  • 今日の話は本当に難しかった。先生の黒板の説明を見ても、半分も理解できなかった気がする。“理性の信頼”と「自己自身」への信頼が異なるもの、というのもいまいちよくわかりません。

  • 読み間違いかもしれないが、◯◯さん[=報告者2]のレジュメで、「自己自身(自己の全生活)」が自明のものとして扱われていたと思うのだが、それの根拠を知りたいと思った。レジュメを事前に読めたら、きっともっといい質問ができるのに・・・といつも思う。

  • 人間の生活には何かしら学問が関わっているような気がします。私が知らないだけで、ほとんど学問で説明づけられちゃいます。そうなるとつまらないかんじがしますが、それが人間なんですよね。すみません意味不明です。

  • 本のレベルがいきなり上がったのではないだろうか。ついて行くことができなくて、残念に思った。次回は最後なので頑張っていきたい。

  • 報告の内容を理解しようとしているうちに終わってしまった。今回は題材の本も報告も難しかった。「科学の発達と人間の理解のタイムラグ」にはどう対処すれば良いのか気になった。

  • 最近のレジュメでtwitterやFacebookなど、けっこう最近の具体例が用いられるのが増えてきて、第1回目の授業から考えると、より身近な議論になってきたなと思う。

  • 信頼の崩壊であったり、人間性の喪失であったりと、けっこう深く考えさせられるテーマでした。正直、途中の議論でついていけない部分も多々ありました。今度、夏休みにでもしっかりと読み直したいです。

  • 報告者1の感想  自分の考えを人に伝えるにはどうしたらよいのか。一番自分が苦手なところなので、今回をきっかけにもっと客観的に自分の文章を見つめられるようになりたい。

  • 報告者2の感想  コメントに対するコメントで、みんなの議論の時間をとってしまって申し訳なかった。あとはもっと自分の考えを主張できるようになりたいと感じた。“信頼”について述べるのはとても難しかったけど、良い経験になった。

  • コメンテータ1の感想  「科学は人間にとって必要不可欠なので、科学が人間を対象外としているならば、人間は人間らしさを失っている」という主張を◯◯くん[=報告者1]は貫いたのが立派でした。

  • 司会者の感想  みんなの意見をもっと交換できるように司会を進めたかったというのが、今回の反省点でした。


2011年7月14日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第13回 ヴェーバー『職業としての政治/職業としての学問』

対象文献:
マックス・ウェーバー,中山元(訳),『職業としての政治/職業としての学問』,日経BPクラシックス


以下、出席者の感想。

  • 倫理の話だったり、政治家のあるべき姿であったり、考えさせられる議論でした。やはり、意見を反映させるにしても選ぶのは政治家であるので、システムよりもまず、政治家そのものをよりよい人々に選び直すべきなのではないでしょうか。

  • 最終的に、政治家は固い信念を曲げないが、民衆の意見をきくのも必要なんだと思いました。

  • なかなか意見がまとまらなかった。また、政治の話で意見することはできても、どう現実に反映させるのかと考えると、また別の難しさがあるんだなあと思った。

  • 責任を持って投票すべきですね。先生の解説すてきでした。未来をつくる世代になったんだなあと実感した、今回はそんなかんじでした。

  • ◯◯さん[=報告者2]の例に挙げられていた生命倫理の問題について考えたのだが、結局もやもやしたまま終わったのが残念だった。もっとなにか思いつきたかった。

  • ◯◯さん[=報告者2]のレジュメはすごい身構えて読んだのですが、大変分かりやすかったです。◯◯さん[=報告者1]のレジュメも読みやすかったです。内容が難しくて理解してついていくのが精一杯でしたが、とてもためになる議論でした。

  • 最後の議論を聞いて、だから職業としての政治は良くないんだと、やっと納得しました。職業は生きるためにするもので、だから失わないために信念をまげざるを得ないものなんだなと思いました。

  • なかなかハードなないようだったなと思う。でもこれから20歳になるので、選挙についてより考える良いきっかけになった。

  • 近い将来、政治に参加する身としては、今日の議論は政治を考えるいい機会になった。

  • 政治家や政治の在り方を考えさせられた。インターネットなどのツールをどう使うかも大切だろうと思った。

  • 政治について考えられました。おなかへった~

  • 最終的に恐ろしく高尚な話になりました。置いてけぼり感が凄かったです。言いたいことは多々ありましたが、もやもやしていて口に出すことはできませんでした。いつまでたっても成長できません。ウェーバー組の皆さん、お疲れさまでした。

  • 今日は自分が報告者であった時の次に言葉を発した日でした。個人的に詩や詩人に興味があるので、◯◯さん[=報告者2]にくらいつけた。

  • 議論が難しくあまり入っていけなくて、大変でした。みんなの意見がすくなかったのもそのせいかなと思いました。

  • 報告者1の感想  報告をしました。ここ1,2週間はこのことしか考えられなかったので、達成感でいっぱいです。皆さんお疲れ様でした。

  • 報告者2の感想  多数決が常に正しいとは限らないことは、危険性が指摘されつつも推進が強行されてきた原発を見ると明らかである。詩人たる政治家はその時代の主流に逆らって、正しいと信じた理念実現に進むべきなのだ。

  • コメンテータ1の感想  議論のタネとなるコメントができず残念だった。とても勉強になった。

  • コメンテータ2の感想  どうやら私は信条倫理、責任倫理をわかっていた気になっていただけだったようだ。帰結主義における帰結が「患者の苦しみを取り除いた」「患者を殺した」の2通りが考えられると思うのである。このどちらを選択するのかで、信条倫理、責任倫理が逆転してしまうのではないだろうか。

  • 司会者の感想  今日は司会でしたが、うまく進行できず、報告者やコメンテーターに助けてもらったので感謝したいです。


2011年7月7日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第12回 フロイト『人はなぜ戦争をするのか』

対象文献:
フロイト,中山元(訳),『人はなぜ戦争をするのか』,光文社古典新訳文庫

以下、出席者の感想。

  • 戦争の発生や防止を考える際、文化同士の在り方ははずせないと思う。今回の報告もそれに関した内容で、改めて容易な問題ではないと感じた。

  • 〇〇君[=報告者1]って戦争に詳しい。初めて先生の解説なく質問ができた気がする。今回はまんべんなく質問が担当の人にいっていた。

  • 小学校の道徳の授業ってどんなんでしたか忘れてしまいました。でも覚えているのは、たくさんの話が載った教科書をみんなで考えてました。そのときにはある程度こんなことはしちゃいけないっていう考えはもっていました。私の場合、NHKとかで身につけたものですが、道徳はメディアによる植え付けもあると思います。

  • どうしたら戦争をなくせるのか、それ自体に答えはでないかもしれないが、考えることに意味があると思った。

  • 道徳はすべてから学ぶものであると思う。経験だったり、授業だったり、親から教わったことなどである。

  • 小学校の道徳の授業について思い出してみたが、教科書があったような気がする。物語がいくつかあり、それについて議論するかたちだった。これは親の存在だけではできない体験かもしれない。

  • 助け舟を出したいと思ったが、タイミングがわからず発言することができなかった。

  • 戦争の話でしたが、今までと少し毛色が違うようでした。昔の日本みたいに何でもかんでも受容・混合していけば文化対立はなくなるんでしょうか・・・。道徳の授業は「知としての道徳」で、心に直接は届かないとふと思ったのですが・・・言えばよかった。フロイト組のみなさん、おつかれさまでした。

  • 戦争ネタが多い。具体例が詰めてあって反論できないです。

  • 学校で教えられた道徳は押しつけだったのでしょうか。学校では、人間としての(大多数の人間が考える)美徳を教わったけれど、それをどう考えるかは人によって変わってくると思います。そうして人それぞれの価値観ができ上がるんだし、道徳も人によってちがうんだと思います!

  • 今日議論があまり深まっていかなかったような気がして残念でした。報告者やコメントの人が自分の論に対して「現実的に無理」と言ったり、簡単に反論を受け入れたりすると萎えます。

  • 実は戦争が文化の対立に見えるのは、外部の遠い人々の理解しやすい解釈でしかないのです。

  • 戦争をなくすためには、文化相対主義なのか、国連のように1つの基準をもうけるべきなのかはとても難しい問題だと思います。でも難しいからといって、放棄すべき問題ではないし、人として考えなくてはいけないと思います。

  • 今日はスムーズに話し合いができて楽しかった。司会も上手だったと思います。道徳のことにも触れられて楽しめました。

  • 報告者1の感想  ◯◯先輩の例えがとてもすばらしく、感激しました。先生の質問は返答を用意していなかったので、一番苦戦しました。もっと、学習を深めていきたいです。

  • 報告者2の感想  質問されていることをきちんと理解し、的確な答え方をしたいと思った。この経験を次に生かしたい。

  • コメンテータ1の感想  社会の上層部の人達が自立した思考=良心を持っている人たちだとしたら、ルワンダ紛争で差別されている人たちのことは考えずに、紛争を止めようとするだろうか。

  • コメンテータ2の感想  今回コメントを担当したんですが、戦争をなくすための対策を抽象的に論じてしまったため、もう少し、具体的に現代にあてはめて考えたいと思いました。

  • 司会者の感想  司会の仕事は思ったよりも大変でした。私にもっと技術があれば、もっと上手く話をふって、議論を盛り上げる事ができただろうと思い、残念です、反省しています。みなさんの話はレベルが高くて、いつもながら感心しました。


2011年6月30日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第11回 ニーチェ『ツァラトゥストラ』

対象文献:
ニーチェ,丘沢静也(訳),『ツァラトゥストラ 上』,『ツァラトゥストラ 下』,光文社古典新訳文庫


以下、出席者の感想。

  • 今日はすみませんでした。様々なニーチェ像の捉え方を聞けて良かったです。担当の皆さんお疲れ様です。

  • 今日の孤独についての議論は非常におもしろかったです。私個人としては、孤独やさみしさは打ち勝つべき対象ではなくて、超越するべき対象であるように思います。◯◯さん[=フロア1]の中庸や空の話にはとても共感ができました。でも◯◯さん[=フロア1]の言う中庸は、どちらかというと「悟り」に近いのかなとも思いました。今日は◯◯君[=コメンテータ1]が集中砲火をうけていました。おつかれさまでした。

  • ◯◯くん[=報告者1]のレジュメの内容が、これまでと違い、著者の心情について考えているのでおもしろいなと思った。○◯さんが司会でしたが、暴走してたと思う。自分の聞きたいことばかりを聞こうとするのではなく、もっと他の人の意見を中心にしていったほうが良かったと思う。

  • ニーチェの考えは「善悪の彼岸」という書名が示すように、二項対立的な価値図式を乗り越えることにあるという理解を、今日の討論を通して再認識することができました。

  • 人の成長にさみしさ、孤独は必要なのだと思います。なぜなら、傷みを知るからです。さびしさなどで心が傷いた時、それを乗り超えることで、他人に優しくなれると思います。少なくとも、自分中心の考え方はなくなるでしょう。

  • 私は私しか信じられない。ああ孤独だ。

  • 孤独といっても人によって考える内容は異なると思う。

  • 「孤独」ということに関して、自分を理解してくれる人がいない状況から、孤独に打ち勝つというのは、孤独という状態から抜けだすのか分からなかったです。

  • 孤独は単にさみしいものだと思っていた。しかし、孤独を見つめることで、生まれるものがあるという考えはとても新鮮だった。孤独でいることをさみしいと思うことは、もしかしたら損なのだろうかと思った。

  • 論点が次々に移り変っていって、ついていけない時があった。

  • さびしさを乗りこえて、その先に何かを見つけることができた人はいないのではないかと思う。

  • 中庸って、なんだろうか。中国の思想でも出てきたし、ギリシア哲学でも出てきたし。中庸はキリスト者の徳のあり方として使われていると報告者は言うが、中庸とキリスト教のつながりがよく分からなかった。ニーチェはおそらく孤独だったろうな。男の人に孤独は似合うのかな。でも、女の人も、家帰って1人になれば、孤独だなぁって思うと思うなぁ。

  • 孤独感とか、やっぱりふと感じるときありますよね。普段生活しているときも。自分でも、そういうときって、自分の中でぐるぐる悩みすぎてるときであって、自分の中で解決してるものですよね。自分勝手な感覚ですよね、孤独感。

  • ニーチェがどんな心境でこの本を書いたのか、は全く考えなかった。寂しさを伝えたかったのかは分からないが、孤独感を味わった中で考えたことを文章にしたのかな、と思う。

  • 報告者1の感想  みんなの考え方を聞くこと、やっぱり、すごく楽しい。もっとニーチェの思想とはどんなものかについて知りたくなった。

  • 報告者1の感想  具体的な考えがないと質問されたときに困るということがすごく感じました。

  • コメンテータ1の感想  今回は失敗したと思う。きちんと整理してから後半の議論について書けばよかった。反省します。あと報告者がもう少し話せればよかったと思う。

  • コメンテータ2の感想  いつになく深いテーマだったように思います。本の内容から広がりのある議論ができました。まあ「理解する」といえど感情は人それぞれですし、人は皆孤独なんだと思いますが・・・。ニーチェ組の皆さん、おつかれさまでした。あと、◯◯ちゃん[=司会者]! 仕事とっちゃって申し分けなかったです。

  • 司会者の感想  初司会ー(>_<)!! いきとどかなくてごめんね。ユルすぎた!?


2011年6月23日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第10回 マルクス『経済学・哲学草稿』

対象文献:
マルクス,長谷川宏(訳),『経済学・哲学草稿』,光文社古典新訳文庫


以下、出席者の感想。

  • 今回は、労働すること、が関わってくる内容だった。まだ実感が湧かない話題だが、現在の制度など様々な方面から考えられるのだなと思った。

  • やりたいことを仕事でもやれる人は、実際どれくらいいるのかが疑問に思った。

  • 同一労働同一賃金とした場合、労働者としては、労働時間が短縮されると思いますが、会社側としては不利益となると思います。そのため、同一労働同一賃金は実現しづらいし、単純に短縮されるとは思えません。労働=お金を得ることならば、ボランティアをするような人々は、何を求めているのでしょうか。聞いてみたかったです。時間があったなら・・・。

  • 最後の議論で、精神的満足は労働だけに限られるのではなく、生活を通して全てにおける満足感なのではないかと思った。

  • 労働することに生きがいを感じる人間になりたいと思った。私も働いたことがないから、夢見心地なかんじがすると思うけど、私もお金よりも精神的満足のほうを優先したいです。

  • 今日はレベルが高かったです。担当の皆さんお疲れ様でした。精神的満足を得られる職に就きたいなあと切に願います。

  • 最近、職について考えることがあるので、自己実現ができる職はあるのか、についても考えるきっかけになりました。

  • 経済の話でした。全く分かりません。やっぱり感想もどきで逃げるしかなかったです。いまの日本見てると何主義がいいのか分からなくなってきます。マルクス組のみなさんおつかれさまでした。

  • まだ働いたことがないので、精神的満足(◯◯くん[=報告者2]の話のことですが)が、自分のなかの感覚でしかなんとなく分からなかったのが残念だった。

  • 報告者のレジュメは2人ともわかりやすかったです。特に◯◯君[=報告者2]の内容は、現代の日本に応用するものだったので大変興味深かったです。でも「精神的満足」は資本家との関係ではなくとも労働者自身の中でも達成しうるものではないかと思います。

  • 労働とは何のためか、についてふかく考えさせられた。働くことはむずかしいですね。

  • 労働による精神的満足は従属的だと感じずにいられることだけでなく、労働によって人生が充実していると感じられることだと思います。

  • どちらの発表もかなり理想主義的だなあと思いました。現実への適用可能性は低い。

  • 人間の定義は「他とともにある(mitanderenSein)」とカール・レーヴィットが述べるように、他者と自己との関連について考察することは現代哲学の本質をとらえることに他ならないと、今日の演習を通じて再確認しました。

  • 報告者1の感想  後半の労働についての議論にも加わりたかったが、知識不足を感じました。だから、もっと社会勉強をしたいです。レジュメももっと簡潔に書きたかったです。

  • 報告者2の感想  自分の表現力はまだまだだなって思った。中々言いたい事も伝わらなかった・・・。自分は変にへ理屈で議論が熱くならなかった。申しわけないです。

  • コメンテータ1の感想  現代の日本の状況と重ね合わせた意見の多い現実的な議論だった。報告者の意見とコメントの論点がずれてしまったのが致命的だったと思う。

  • コメンテータ2の感想  私のコメントに、報告者からしかコメントがなかったのはさみしかった・・・。私はコメントの製作過程の前半で、社民主義に傾倒しかけたが、じっくりよみこむことで冷静になることができた。今回は準備していて楽しかった。

  • 司会者の感想  司会難しかったです。いつもと違うように進めてみようと思ったのですが、討論もいつもほど広がらなかった印象で、失敗したなと思いました。


2011年6月16日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第9回 カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』

対象文献:
カント,中山元(訳),『永遠平和のために/啓蒙とは何か』,光文社古典新訳文庫



以下、出席者の感想。

  • 「未成年状態から脱却すること」についての報告で“理性”とは何か、という議論で、ただ従うことより、それだけではダメではないか、と考えることも理性の働きによって成されるものではないかと思った。

  • 今日の話は前2回よりはついていくことができた。平和・戦争、啓蒙について議論できてよかった。みんなが発言を進んでしていて、「なんかいいなあ。」と思った。

  • 理性を否定することは人間を否定することである。

  • カントの理性概念のうち、理論理性は悟性と実践理性の中間的段階として、若干の個別的認識を反映していると考えていましたが、その限界について今日の議論をふまえて再度調べておく必要性を感じました。

  • ◯◯くん[=報告者2]に、「戦争=悪」と考えることから、戦争にも良い部分、悪い部分があることを考慮することで何が得られるのかということをきいてみたかった。

  • 質問、意見を言うタイミングが難しかった。

  • 冷戦ってどうやって終わったんだっけー? ◯◯ちゃん[=報告者1]ナイスファイト

  • 「未成年状態から脱却すること」についての報告で“理性”とは何か、という議論で、ただ従うことより、それだけではダメではないか、と考えることも理性の働きによって成されるものではないかと思った。

  • 今日の話は前2回よりはついていくことができた。平和・戦争、啓蒙について議論できてよかった。みんなが発言を進んでしていて、「なんかいいなあ。」と思った。

  • 理性を否定することは人間を否定することである。

  • カントの理性概念のうち、理論理性は悟性と実践理性の中間的段階として、若干の個別的認識を反映していると考えていましたが、その限界について今日の議論をふまえて再度調べておく必要性を感じました。

  • ◯◯くん[=報告者2]に、「戦争=悪」と考えることから、戦争にも良い部分、悪い部分があることを考慮することで何が得られるのかということをきいてみたかった。

  • 質問、意見を言うタイミングが難しかった。

  • 冷戦ってどうやって終わったんだっけー? ◯◯ちゃん[=報告者1]ナイスファイト もちろん、他のメンバーも☆

  • 戦争に対する考えが、人によって違うということを改めて感じました。驚きました。でも違う面から平和を見ることができて、視野が広がりました。

  • 戦争のメリット・デメリットについての議論が白熱していましたが、私は頭が混乱していて、あまり話についていけませんでした。平和とは何かについても考えさせられました。

  • 戦争と平和の回でした。広辞苑で「平和」をひくと、(1)やすらかにやわらぐこと。おだやかで変りのないこと、(2)戦争がなくて世が安穏であること、とあります。ですが、そこに人々の心やその「平和」の後のことも考えると、体感的な平和についてはまた変わってくるんだな、と思います。あと、やっぱり戦争はよくないです。「百害あって0.5利」くらいです。カント組の皆さん、おつかれさまでした。

  • 平和の在り方を考えさせられる討論だった。「平和=善」とは言えないのでは、という視点には驚いた。

  • ◯◯さん[=報告者1]の論は抽象的な内容が多かったため議論になり、そういう意味では良かったのではないだろうか。

  • 今回の議論では、様々な戦争や革命名が出て来たが、あまり詳しくないので、若干話についていけない部分があり残念だった。皆の思う“平和”について知れて興味深かった。

  • 「平和」の定義や戦争に関する考え方は、統一されているように見えて実は多様なのではないかと思いました。自分なりの意見ですが、帝国主義時代の侵略戦争では、領土を広げるという目先のメリットだけにとらわれてしまった部分があって、戦争が多発したのではないかと考えます。現在「戦争が悪い」と言われているのは、戦争が生む不利益が過去に行われたそれによって明示されたからではないでしょうか。

  • 戦争についての話がおもしろかった。ワンピースの「勝った方が正義だ!!」という名ゼリフを思い出した。

  • 報告者1の感想  今回は報告を担当したが、自分がある仮定を立てる場合にさまざまな局面を想定することが必要だと思った。

  • 報告者2の感想  戦争大好き

  • コメンテータ1の感想  コメントだったんですが、報告者に対する意見を考えるって難しいです。ですが、今回は平和と戦争について深く考えることができてよかったし、解決不可能な問題だと思った。

  • コメンテータ2の感想  疲れましたの一言です。でも、結構がんばれたと思います。今回のことが、フロイトで生かせたらいいと思います。お疲れ様です!!

  • 司会者の感想  初めての司会、まとめるのほんとにむずかしい・・・。


2011年6月9日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第8回 ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿』

対象文献:
ルソー,中山元(訳),『社会契約論/ジュネーヴ草稿』,光文社古典新訳文庫



以下、出席者の感想。

  • 今日は報告も議論も難しかったです。皆さんが話していることを理解するのが精一杯でした。

  • 類型化はその思想を述べた時点でそれが成されているのか、またそれが誰によって成されるのかが分からなかった。

  • 違和感を感じた部分はあったが、それをまとめることができず、質問することができなかった・・・

  • 平和が一番、とは限らないかもしれない。

  • ◯◯[=報告者2]さんのいう「類型化」は「定義付け」なのでしょうか。定義付けは1つのものしか生まれず、類型化は複数のものが生まれるのでは?

  • 平和について。国によって文化などの食い違いは存在する。よって争いが避けられない国同士もある。それらの国に必要なのが圧力、友好な国には協調といったように、場合分けがなされるのではないか。

  • すべてのテクストは読者の解釈に依存しているという「作者の死」概念が最先端のテクスト解釈理論でないことを知り、勉強になりました。

  • 自分の論構成能力のふがいなさに腹が立ちます。何が言いたいのか、それが、言葉を発する内に見えなくなってしまいそうでした。もう少し、論を組み立てられるようになりたいです。今日は、疲れました。

  • テキスト論についての話がおもしろかったので、深く勉強してみたいと思った。

  • おそらく今までで一番話題が広かったのではないでしょうか。にもかかわらず、何も言うことができませんでした。やはり苦手意識は大きいです・・・ 次回はカントさんです。大好きな人です。発言できるように頑張ります。「ルソー組」の皆様、お疲れ様でした。

  • 自分の理解があいまいで若干もやもやが残りました。

  • 政治や哲学思想の基礎知識が無いとついていけないということを痛感した。自分で質問しておきながらよく分からなくなった。

  • テクスト論にまで話が広がった授業であった。○◯さん[=コメンテータ2]のコメントを読んで、平和より大切なものがあり、それを守らなければならないとしたら、平和は実現しないのかと思った。

  • あまり自分の考えがまとまらないまま質問してしまった。結局最初に質問しようと思っていたことではないことをしたように思う。もっと文章を読み込みたいと感じた。

  • 報告者1の感想  報告内容を考えたことはよい経験であったが、内容にもう少し具体性を持たせられれば、と少し不満足な主張のままになったのは少し残念です。

  • 報告者2の感想  今日で発表は終わりです。つかれた。がんばった。

  • コメンテータ1の感想  社会契約論を題材に使っているのに、今回中心となった議論が「ことば」についてだったのが少し残念に思えた。

  • コメンテータ2の感想  思想の討論になると、いつも「普遍的◯◯」の話になるなあと思いました。普遍的◯◯は存在するのか、これからも考えて行きたいと思います。

  • 司会者の感想  司会も難しかったです。あまりスムーズに進めることができなかったんですが、みんなに助けてもらいました。もっと力つけたいです。


2011年6月2日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第7回 ロック『統治二論』

対象文献:
ジョン・ロック,加藤節(訳),『統治二論』,岩波文庫



下記の、フロアからのレスポンスを読むと、社会契約論や自然状態論について馴染みがない人が結構いるみたいなので、ものすごく簡単に解説しておきます。次回もルソー『社会契約論』なので。

私たちは何らかの統治秩序が成立している中に生まれます。統治秩序の中では、法律によって、(法的な意味で)してはいけないことや、しなければいけないことが決まっています。つまり、私たちは、一定の法的な制約の中で生まれ育ちます。もしこの、生まれたときからある制約を絶対視するしかなく、そこから距離をとることができないなら、私たちは〈別の可能性〉を考えることができません。〈別の可能性〉、特に、もっと良い可能性を考えることを、批判と呼ぶとすれば、自分がその中にいる統治秩序から距離をとることは、その統治秩序を批判するためにまず必要な条件です。

今回のロックをはじめとする社会契約論が、この〈批判のための距離化〉を可能にするために使うのが、「自然状態」という想定です。要するに、本来人間というのはこういうものであるが、それに較べて現在の統治のあり方は・・・という感じで距離をとり、「本来こうあるべきものが、現実にはこうなっている、けしからん」という形で批判するわけです。実のところ、「自然」という言葉を使うかどうかは、議論の形式にはあまり関係がありません。

ともあれ、現在存在していない自然状態に依拠することで、現在存在している統治秩序を批判するというのが、社会契約論の基本骨格です(本当はこの両者のあいだに「契約」という契機をはさむことがすごく重要なのですが、今回は省きます)。そのため、自然状態をどのように設定するかによって、現存統治秩序のどのような点を、どのような方向に批判できるかが変わります。批判の妥当性が自然状態の設定の妥当性に依存するわけですから、読者としては、(1)自然状態の設定が妥当かどうか、を確かめた上で、(2)現在の統治秩序に対する批判が、自然状態の設定から論理的に導出されるものになっているかどうか、を検討するというのが、まず必要な作業だということになるでしょう。

さて、報告者1は、ロック版の自然状態において、物や身体・生命に対する所有権だけでなく、この権利の侵害者に対する処罰権までもが、各個人に与えられているという設定に疑義を呈します。処罰権を個人に与えてしまうと、過剰な重罰の科し合いが起こり、それなら絶対君主制の方がましということになってしまうだろう、というわけです。処罰権というものは、自然状態においては存在せず、社会契約によって国家をつくるときに、国家の権能の一つとして、そこではじめて生み出されるべきものだ、というのが報告者1の見解です。

これに対し、コメンテータ1は、それだと処罰というのは国家が行うものだけになるが、国家の手を煩わせることなく、個人間で科し合う罰というのも存在するはずであり、それゆえ処罰権は個人の自由権に含まれるが、「政治社会は不当な重罰を避けるために、個人の処罰する自由を制限しただけ」だといいます。

コメンテータ2は、報告者1とロックが、自然状態における個人の処罰権の有無について正反対の立場をとりつつ、社会契約によって国家が処罰権をもつという結論部分は共通であることに着目し、秩序の安定/不安定を分けるのは、個人が処罰権を持つか否かではなく、国家が処罰権を持つか否かであることに注意を喚起します。

報告者2は、ロックが出している、社会契約後の統治秩序においても、「法に訴える時間がなく、損失が(発生すれば)回復不可能な場合には、(潜在的)侵害者を殺してもいい」という趣旨の議論に対して、ロックがここで想定している回復不能な損失というのは生命のことだが、しかし、たとえば「1回きりの特別なイベントへの参加を妨害される」といった事例にも、回復不能な損失が含まれており、そのような場合でも相手の殺害が正当化されるというのは反直観的だ、といいます。その上で、ロックの議論を完成させるには「回復不能な損失」を「生命」に限定する必要があると主張するわけです。

これに対して、コメンテータ1は、「相手を殺す」ということの反直観性は、近代的な生命観のたまものであって、反直観的だからだめだという議論は普遍的には成り立たないと指摘します(これは、反直観的でないだからいいという議論も普遍的には成り立たないということを含意している・・・のでしょうねたぶん)。

他方、コメンテータ2は、回復不能な損失を防ぐための個人的防衛手段として「相手を殺す」しか考えていないことに疑義を呈し、生じうる損失の程度に応じて適切な暴力的防衛手段(「足を踏みつける」とか)を考えれば、損失の種類を生命に限定する必要はない、と指摘します。


さて、報告者・コメンテータが問題にしている各論点はそれぞれ面白いし、ロックのテクストに基づいた再反論がさまざまに可能でしょうが、それはまあ、各自に任せましょう。最後に言っておきたいのは、自然状態において「人間とは◯◯だ」という設定をするわけですが、そこで問題になっているのが、経験的なこと(・・・である)なのか規範的なこと(・・・べきだ)なのかをつねに明確に区別しよう、ということです。事実上のことなのか権利上のことなのか、と言い換えてもかまいません(「権利上殺すことができる」からといって「事実上殺すことができる」わけではありませんよね)。この両者を区別した上で、人間の本来性(自然状態)の設定に、「権利」の言葉で述べられるような性質を入れていくという議論の特殊性に注意しましょう。まあ、この話は次回以降もしばらく続くでしょうから、今回はこのくらいで。

なお、今回のゼミでは、ちょっと私がしゃべりすぎてしまいました(ちょっと疲れていたので・・・疲れていると抑制がきかなくなります)。司会者にはご迷惑をおかけしました。すみません・・・

以下、出席者の感想。

  • 今日は三谷先生がいっぱい話していました。

  • ロック思想の核心は、王による規範が崩壊した後に、個人と個人が合意を通じて望ましい状態の実現を模索する点に見出されるため、現代でも全く意義が損なわれていないことを再確認しました。

  • 後半の三谷先生の議論をもう少ししたかったです。途中で切られてしまったのは残念です。でも◯◯くん[=報告者2]の報告に対しても十分に議論される必要がありましたよね。司会者はよく配慮していたと思います。行き届かないことをいってごめんなさい!!

  • 一番苦手なあたりの論に入りました。苦手なだけあって、どうも理解が進まず、発言もちぐはぐでした。次のルソーの話ではこんな事がないようにしたいものですが・・・。レジュメはどれも読みやすく、司会もおちついていて良かったと思います。「ロック」メンバーの皆様、おつかれさまでした。

  • 難しかったです(笑) そもそも自然状態ってなんなのか、罰ってなんなのか、自分の中でずっとぐるぐるまわってた、今回はそんなかんじでした。

  • 今日のはよく分からなかったのですが、ロックの自然権の基準は、他人の所有物を侵害せず、自由にふるまうこと、であるように思います。

  • 処罰は権利なのか、どこまでが処罰なのか、境界があいまいな議論だったが、ロックの考え、報告者、コメンテーターの考えが混ざり合って深い内容だったと思う。思考が追いつかなかった。

  • 話の内容(特に◯◯くん[=フロア1]の言った重罰等や◯◯さん[=フロア2]のフィクションについてが出てきた話)に全くついていくことができなかったので、発言を積極的にしたいです。

  • いままでは正義や人についての議論であったのに、社会の制度が議題となったため、倫理を選択していた人たちはあまりついていけてないような印象があった。○◯さん[=報告者1]は、法に基づいてしか処罰できないと言っているように感じるので、「いたずらをこらしめる」ようなことでも許されないのだろうか、と思った。

  • 高校で学んだ知識なのに、いざ議論するとなると、こんなにも難しくなるのかと改めて思った。

  • 自然状態とは何か、深く考えさせられた。

  • 抵抗と処罰の関係について、抵抗は社会的な制裁を加えない個人間で、その個人間でも解決ができなくなったときに社会的な制裁として処罰ということが必要だったのではないかと思います。

  • 罰の基準とは何か、正しい暴力と不当な暴力の線引きとは、など、難しい質問がたくさん出ました。被害者の立場や私情など、多くの要因が存在すると思います。ですが、私的制裁のようなものは、道徳的には許されません。これから、考えていく課題になりそうです。命が失われそうな時、人を殺してもよいとするなら、戦争は許されるのでしょうか? 殺さなければ殺される状況、しかし、ここでも道徳的には、決して許されないのではないでしょうか。

  • 現在の政治状態を正当化するために政治書を書いた、ということを見落としていた。今回の議論は難しかった。

  • 罪と暴力の違いやそれが定義づけられる範囲について、この回では考えきれないことが多かったので、自分でももう1度考察したいと思いました。

  • 報告者1の感想  ロックは、「恐ろしがらせる程度」(これくらいならおそろしいと思うだろう!とバツを加える人が思う程度)が“罰”だと定義していて、私もそうだと考えています。その場合に、「程度」が罰を加える人にねじまげられるんじゃないか、と思いました。

  • 報告者2の感想  このような報告、発表の場では特に、自分の言葉1つ1つに責任を持たなければならないと思った。自分が議論する前提となっている状態をしっかり把握しなければいけないと思った。報告を担当して、とても大変だったが、色々勉強になってよかった。

  • コメンテータ1の感想  処罰権とは何か? その根本的な問題を設定せずに議論を展開してしまった感がある。

  • コメンテータ2の感想  報告に対するコメントの入れ所がなかなか見つからず、苦労した。自然状態や社会契約についての知識も積み重ねていかなければならないと思う。

  • 司会者の感想  処罰、罰をどう捉えるかは気になる。それぞれの意見が自然状態前後でどう違うかも考え所と思う。


2011年5月26日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第6回 パスカル『パンセ』

対象文献:
パスカル, 前田陽一・由木康(訳),『パンセ』,中公文庫



以下、出席者の感想。

  • 司会者の方が色々工夫をしていてたくさんの意見がでてよかったと思う。

  • 価値判断を抜きにした純粋な中立的状態が成立しないことは、科学哲学上の観察の理論負荷性を考慮すれば自明となろう。[以下、「感想1」

  • 「行為の善悪」と「正義」、「人間の原初の状態・区分け」に関する議論でした。発言もなんとかできました。時間が足りなくなってしまったのは残念ですが、とても有意義だったと思います。パンセ組の皆さん、お疲れ様でした。

  • 大学生活の疲れがたまってきた自分にとって、「パンセ」の本は何とも言えない重さだった。

  • ◯◯さん[=「感想1」の書き手]の考え方にすごく共感しました。人間は文化の中で生きているので、それを抜きには考えられないと感じました。

  • 自分が報告に返論したその返答にすぐ納得するのではなく、何度も自分の考えを示していきたいと思いました。

  • パスカルは文化相対主義的な考えを持っていたのかな、と個人的に思いました。担当だった皆さん、それぞれ考えを持っていて素晴らしいと思います。

  • 「人間のあるがままの状態」は、結局どういうものなのだろうと感じた。色々な人の「人間のあるがままの状態」についての意見を聞いてみたい。

  • 自分は「邪欲」という言葉を◯◯さん[=報告者1]のように考えていたので、◯◯さん[=コメンテータ1]のとらえ方はおもしろかったです。◯◯さん[=報告者1]はどのように思ったのか訊いてみたいです。◯◯さん[=感想1の書き手]の考える「人間のあるがままの状態」とはなんなのだろうと思った。

  • 今回はみなさん自論がわかりやすかったです。600ページを超える本を読み切ったみなさん、お疲れ様です。司会の◯◯さん(=司会者)もがんばっていました。

  • 思考が止まってしまった。

  • 思考の言語化、この難しさに直面。家に帰って考え直してみると考えがまとまるんですけどね。また次回からがんばります。

  • 正義は、それを行う人によって、見方が変わる。では、普遍的な正義は存在できないのではないだろうか? 最後の方の討論で、もし、宗教を一つに統一したとしても、別の宗教が生まれるのではないかと思う。そして、あるがままの状態になることはできないのではないだろうか。生物である限り、生きようと、子孫を残そうとする。平和には、ならないのではないだろうか。

  • 今回も発言ができなかった。残念。欲の善悪、というのは自分としては新たな視点だった。

  • 報告者1の感想  なんだかうまく発言できなくて自分の口下手さを感じました。またレジュメのほうも、あまり考えが及んでないところがたくさんあって、思考力のなさも感じました。でも、新たな考えにも触れることができ、よかったです。

  • 報告者2の感想  普遍的正義について考察するためには、わく組みにとらわれることなく考えることが必要だとしたが、わく組みをなくして文明社会で生きる私たちが正義を考えることはできないんじゃないかと思いました。

  • コメンテータ1の感想  レジュメを熟読したにもかかわらず、議論に参加できなかった自分が情けない。自分の考えをしっかり言えなかった。考えていることを筋道立てて言えるようにしたい。

  • コメンテータ2の感想  やっぱり理想論だけではだめですよね…

  • 司会者の感想  自分の失敗で、貴重な議論の時間を失ってしまった!! 自分の今日の目標は、なるだけ多くの人に発言していただくこと、報告者・コメントの4人全員のレジュメについてふれる、ということだった。達成できたかな?


2011年5月19日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第5回 デカルト『方法序説』

対象文献:
デカルト,山田弘明(訳),『方法序説』,ちくま学芸文庫



以下、出席者の感想。

  • レベルの高い議論でした。追いつくので精一杯というか…。頭がオーバーヒートしています。次からの討論に、生かしていきたいです。

  • ○◯さん[=報告者2]の報告では、デカルトの意見に即して意見がなされ、分かり易い内容だった。△△さん[=報告者1]の報告は視点は面白かったが、少々分かりづらいと感じた。

  • もっと本書を読みこめばよかったなと思った。みなさんのレジュメはとても苦労したろうなと思った。

  • 神は存在するという定義を前半に議論が長くつづいて、その理解をするのに大変で、もっと自分の考えも進めるのを早くしたいと思いました。

  • 少し発言できた。あてられてからですが(笑) 今まで議論で話されていることを理解できなかったが、それってやっぱり自分でちゃんと理解しようとしてなかったからだなあと思った。これからはもっとみんなの話に耳を傾けていこうと思う。

  • 今日は話に全くついていけませんでした。皆さんが何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。頭痛がするほどに自信がなくなりました。もっと本を読みこんでがんばります。

  • 細かいことだけど、△△さん[=報告者1]のベン図は、疑う⇔不完全が成り立つので、必要十分条件なのではないかと思いました。でも、図を使って説明するのは分かりやすいし、良い考えだなと思いました。

  • 話を切り出すタイミングが分からないと疑問が残ってモヤモヤするので、もっと早いうちに言えば良かった。議論に耳を傾けて反論できるようになりたい。

  • コメントで「偽からは何も得られないとは思わない」とあるが、ここでの“偽”は真(絶対なこと)と偽(絶対でないこと)ということだと思うので、ここでそのことわざを使っても偽は絶対ではないのだから、どんなに失敗しても一向に真には近づけないのではないかと思った。

  • デカルト哲学の基本的なアウトラインは今回の発表でおさえられていたが、デカルト哲学の真の価値は理性という探求のゴールを設定したことよりも、懐疑論の否定的側面にこそ求められるべきではないか、と感じた。

  • デカルトは神は存在するとしているのに、△△さん[=報告者1]は神を概念に存在するものという考えに至ったのはなぜであろうと思った。

  • 「神」って難しいなあと思った。レジュメの書き方、読み方も参考になった。

  • 神は不完全な人間が考えたものなので、神は完全ということはないと思う。

  • 難しくなってきた…。自分が情けないことです。今回は神がいるのか、いないのかなどを疑問する前に、前提条件などをきちんと整理することが必要だと思った。

  • 三回目にして初のフロアーです。二人ともレジュメが高度すぎて、疑問すら見つけられませんでした。もう少し理解が欲しいところです。司会もとても上手でした。時間が過ぎるのがとても速く感じました。

  • 報告者1の感想  結局、自分の展開方法に欠点があったのかなと思いました。もう一度見直したいと思います。

  • 報告者2の感想  こんな大変なのがもう一回あるんですね。何かもらえるんですか?

  • コメンテータ1の感想  コメントするのも大変なんだなぁと思いました。書いているうちに自分の中で混乱してきて、これは報告者へのコメントになっているのかなど、とても不安だった。

  • コメンテータ2の感想  自分の主張を述べているうちに頭の中がごちゃごちゃになってしまった。もっと自分の考えを明確にしておくことが必要だと思った。

  • 司会者の感想  もっと全員の理解度が統一できれば良かった、時間配分が下手くそだった、など反省点しか見当たりませんが、貴重な経験をさせていただけたなぁと思います。○◯さん[=コメンテータ1]、コメントについての議論にもっていけなくてごめんなさい!! この経験が次につなげられるように努力したいと思います。報告者、コメンテーターの皆さん、本当にお疲れ様でした!


2011年5月12日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第4回 アリストテレス『哲学のすすめ』

対象文献:
アリストテレス,廣川洋一(訳),『哲学のすすめ』,講談社学術文庫



以下、出席者の感想。

  • やはり哲学というのは唯でもできるのではないかと思う。考えるだけでよいので、時、場所を選ばず、どんな年齢の人でもできるからだ。まあ、そもそも哲学という言葉の意味自体分かっていませんけど。

  • ◯◯氏[=報告者2]の論文では、私はなかなか穴を見つけることはできなかった。一つもやもやしていることは絶対的善と相対的善のことである。相対的善とは主観的なものであると思ったのだが、主観ではない正しいものが見えてこないこともある。もっと大きい視点から見た絶対的善も存在するのではないかと思った。

  • 正直よく分かりませんでした。哲学の意味がそもそも自分ではよく分からなくて、なかなか発言できませんでした。「なんで人は生きてるんだろう」とかはやはり誰しもが考えることで、アリストテレスが人間じゃないとみなした奴隷でさえも、やっぱり「自分らってなんで生きてるのかな」って考えるときはあったと思います。つらい境遇にあればあるほどそうだと思います。頭が疲れました。

  • 善に関するアリストテレスの議論から、個と社会との関わりについて後世発展することになる確信が導き出されることを再確認しました。

  • 哲学的なことではないかもしれないけれど、一人一人が本当に得たいものを得るときに魂がよくなるのだと思う。「善い」ものについて考えるいいきっかけになった。考えを深めていけばその先に自分の人生に本当に必要なことが見えてくるのではないかと思う。

  • 最後に話に挙がった、利益や快楽に関してですが、哲学を勉強している人で、哲学が嫌いな人は、中にはいるかもしれないけど、大半の人は好きでやっているんじゃないかと思います。私としては“好きなもの”は快楽につながると思うし、哲学は私も結局自分の知識を深めたりするうえでは利益になるのではないかと思います。言いたいことがまとまらず、発言することができなかったので、次回はもっと積極的に議論に参加していこうと思います。

  • 正直なところ準備不足でした。あまり読み込んでない上に、自分の考えもまとまっていなかったので、頭の中がごちゃごちゃになりました。うまく質問したり意見を言うこともできなく、申し訳なかったです。そもそも哲学とは何なのかがわからないです。このことが心に大きくひっかかって気持ち悪いです。

  • 時間の関係で発言を控えていましたが、美しいもの、善いものというのは、幸せなのではないだろうか。幸福を感じた時、幸せだなあと感動すると思いますが、アリストテレスもこの感動こそを求めるべきだと思っていたのではないだろうか。よりよく生きること、というのは人によってさまざまあり、庶民にも、もっと幸せというのを知ってもらいたい、もっと哲学してもらいたいと思って、多くの層の人に対してこの本を書いたのだと思いました。

  • アリストテレスは哲学をだれがするものだと考えていたのか。今日の一大テーマだったように思います。結局、奴隷は人間とみなしていないのでそれ以外の人々ということなのでしょうか。

  • 「哲学する」ということは、個人的なことなのかもしれないと思った。私は、生きる上で哲学すべきだと考えるけれど、それを普遍的に、誰にでもあてはまるように哲学を定義するのは難しいことだと思った。だから、アリストテレスの論が曖昧になってしまったのではないだろうか。私にとっては、「良く生きるように努力すること」が哲学だと思った。これはこの先、自分の中で変わり得る定義だと思うし、こんな風に、自分なりの哲学に対する定義を、本を読む中で深めて行きたい。

  • 「哲学することとは何か」という根本的なことがらについて考えることができたが、考えれば考えるほど分からなくなってしまった。私は哲学できる人間なのだろうか? と、今日の演習は個人的に考えが深められて有意義だった。考えは思いつくので積極的に発言したい。

  • 利益を得ても、その利益を得た先に何か世の中のためになるような行為をすれば、それはそれで「よく生きる」ことになるのではないでしょうか。利益を全く得ずに喜んで生きることは困難ではないでしょうか。利益自体に善悪はないように思います、がどうでしょうか・・・

  • 着眼点が人によって様々で、自分の気づかなかった点に触れられたことが嬉しかった。

  • 哲学することは善いこと、のはずなのに、人間学コース(哲学)で学ぼうとする人が少ないのはなぜだろう・・・。

  • 今回も報告者の意見がとてもよく筋が通っていて、分かりやすかったです。途中で、“善いもの”というものということについて疑問を自分の中でまとめることができなくて、発言できなかったのが残念でした。

  • 報告者1の感想  開始前はまな板の上の鯉の心理でしたが、いざ調理が始まったら意外と放置されてました。蛇足っぽかったですが、何とか発言も出来ました・・・。あとは理解力の養成ができればなおよいと思いました。質問の趣旨外しすぎでしたし。

  • 報告者2の感想  みなさんに聞きたかった「私たちは哲学をすることができるのか」ということについて聞くことができてよかった。みんな概ね「できる」ということであった。そして私が常々思っていた、哲学すること=よりよく生きること=それって自分に対して利益を求めることじゃない? ということにも本書からは少しずれるが討論っぽいことができた。緊張した・・・。

  • コメンテータ1の感想  先生の友達の研究者は、生活を犠牲にして、哲学をしているのではないでしょうか。哲学することをあきらめれば、少なくとも、普通の暮らしができると思います。でもやはり、そこには情熱があって、そのおかげで哲学をしているのでしょうね。/利益の定義って難しいですね。

  • コメンテータ2の感想  そもそも哲学をするというのはどういうことなのか、哲学をするには何が必要なのか、が大きな論点になったように思う。またそれに関わって、善いものは何か、にも言及があった。一筋縄でいかない題材であったと思う。

  • 司会者の感想  沈黙の恐怖に負けてしまい、スムーズに会を進めることができず後悔が残った。今回は司会ということで、自分の意見・考えをいうことはしなかったが、皆の意見を聞くことができ、自分でこれから考えていくときに参考にしていこうと思う。


2011年4月28日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習A」 第3回 プラトン『プロタゴラス』

対象文献:
プラトン,中澤務(訳),『プロタゴラス』,光文社古典新訳文庫



最初に念のため注記しておきますが、学部1年生のゼミです。さて・・・

報告者1は、ソクラテスがアテナイ来訪中のプロタゴラスのもとに出向くことになる事情を述べた本書冒頭のシークエンスに注目します。そこでは、有名人キタ━(゚∀゚)━!とはしゃいでいる若者に対して、ソクラテスが、知識というのはいったん得てしまったらとりかえしがつかんぞ!と脅し、プロタゴラスから知識を得る前に、その知識とはどんなものか、特に良いものか悪いものかを確かめておくべきだ、と説くわけです。

ここでは、「人がある種の知識を有している状態」そのものが、良い悪いの判断の対象になっています。報告者1の議論は、この前提に対して、果たしてそうか? と疑問を投げかけるものです。知識というのは、もっているだけではなく、利用してこの世界の状態に変化をもたらして初めて――その状態の良し悪し評価を経由して――良し悪し評価の対象となるのではないか、と。報告者1は、「うそをつく」という知識(というよりは技術でしょうか・・・アリストテレス的には技術というのは普遍的応用可能性をもった知識のことだから・・・むにゃむにゃ)について、塞翁が馬的な事例を出してこのことを示していきます。

報告者2は、愚行・悪行の原因を無知(あるいは効用計算能力の欠如)に還元するプラトン=ソクラテスの議論に対し、「わかっちゃいるけど」やめられない/やってしまうという事態(体に悪いのがわかっていてもお菓子を食べ過ぎてしまう)が存在する以上、無知だけでは事態の説明にならないと指摘します。私は、飛び降りないと焼け死ぬのがわかっているのに怖くて飛べない、という映画でよくあるシーンを想像しました。無知だけでは不十分、という知見にもとづいて、報告者2が出してくるのが「意志の弱さ」です。これについては後述します。

コメンテータ1は、報告者1の、「知識それ自体の評価は不可能、その知識がもたらした結果の評価を経由した間接的評価なら可能」という議論に対して、根本的な難点を指摘します。つまり、知識が結果を生む、といっても、その際に、知識と結果は一対一対応するものではなく、人は複数の知識を同時にもっており、それらを同時に使うことで一つの結果を生み出すのだから――「MVPが存在するというよりは、知識の連携プレーのおかげ」――かりに、結果について一意な評価ができたとしても、そこから思考過程を形成する複数の知識それぞれに対する別個の評価を導くことは困難だ、というわけです。

他方、報告者2に対しては、知識(無知)だけでは不十分、という論点を共有した上で、「意志の強さ(弱さ)」ではなく、補完的に必要なのは「理解」だ、とします。ここでいう「理解」とは、良い悪いを単に知っているだけでなく、良い悪いの価値判断を「心から信じ」ているということだそうです。この点については、良い悪いのような価値判断を、「理解」することなく「単に知っている」という事態が可能なのか、また報告者2のいう「意志の強弱」との関係はどうなるのか、という点が気になるところです。

コメンテータ2は、学部時代に印哲を専攻し、卒業後も洋の東西を問わず哲学の勉強を続けてきたそのキャリアを活かし、二人の報告者の議論を、東西哲学史の中に位置づけたうえでその限界を指摘する、という、なんだかすごいことをしています。

コメンテータ2が両報告者の議論を高く評価するポイントは、両者ともが、現象を原因/結果の2つに分割することの帰結を、ソクラテス以上に正しく、粘り強く捉えているということにあります。2つに分割されたものに対し、良し/悪しという2分図式で評価を加えるということは、本来は2×2の4通りの可能性を考慮しなければならないのに、ソクラテスは良い原因-良い結果、悪い原因-悪い結果の2通りしか考慮していないこと、そして両報告者はその「頑迷さ・非柔軟さ」に由来する問題点を正しく指摘していることを、評価しているわけです。

そのうえで、報告者1に対しては、「知識それ自体」の評価不可能性、価値中立性を主張する議論は、哲学史的にはナイーヴすぎるのではないかと指摘し、また報告者2に対しては、「良い結果」を生じさせるのに「意志の強さ」だけで十分なのか、個人に帰属可能な性質を超えて、「神もしくは運命という壮大なエネルギー」を考慮する必要があるのではないか、と指摘します。これらはいずれも、重大な論点を含んでいるように思いますが、コメンテータ2の議論は、本来「哲学的」な議論が求められるはずの箇所ですら、「哲学史的」な性格が強く出てしまっており、「哲学的」な消化不良感を覚えたのも事実です。

最後に、司会者は初回であるにもかかわらず、大変立派な司会ぶりで、感心しました。報告、コメンテータについてもそうですが、私が1年生のときはこんなにきちんとはできませんでした。初回にお手本を示してくれてありがたく思います。

私の方からの総括を書こうと思っていたのですが、すでに長くなりすぎているのでこのへんにしておきます。あ、でも一点だけ。「意志」「理解」「神/運命」など、新しい概念を出すときには、聞く人の言語的直観に過剰に依存しないように気をつけることが大切です。この種の概念は、論者による問題設定によって張られる議論空間の中の位置づけを明確に定められて初めて、十分に理解可能になります。言葉を言いっぱなしにするのではなく、自分の概念をできるだけ丁寧に提示していくことを心がけていただければと思います。

以下、出席者の感想。

  • 司会者の進め方が上手で場の雰囲気もよく、コメントが沢山でてきて素晴らしいと思いました。

  • 報告者2人とも、独特の観点から述べていて、一生懸命準備してきたんだなというのが伝わってきました。○○さん[=コメンテータ2]についてですが、神の力とか運命っていうのは災害・天災に関わるということでしたが、では◯◯くん[=報告者2]のお菓子の例にもそういった力は関わっているのでしょうか。もし、関わってないとすれば、やはり意志の力で十分だと思いました。観点それてたらすいません。

  • ○○さん[=コメンテータ2]のコメントにあった、1ページ目の最後の行からの“ただし、~分かれるように思われる”が、私にはやはりあまりわかりませんでした。すみません。また感想としては、もっと本をじっくり読むことが必要だと感じました。色々な人の考えが分かるのは、とても刺激になりました。

  • うまく質問ができなかった。でも、自分が感じた疑問を口にし、「なにをするのが最もよいかを分かっていない」で、悪いことをしてしまうかもしれないことがあるという意見の一致を得られたようであった。

  • 「意志」は知識か。/◯◯さん[=報告者2]の「3.プラトンの主張への違和感」のなかで、「何をするのが最もよいかわかっているのにそれをしない」という文が引用されているが、これはだれの考えなのか。/報告者、コメンテーター、司会者の方達が非常に今後のハードルを上げてしまい、ちょっと困ったが、その分がんばらねばと思った。

  • 正直に、ついていくことができない。これから努力していきたい。

  • 報告者の方々の報告を聞いて、行動をしてその結果を分かっていること=知識だということが分かりましたが、人は行為をするときに目的をもって行動するので、その結果を知らない人、つまり無知な人はいないのではないかなと少し疑問に思いました。みなさんの考えが深く考えられていて、私も早く考えをまとめられるようにしたいです。

  • ◯◯さん[=コメンテータ2]がおっしゃっていた、神についてなんですが、私は『プロタゴラス』を読んでいて、努力(良い知識に基づいた努力:良い結果を見通した努力)が報われないこともあるよなーと思いました。○◯さんはそういう時、神に救いを求めているけれど、他の人はどう考えているのかなーということを思いました。/この質問を考えていたら終わってしまったので、次はすばやくがんばりたい・・・。

  • [コメンテータ1が定義する]「理解」は「ある事柄の価値を認めて、それを実際に行動に移せること」というのがよくわかりません。理解=行動ではなく、理解してやろうとする意志がおこって行動するのではないでしょうか?

  • アレテーが「教えられる」か、「られない」かのどちらか、とか、どんな性質のものなのかと詳しく質問すればよかったと思うので、もう少し詳しく聞きたいです。

  • ◯◯君[=報告者2]の「お菓子」の例えが、本の内容をうまく理解できず、自分なりに解釈できなかった私にはよく理解できた。単純な例えではあったが、このくらいかみくだいて考えると分かりやすいということを教わった。

  • ◯◯君[=報告者1]へ。先生の言っている内容と被りますが、私には必ずしも行動の良し悪しは決めることはできないと思います。決まるとしたら死ぬ直前。でもそれでは決める意味はないですよね。結局、「人間万事塞翁が馬」になってしまい、それから思考することができませんでした。/◯◯君[=報告者2]へ。私には意思の強さの他にも何か要因があると思えました。しかしそれが何であるかは私にはわかりませんでした。

  • ◯◯さん[=報告者1]への質問。「知識を伝授されてただちに変化することはない。」とありますが、考え方や認識は変化するのではないですか?例としては、人は平等だという知識を得て暴動を起こした革命者とか。

  • 報告者1の感想 初めての報告、初めての討論ということで、とても緊張しました。自分の言いたいことが、ちゃんとみなさんに伝わっているのか不安です。でも討論を通じてみなさんの意見を聞けたので、とても良い経験になったと思います。

  • 報告者2の感想 自分の読み込みが甘く、至らなかった考え方が多くあったことが残念であった。それぞれの人の『プロタゴラス』に述べられていることの受け取り方が違っていることが哲学書を読むことのおもしろさだと感じた。

  • コメンテータ1の感想 2人の報告者はどちらもよい報告をしていたと思います。がんばった!司会者も初めてなのにかなり要領よく役割を果たしていたと思いますー。◯◯さん[=コメンテータ2]のコメントは難しかった。自分のコメントは、しっかり考えた結果だったのでよくできたと思います。

  • コメンテータ2の感想 意志をめぐる問題が哲学の歴史全体を通じた中心の意義を担うことを再確認いたしました。

  • 司会者の感想 報告、コメントの皆様、お疲れ様でした!レジュメもわかりやすく、話のペースや声の大きさもいい感じでよかったですよ。至らぬ司会で申し訳ありませんでした。先生も度々の助け舟ありがとうございました。


2011年2月3日木曜日

新潟大学人文学部「人文総合演習B」 第14回 鈴木伸元『新聞消滅大国アメリカ』

対象文献:
鈴木伸元,『新聞消滅大国アメリカ』,幻冬舎新書



以下、出席者の感想。

  • 新聞とネットどちらかでいいかどちらもがいいかと言われたとき、私はネットだけでも良いのかなとも思った。手軽だし、最新の情報が出てくるのは、逆に良いことだと思ったので。でも、万人に対して友好的だという点を聞いたときに、どちらもあるべきかもしれないと思った。

  • 新聞がなくなるかもと考えた時、ただメディアの1つの媒体がなくなるだけでなく、色々な問題を抱えているのだとわかった。新聞が社会にうまく合わせていくか、新聞が今担っている役割を請け負う、別の何かが、今後必要になってくるのではと思った。

  • 新聞がなくなったら、どうなるのか考えたことがなかったので、いろいろな人の意見が聞けて面白かった。次回は意見を言えるよう頑張りたい。

  • 「新聞」がなくなりつつある、ということだが、ネットでの配信が進んでいるという。ネットで配信されているものも新聞と読んでしまうのは少し寂しい気がした。これまでの形を失ってしまったものを、それでも「新聞」と呼ぶのには抵抗がある。

  • 新聞は整理されていて、あった方がいいと思うけど、私は日頃新聞を読まないし、ネットの記事も見ない。けど、テレビのニュース番組を見れば最低限の情報は得られるような気がする。

  • 最後の〇〇さんの意見を聞いて、新聞がなくなると地方の情報があまりネットで伝えられなくなったら困る部分もあるんじゃないかと思った。毎日新聞や読売新聞みたいな新聞を読んだことがなかったので、広告の多さに驚いた。

  • 私は新聞とインターネットのニュースは使い分ける人です。ネットのニュースは膨大ですぐに更新されるため、速報として、「そういうことがあったのね」くらいにとらえ、過去のニュースを追いかけて読もうとは思わない。新聞は開いてすぐに記事が目に入るので見やすいし、ネットのようにすぐ流れないのでじっくり読めるようになると思っている。気になった情報があればすぐその面を開けば読めるので、探す手間を考えるとインターネットよりも新聞の方が案外便利な気がする。今回の話は辞書と電子辞書、本と電子書籍の話に似ているような気がする。

  • 来週は発表なので頑張りたい。

  • 新聞とインターネットそれぞれ特性があるであろうが、正確に情報を伝えられるものならばどちらでも差異はあまりないような気がした。

  • 私は新聞は新聞として(紙として)残ってほしい。残るためには何が必要か色々考えた。ひとつは、収入システムを変える、もしくは、何らかの保護をする。ふたつめは、何か新しいアイディアを取り入れる、だ。ブランドの話を利用すれば、人々はみな新聞のよさ、ネットニュースのよさに気付いている。それで新聞ばなれがすすんでいるということは、ネットを要している人が増えているということだと思う。それでも新聞を残すためには、新たな方法を講ずるしかないのかなと思う。あと、ネットでニュース見るのは、新聞をよむより、私にとってはかなり能動的な作業が必要だと感じている。虫めがねとか、ろうがんきょうがある!!!

  • 報告者の感想  ネットと紙の賛否両論があって、自分もまた考えさせられた。10年後にも同じ議論をしたら、私の立場は変わっているかも。反省は、すぐに意見を言葉にして言えなかったこと。分かりづらくてごめんなさい。

  • 報告者の感想  自分の考えの甘さを痛感しました。全然、質問に答えられなくて申し訳ありませんでした。

  • コメンテータの感想  コメントでした。報告者の方とやりとりをしたり、いろんな方のお話を聞いていく中で、新しく疑問に感じたこと(どうしてニュースサイトはもっと見やすくまとめないのかとか)があってたのしかったです。紙の新聞も、ネット上の新聞(ニュース?)もお互いに良い点があると思うので、どちらか一方になったらさみしいとおもいます。

  • 司会者の感想  司会者として、報告者の意見をまちすぎたり、フロアの方にタイミングよくまわせなかったことが反省点です。でも楽しく議論できた点は良かったと思います。